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たまごを割る【短編小説】【6000字】
溶きたまごの中に殻が入っているのを、また見つけた。だれにも気づかれないように、早急に殻を取り出す必要があった。周りを見回すが、調理台の上には菜箸が見当たらない。それどころか、フォークやスプーンなど掬えそうな食器はなにひとつなかった。
カフェとディナーの入れ替えの時間に出勤したおれはだれもいない厨房で途方に暮れた。ディナータイムで使うにもかかわらず、だれかが片付けてしまったのだろう。
佐伯さんの仕業だと思った。佐伯さんは家の慣習を仕事場に持ち込んでくるふしがある。厨房の至るところで、佐伯さんが手書きした張り紙を見かける。ゴミ捨て、洗いもの、掃除などのルールが勝手に決められていて、すこしだけ鬱陶しい。しかし悪気はないので、だれも佐伯さんの善意に文句を言うことができない。張り紙の隅に描かれている流行りのアニメキャラクターの絵が妙に上手くて余計に口ごもらせた。
予想通り、開け放たれたままのステンレス製の収納ラックに菜箸が仕舞われていた。菜箸と仕込みのための調理器具をいくつか取り出して、扉を閉めるとここにも張り紙が張られていた。それは忘年会の参加可否についてのお知らせだった。ご丁寧に雪だるまやサンタクロースの絵が描かれている。よく見ると、回答の締め切りが今日までになっていることに気がついた。名前を一通り確認して、マリさんの前が書かれているほうに丸をした。
手いっぱいに器具を持って戻ると、一足遅かった。すでに噂好きの後藤さんが溶きたまごが入ったボウルを抱えていた。おれは雑に器具を置いて、ボウルに駆け寄った。後藤さんの大声は器具同士がぶつかる音をかき消した。
「店長ー!マリちゃんがまたやってるよー!」しゃがれた声が厨房に響く。毎晩、日本酒の四合瓶をひとりで空けているらしく(マリさんと話しているのを聞いた)、彼女の声はいつも砂を撫でるように枯れている。一年前、アルバイトを始めたすぐの頃よりも、声帯の状況は悪化しているように思えた。
おれは店の外にまで聞こえているのでないかと、連なるワイングラスの下から外の様子を確認したが、ランドセルを背負ったこどもたちや杖をつく老人とそれらを跳ねんばかりのスピードの自転車が通り過ぎるばかりで、だれもこちらを気に留めている様子はなかった。
声を聞いた店長とマリさんが一緒に厨房へ入ってくる。ふたりが入ってくると、厨房に煙草の独特な香りが滲んだ。鼻先が赤い。寒いなか、ご苦労なことだ。この店唯一の喫煙者である店長とマリさんは時折、駅前の喫煙所まで足を運ぶ。
「マリちゃん、またやったの」と店長は笑って、マリさんの頭を撫でる。やめてくださいよー!と前髪を直しながら、マリさんも笑った。おれは店長だから許される行為だと思った。店長は30代半ばであるにもかかわらず、20歳のように肌艶はよく髪の毛も衰えを知らなかった。しかも、筋トレが趣味らしく、マリさんを撫でた左手でさえ肉厚だった。
ボウルに反射したおれの中途半端な茶髪は不健康に歪んでいる。実際に触れると、今朝セットしたときよりも痛んでいる気がした。いかにもな大学生の姿に今すぐこの場から立ち去りたい気持ちに駆られたが、また色抜けた?とマリさんがこちらに話題を振る。おれはそれだけで茶髪にしてよかったと思った。たとえ、それが話を逸らすためだったとしても。話をはぐらかさないの、後藤さんの声でワイングラスが少し揺れた気がした。
◇
「マリさん、たまごにトラウマでもあるんですか?」フライパンを振りながら、聞いた。炒めているキャベツはまだかたそうだ。マリさんは「トラウマはないけど、たまごって怖くない?」そう言って、サーモンとマダイを丁寧に盛りつけた。
マリさんに呼ばれた森本さんがおれを一瞥して颯爽とカルパッチョを運んでいく。森本さんは無駄口を叩かない。どちらかと言えば、口よりも目で訴えかけてくるタイプだ。
森本さんの年齢不相応な香水が鼻を刺した。自分が高校生の頃、あんな同級生はいただろうかと考えたが、全員おなじような顔をしていて思いだすことができない。全員そうだとも思えたし、そうでないとも思えた。
「怖いんですか?」
「いのちって感じがして、怖いの」
「肉も魚もいのちじゃないですか。さっき魚の死体を当たり前のように触って、皿に並べていましたよ」
「死体って言わないでよ。もうわかんないかなあ」
マリさんは口調こそゆっくりだが、料理を作る手は決して止めない。ピザ窯を温めているあいだに、ローストビーフを切り落としていく。新鮮な黄卵がのったローストビーフ丼は店の看板料理だ。おれが仕上げにフライパンにアンチョビを入れている間に、パカッと音がする。ボウルをみると、綺麗に割られたたまごが入っていた。
