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続・哀愁のスパイ

 《怒りのあまりまたも尿が漏れてポタポタとカーペットに垂れてきた。私は引退を決意した。》

*これで前回「タバコ屋」がテーマの『哀愁のスパイ』は終わりのはずでした。が、九十歳の熱心な読者(義母です)から「何、この終わり方?これからどんな展開になるのかと思ってドキドキしてたのに、これで終わりなの?七十代ってまだまだ青年じゃないの!何よこの終わり方。頭にきちゃう!」との感想をいただきましたので、続けることにしました。次のテーマは「夕立ち」ですが、それに沿って物語は展開します。
前回と同じくこの話も3年前に書いたもので、義母は現在93歳。相変わらず熱心な読者で、毎回赤ペンで(ここよく分からない)とチェックが入ります。


 カーペットに垂れた尿を拭き取りながら私は情けなくて涙が出て来た。こんな事で私のキャリアは終わってよいのだろうか。このままスパイ人生を惨めに終わらせてよいのだろうか。七十二歳はまだ老け込む年齢じゃない。そうだ!本部も家に閉じこもらず体を動かせと言っているんだ。まだ一花も二花も咲かせることはできるはずだ。

 熱いシャワーを浴びながら頭をシャキッとさせて考えた。尿が漏れるなら尿漏れパンツを履いて対処すればよいだけじゃないか。赤ん坊を見ればわかる。ウンチもオシッコも垂れ流すからオムツをはかせる。よだれが出るから前掛けをしている。それを笑う者はいない。ましてや尿漏れパンツは誰にも見えない。善は急げだ。国立くにたち市へ急がねば。国立へ行かなければ本部に私の続行の意思は伝わらない。鏡に映る全身を見て私は自身を取り戻した。少しだけお腹が出ているがこの年で六十二キロは十分しぼれている。タバコもやらず、お酒は一日一合と決めている私は自分をコントロールできる意思を持つ強い男のはずだ。白いスーツに同じく白いボルサリーノをかぶり、ドアを開けた。駅へ行く前に二軒隣のドアを叩く。先ほどの青年が出て来た。

「さっきはありがとう。私はこれから国立市へ行ってくる」
「え?はぁ?」
「気にしなくていい。なんとなく言ってみただけだ」
 怪訝な顔をしている青年の後ろを歩く父親が一瞬見えた。ドアを閉めて駅に向かう。七カートンのラークを買い取ってくれたのは偶然かもしれないが出来過ぎている。あの男が組織の一員かどうか分からないが可能性はある。私の意思を伝えておくに越したことはない。彼が無関係であっても何ら問題はない。

 駅前のコンビニで五万円下ろし尿漏れパンツを購入しトイレで履いた。少しゴワッとするがヒップラインはそれほど変わらない。安心して国立市へ向かった。
 
 電車に乗りしばらくして気がついたのだがあの男がいる。隣の車両との連結部分でラークの袋を持って、何気なしにこちらを見ながら隠れるように立っている。私とほぼ同年齢だろうか。尾け方が素人だ。組織とは関係ないことがこれで分かったが、何の目的でついて来たのだろう。
 国立駅に着き駅中の果物屋でメロンを買い、彼の尾行をあっさりまいてタバコ屋のガラス戸を叩いた。

「ここでラーク七カートンを買い取ってくれることになっていたと思うのですが、ある事情で他の方に買い取ってもらいました。ですのでどうしたらよいか分からないので、仕事を続けたいという意思を表すためにこれを受け取っていただきたい。それだけです」

「あら〜。いただいて良いの?封筒を預かっただけなのよ。ありがとう〜」
その女性は代わりに長形三号の細長い茶封筒を手渡した。

 礼を言って近くの喫茶店で熱いコーヒーを頼み封筒を開け、愕然とした。
ラーク七カートンを受け取ったことを確認次第報酬として二十万円振り込むと手紙に書かれていたのだ。単純な任務だと疑問に思っただろうが郵送できない理由があったのだとも。しまった。あれはただのタバコではなかったのだ。なんてこった。考えてみれば当然だ。私はどこまで老人になってしまったのだ。コーヒーはいらないと、千円を置いて彼を探しに行った。なんてことをしたんだ。都合よくついて来ていたのに、来た道を戻っても彼はいなかった。私を見失って帰ってしまったのだろうか。諦められず駅周りの喫茶店を覗いていると七軒目で彼を見つけた。声もかけずに隣に座ると彼の目は探し物が飛び出て来たような嬉しい光を見せた。

「あ、ど、どうしてここが…」
「探したんですよ。私の後をついて来ていましたよね。どうしたんですか?」
「わかっていたんですか?薄いフィルムが入っていたので、ただのタバコではないと思っていたんですが。あなたがわざわざ国立市に行くと告げに来たのは、私についてこいと言っているのかもと思って。年金暮らしで暇ですしね。私はこの通り無様なじじいですが、同じくらいの歳なのにあなたはいつも若々しくて。何をやっていらっしゃるのか興味があったんです」

 そう言いながらラークの袋をテーブルの上に置いて私に差し出した。
「いや〜、助かりましたよ。何がなんだか私もさっぱり分からないんですが、届け先が決まっていたようです。特殊なタバコを作るくらいだからよっぽど重要なんでしょうが、面倒なことに巻き込まれたくないですからね。では三万円お返しします」

 外に出ると雨だった。
「あ」
「どうしたんですか?」
「いえ、なんでもありません」
「気になるじゃありませんか?折角お近づきになれたんですから。言ってくださいよ」
「いえ、ほんとに人様に言うほどの事じゃないんですが。でも、そうおっしゃるなら」

 彼は恥ずかしそうに私から目をそらしてつぶやいた。
「歳ですね、ゆるくなってしまってですね。不意に水を見ただけであの、オシッコが漏れるんですよ。ですが、もうずいぶん前から尿もれパンツを履いているのでズボンに滲みることはないんですが」
 そう言って、彼はまた「あ」という顔をした。
「実は私も今履いているんです。私の場合は今日がデビューの日なんですが」
「え!?」
「どこかで一杯飲りますか?」
「えぇ、是非」

 タバコ屋に袋ごと戻して私たちは雨の中を歩いた。
「一句、浮かびました」
「わ、聴かせてください」
「〽️尿漏れの パンツ一枚 勇気百倍」
「あ〜、良いですねぇ。初めて尿漏れパンツを履いて力強く思ったことが素直に出ていますよ。よく詠まれるんですか?」
「いえ、初めてです」
「そうですか!では私も一句。〽️国立は 尿漏れパンツの 似合う街」
「はは。国立市民に怒られそうですけど、面白いですよ」
「続けてもう一句。〽️脱糞は 尿漏れパンツにゃ 荷が重い」
「あ、そうですか?まあそうでしょうね。経験があるんですね?」
「はい。油断というか。甘えですね。ダメでした」
「尿漏れパンツに甘えたんですね。分相応というのがありますからね。気をつけます。私ももう一句。〽️夕立や尿漏れパンツの君と僕」
 そして、私たちは夕立の夕闇の中へ溶けていった。

              尿。また間違った。完。

知念満二の短編集や、小説のスライド動画、詳しいプロフィールは「満月うさぎ社」のページへ。


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