PS.ありがとう 第28話
「じゃあ、僕、用事があるんで先に失礼します」
「はい、傘は今度お返ししますね」
といいつつ、どうやって返せばいいのかもわからない。白い雨の中を走っていく大きな背中を見ながら瑤子は不思議な幸せを感じていた。
傘の取っ手のところにネームプレートのようなものが取り付けてあった。
「この傘を拾った方はこちらに連絡をお願いします。成田。携帯:080‐****‐****」
連絡先が記載されているのを見て、瑤子はまた笑顔になった。
次の日瑤子は仕事の合間に、傘に書いてある番号に電話をしてみた。電話はすぐにつながった。
「あの成田さん?」
「この声は宮口さんですか」
「そう、傘を返そうと思って」
「そんな、いつでもいいのに」
「だって、電話番号を書いてるってことは大切な傘なんでしょ」
なんだか脅しているようだ。
「まあ、お気に入りですけど」
「じゃあ、今日返します。あの本屋の近くに緑色の看板のカフェあるでしょ、そこに来れますか?」
「はい、時間は合わせられます」
「じゃあ三時半は?」
「大丈夫です」
「じゃあお店の中で待ってるわね」
昨日初めて出会ったのに、ずいぶん前から知り合いだったような気がする。瑤子の方が年上に違いないだろうから、どうしても上から目線になってしまうが、それがいいような気がした。
成田雄二は時間通りにやってきた。瑤子の顔を見るなり頭を下げた姿を見て、瑤子は胸がきゅっと締め付けられた。かわいい、男性に対してこんな感情を抱くのは久しぶりだ。
2人でアイスコーヒーを飲みながら色々な話をした。年齢は28歳、瑤子より7歳下だ。彼女とは1年前に別れて今はフリーだということ、自宅でライターの仕事をしているから、割と自由に時間が取れることがわかった。そして年上の女性が好みだということも。
瑤子はひと勝負しようと思っていた。2日後は自分の誕生日だ、おまけに祐輔は東京出張でいない。レイナちゃんママからの情報で、あの女も一緒に出張に行くということがわかった。だから不倫旅行だ。目には目を、とはよく言ったものだ、不倫には不倫をしてなにが悪い。真っ黒な思惑が瑤子の胸の内で爆発しそうなくらい大きくなっていた。
「あさって私の誕生日なの、わたし一人だから祝ってくれるとうれしいな」
年上好きの坊やがこの誘いを断るわけがないと思った。
「あの、結婚されているんじゃないんですか」
「それとは別。いいのあなたはそんな心配しなくて。どうする?会ってくれる?」
前のめりになる。
「誕生日?何か欲しいものありますか?」
「んー特には。成田さんの時間だけもらえれば」
「僕の?時間?」
「あなたの、時間」
瑤子はいつの間にか正面に座っている雄二の手に両手を重ねていた。
視線が絡み合うとはこのことだろうか。目があったまま雄二は放心状態のようだ。瑤子はウインクして見せた。
「あっ」
瑤子のウインクに雄二が思わず声をもらす。
「会ってくれるよね」
瑤子が上目遣いに雄二を見つめる。手をぎゅっと握ってみた。
「は、はい」
「じゃあ決まりね。夕方4時にここで」
今度はにらむように見た。
「は、はい」
「夜中まで」
「は、はい?」
そう言って雄二は頬を赤く染めた。決まった、と瑤子は思った。
カフェを出るとき、瑤子は雄二の腕に腕を絡めてみた。何も言わない。シャツを引っ張る、それでも何も言わない。雄二はどこまでも従順だった。
「明日からよね、東京出張」
夕飯を口に運んでいる祐輔に背後から声をかけた。
「そうだよ」
祐輔がテレビを見ながら返事をする。
「いつ帰ってくるの?」
分かってはいたがとりあえず確認する。
「7月2日。1日は瑤子さんの誕生日。だよね」
「でもいない、だよね」
「まあひねくれなさんな、愛があればいいだろ」
テレビを見ながら言うから余計に腹がたつ。その愛はどこに向かっているのか。聞こうと思ったが自分の計画もダメになるのを警戒して黙っていた。
「去年の誕生日はみんなで外食して、バッグも買ってくれたし。今年は何がもらえるのかな」
わざと嫌味だとわかるように言ってみた。
「なんだそんな心配してるのか。帰ってきたら思い切り埋め合わせするよ。去年よりもすごいやつ」
テレビから目を離さないつもりだ。わざとやっているようにも見える。
「まあ期待しないで待っとくわ」
そう言うと、祐輔がはしをとめて振り向いた。一瞬目が合った。何か言おうとしているようにも見えたが、祐輔はすぐに画面に目を戻した。自分がとても嫌なことを言っているのはわかるが、これくらいは言ってもいいだろう。
祐輔が東京に行っている間、自分は成田雄二と会う、何が起きるのかはわからない。気持ちは晴らしたい。
祐輔が帰宅したらすぐに東京行きを打診しよう、それが最後だ。その時にあのレストランで撮った浮気現場の映像を見せて、東京行きを認めさせる。祐輔のお遊びはそこでジエンドだ。いや、その後、また復活するかもしれないが、そんなことは後で心配すればいい。とりあえず東京行きの切符を手にいれることが先決だ。
成田雄二、どことなく雰囲気が若い時の祐輔に似ていると思った。人の好みはそう簡単に変えられるものではないのかもしれない。
何となく気持ちが落ち着き、その日は久しぶりに深い眠りについた。