「リョウくんの前だと失敗しないのにね」マリさんが笑うので、おれは泣きたくなった。ときどき、マリさんはわざとやっているんじゃないかと思うときがある。あの日、マリさんからはおれの姿が見えていたはずだった。忘れものをして戻った店内で、マリさんと店長は抱きしめあっていた。たしかにマリさんとおれは目が合っていた。新鮮なたまごはあの日の瞳のように潤んでいた。
◇
外の寒さが一気に酔いをさましていく。暖房で緩んだ肌がしまって顔が強張る。思いきって、伸びをすると、両手に持ったゴミ袋からはお酒が漏れだしていた。表通りから聞こえる複数人の笑い声に煽られるように、ごみ捨て場まで走った。
今年の忘年会は店内で行われた。未成年のアルバイトも増えたので、いつもの居酒屋には行かずに、出前を取ろうということになった。ピザや寿司、コンビニで買ってきた色とりどりの缶チューハイやワインが給食時間の机のように寄せられたテーブルの上に広げられた。
まるで大学サークルの飲み会のようだったが、歳の割に店長や佐伯さん、後藤さんは案外と楽しそうで、若者のノリに馴染んでいるのがおかしかった。今頃、アルバイト組を差し置いて、同年代トークに花を咲かせているのだろう。勝手口横に腰を下ろして、スマートフォンを取り出すが充電が切れていた。
勝手口のドアが開く音がして振り向くと、缶チューハイを片手に千鳥足でこちらに歩いてくるマリさんの姿があった。「あー!リョウくんがこんなところにいたー!」マリさんの手首は機能を失ったように左右に缶チューハイを揺らしている。いましたよー!勝手に閉まったドアに向かってマリさんが叫ぶ。
やめてくださいよ、おれはふらつくマリさんの腕を掴むが、支えきれず缶チューハイもぼくらも倒れた。コンクリートはつめたくかたいのに、マリさんの身体はあたたかくやわらくて、おれはサンドイッチのパンはこんな気持ちかもしれないと思った。
まだ並々に入っていたであろう缶チューハイは足元に転がって、炭酸を消費しながらこぼれていく。人工的なレモンの香料が香る。ズボンの裾からチューハイが染み込む。「今なら、リョウくんとどうにかなれるかもしれない」マリさんは言った。酔っているはずなのに、瞳の奥では正確におれを捉えていた。冷えて震える足と高鳴る心臓はまるで別々の生きものように動いた。
女性の瞳はいつもずるい。なんでも見通しているくせになんにもわからないふりをする。手中に収めているくせにどこにもいかないで、と言う。本当はたまごを割ることなんて簡単なのに、殻を混ぜたりしている。
「マリさん、足が冷たいです」
「ごめんね、重かったね」
マリさんとおれはゆっくりと剝がれた。マリさんから離れた部分からやけに冷えていく。マリさんはポケットからハンカチを取り出すが、どこが濡れているのかわかっていないようだった。いいですよ、と言うと、マリさんはまたごめんと言って、おれの横に腰を下ろして黙ってしまった。
そこから無言が続いた。それは深海の底にたったふたりで揺蕩っているような、不思議な感覚だった。自分の意思ではなく波の流れに身を任せているる。呼吸はできないのに、息がつまることはなかった。リョウくん、マリさんがおれを呼んだ。ことばが遠かった。地上に届くまで言葉が浮上してくるのおれは待った。届いたときには、マリさんは泣いていた。
「リョウくんは本当はわたしがたまごをちゃんと割れる人だと思っているでしょう。信じてもらえないだろうけど、本当にわたし、割れないの。踏ん切りがつかないんだよね、たぶん。思っているより、コントロールができなくて、粉々にしてしまうのが怖いの」それって自分のことですかと聞こうとして、飲み込んだはずのピザがのどに詰まる。
「だからわたし、いつも、中途半端に割ってしまうみたい。すこしだけ空いた穴に無理に指を入れるから、周りからぼろぼろと崩れていくんだよね。だったらはじめから割り切ってしまえばいいのにね」
マリさんは吐いたあとのように妙にスッキリしていた。わかんないよね、ごめん。さっき言ったことも忘れて。マリさんはスッと立ち上がり、店内へ戻っていった。はじめから酔っていなかったみたいに、しっかりとした足取りだった。
ポケットから取り出したスマートフォンが手からこぼれ落ちて、コンクリートに打ち付けられて鈍い音をあげた。酒で温まっていたように思えた身体は末端から冷え始めていた。拾い上げようとして、マリさんの煙草が目に入った。ハンカチを取り出したときに一緒に落ちたのだろうか。煙草の本数は残り少なくて、一緒にライターが入っていた。一本だけ口に当てて思いきり吸った。火はつけなかった。火のない煙草は紙のような草のようなざらつきが舌に広がるだけで、その辺の枯れ葉と大差ないように思えた。
マリさんは、どこが好きなんだろう。煙の代わりに吐いたため息は、白く立ち上って消えた。酒とピザのにおいがした。バイクが加速とともに、マフラー音を響かせる。マリさんがいなくなった路地裏には騒がしさが戻った。
◇
森本さん、悪いね。おれとマリさん、それから自分の荷物を持った森本さんに声をかける。森本さんは振り返ると少し立ち止まって、おれが並んだところで、ふたたび歩きはじめた。今度は足並みをそろえて歩いた。また香水が香った。背中にいるマリさんからはワインとシャンプーと汗が混じった匂いがした。人臭かった。
「店長にお子さんができたんだって!」戻って、開口一番に後藤さんはそう言った。後藤さんの口から唾液が2、3滴飛んで、パーカーについた気がした。いつもの1.5倍は大きい声量を真横で聞いて、頭がぐわんぐわん揺れた。吐き出しそうになりながら揺れる視界でマリさんを探した。おれは絞りだした声で、おめでとうございます、と言った。店長はたしかありがとう、笑っていたような気がする。
おめでたいですね。森本さんの声はすこしだけ上ずっている。おれはなにもかもにイラついてた。年下にもかかわらず自分より落ち着き払っていることや、自分の手汗で何度もマリさんが落ちてしまいそうになること。何より今、マリさんの前でその話をしてほしくなかった。リョウさんは、子ども好きですか?そんなことはどうでもいい、今はただ黙っていてほしかった。
「森本さん、いつも香水つけてるよね。飲食店なんだから、控えた方がいいんじゃないかな」なんの脈絡もない。それはあまりにも唐突だった。森本さんも突然のことにいつになく動揺していた。普段ならこんな言い方はしない。それどころか思っていても、言うことはない。でも、止められなかった。
森本さんはちいさく、すみません気をつけます。と言って、おれの少しあとを歩いた。言葉こそ冷静だったが、声はわずかに灯るろうそくのように弱々しく、これ以上なにか言えば、消えてしまいそうだった。それからすっかり気まずくなって、ごめんね、いえ、という応酬を2度繰り返して、会話はおわった。
部屋の前まで荷物を運ぶと、では、お疲れ様でした。と森本さんは足早に踵を返した。カン、カン、カン、森本さんが階段を駆け下りていく。本当はマリさんを部屋に寝かせたら、森本さんを家まで送るべきだった。遠のいていく音が少しだけおれを安心させた。彼女は大丈夫。マリさんを背負い続けた腕も足も正直がくがくで、今追いかけてもきっと追いつかない。それはすべて都合のいい言い訳だった。本当はマリさんと離れたくないだけだ。
「ここまでありがとう、リョウくんはやさしいね」コートがはだけて髪も乱れたままマリさんはそう言った。
「そんなことないです、おれ、泣かせてばかりなんです」
そうだね、ごめんねマリさんはおれを抱きしめた。パーカーには後藤さんの唾液がついていて、ズボンは缶チューハイでべたついたままだった。情けなくて、涙がでた。そのうちに嗚咽が漏れてきた。マリさんの華奢な腕に力が入った。強い、抱擁になった。マリさんと大差ない貧弱なおれの腕をどこに置いたらいいかわからず、直立不動になってしまった。泣きながら、明日もし二日酔いじゃなかったら、筋トレをしようと思った。
◇
あれから二週間が経った。結局翌日は二日酔いで筋トレどころか、起き上がれるかどうかも怪しかった。そして筋トレは大して続かなかった。その割には筋肉痛は二日酔いみたいにいつまでも残って、おれを苦しめた。
「やっぱり割れないや」
「マリさんも筋トレはじめたんですか?」
「筋トレ?」
マリさんはボウルを抱えていて、腹筋ではなくたまごの話をしているのだと理解した。目元が赤くすこしだけ腫れている。乾燥して、目尻のファンデーションがよれている。それでもここ数日でだいぶ良くなっていた。
「割り切らなくてもいいんじゃないんですか」ずっと考えていた。どうしたら筋トレが続くのか、佐伯さんが張り紙をやめてくれるのか、後藤さんのしゃがれた声が治るのか、それからマリさんがおれに振り向いてくれるのか。でも考えるほど、臆病になった。人間関係というものは複雑に絡みあっていて、異物が混じっていないなんてことはあり得ないのだと思い知った。
店長が喫煙所から戻ってくる。マリさんは後、頼んでいい?と言って、右手の指を二本口元に寄せて、煙草を吸う真似をした。「あのとき終わりにしろって言わないでいてくれてありがとね。あのね、もう少しで綺麗に割れるようになる気がするから」マリさんは言い、おれにボウルを差し出した。どうぞ、と言っておれはボウルを受け取った。
溶きたまごの中にはまた殻が入っていて、やっぱりわざとやっているんじゃないか、と思う。でもそれでよかった。欠片を拾う仕事くらいなんてことない。マリさんはやっぱり、リョウくんはやさしいね!と叫びながら、店長と入れ違いに喫煙所へ向かう。おれは彼女の後ろ姿を見送ってから、また菜箸を探した。