温故知新(18)応神天皇(中彦命 仲彦命) 尾上車山古墳 仲哀天皇 誉田御廟山古墳 仁徳天皇 大仙陵古墳 允恭天皇 岡ミサンザイ古墳 弟彦 神宮寺山古墳 黒媛(弟姫命 日向髪長媛 磐之媛命) 両宮山古墳 菟道稚郎子命
第15代応神天皇(おうじんてんのう)は、『日本書紀』では誉田天皇(ほむたのすめらみこと)と記され、足仲彦天皇(仲哀天皇)の第四皇子とされています。『日本書紀』によると、仲哀天皇は西征のさなかに没し、神功皇后が三韓に遠征した際には胎内にあり、帰国後に筑紫で生まれたとされています。しかし、生まれたのは仲哀天皇が崩御してから十月十日後で、実子では無いことを示唆しているとする説もあります。品陀真若王(大樹と推定)の娘が、応神天皇の后の仲姫命ですが、丹生氏の系図にある「大樹」の子の「伊集岐」は応神天皇の后の「仲姫命」と推定され、応神天皇は丹生氏の系統ではなかったと推定されます。
大歳神社は、須佐之男命と神大市比売の子の大歳神を祀る神社ですが、兵庫県南部に比較的多くあります。神戸市西区岩岡町岩岡にある大歳神社(図1)の祭神は応神天皇と大歳神で、岩岡町野中にある大歳神社(図1)では、応神天皇、大歳神、御年神です。また、加西市琵琶甲町にある大歳神社では、大歳神、応神天皇、素盞嗚命が祀られています。伯耆稲荷神社(鳥取県東伯郡琴浦町)と彦五十狭芹彦命(吉備津彦命)の墓と推定される西求女塚古墳を結ぶラインに近くに、伊邪那岐命、伊邪那美命を祀る那岐神社(鳥取県八頭郡智頭町)、大歳神社(加西市琵琶甲町琵琶甲町)があります(図1)。このラインは、応神天皇と吉備津彦命の血縁関係を示していると思われます。
和歌山県紀の川市にある大歳神社の主祭神は大市姫命とされていますが、社伝によると、大歳神は御父神の勅を奉じて筑紫の国より五穀を播き始め、全国限なく播種し終り、当地に鎮り給う、当地最古の神であるとされるので、大歳神は須佐之男命の子の五十猛神(紀伊国の大屋毘古神)と推定されます。したがって、応神天皇は、孝霊天皇(須佐之男命と推定)と倭国香媛(神大市比売、大日孁貴と推定)の間に生まれた皇子で大歳神と推定される彦五十狭芹彦命(大吉備津日子命 吉備津彦命)の親族と推定されます。
上道臣は、吉備国上道郡一帯を支配した上道国造を務めた豪族で、『古事記』に記されているように、大吉備津日子命(吉備津彦命)を祖とすると考えられ、応神天皇は、吉備の上道臣と同族と推定されます。『日本書紀』では、応神天皇の時代に吉備臣の祖である御友別の子の仲彦(なかつひこ)が吉備国上道県(きびのかみつみちのあがた)に封ぜられたとしていますが、『先代旧事本紀』によると、応神天皇の時代に、元から上道国の領主をしていた中彦命(なかつひこのみこと)の子である多佐臣(たさのおみ)を国造に定めたことに始まるとされます。応神天皇は、上道臣と同族と推定されるので、中彦命(仲彦命)が応神天皇となったのではないかと推定されます。下記によると、中彦命は孝霊天皇の兄の大吉備諸道命の後裔で吉備津神社と関係があるようです。
上道郡は、備前国の中心地として栄えた地域で、西は旭川、東は吉井川まで至る郡域を持っていましたが、現在の岡山市中心市街地は御野郡でした。かつては、岡山市中心北部、三野周辺に御野郷があったようです(図2)。岐阜県の「美濃」は、元は「三野」や「御野」と表記され、「御野」は天皇の平野を意味する表記ではないかと考えられています。岡山市北区北方にある「御野」の近くには大和町があり(図2)、倭国(邪馬台国)の都は、応神天皇の代には吉備にあったと推定されることから、この付近に応神天皇の宮があったと推定されます。
岡山市街地から西にある「吉備の中山」の南東端に、尾上車山古墳(岡山市北区)があります(図3)。尾上車山古墳とオリンポス山を結ぶラインの近くに、中山茶臼山古墳や吉備津神社があります。尾上車山古墳の被葬者が、中彦命とすると吉備津神社とレイラインでつながっていることと整合します。尾上車山古墳は、墳形・出土埴輪から古墳時代前期前半の4世紀後半頃の築造と推定され、前方部が開かない「柄鏡式」の前方後円形で、前方部は、近くにある神大市比売(天照大神 大日孁貴神)の墓と推定される楯築遺跡に類似しています。オリンポス山と楯築遺跡を結ぶラインの近くに須佐之男命の墓と推定される鯉喰神社(弥生墳丘墓)があります。また、尾上車山古墳は、須佐之男命を祀る真宮神社や王墓山古墳とほぼ同緯度にあります(図3)。尾上車山古墳と同緯度にある王墓山真宮古墳群は、吉備の上道臣の墓域と思われます。
尾上車山古墳の近くにある石清水八幡宮と深い関係のある白石八幡宮(岡山市北区)とスサを結ぶラインの近くに尾上車山古墳があります(図4、5)。これは、尾上車山古墳の被葬者と須佐之男命や石清水八幡宮の祭神との関係を示していると推定されます。
百済の第18代王腆支王(てんしおう)は、397年 (応神8年)に人質として倭国に赴いたという記事が『日本書紀』と『三国史記』にあることから、応神天皇は390年に即位したと推定され、在位が40年とすると、亡くなったのは430年頃と推定されます。尾上車山古墳は、4世紀後半頃の築造とされることから、在位中に築造し砦として使用したのかもしれません。尾上車山古墳の南側に広がる水田地帯はかつては海で、「臨海型」の古墳であることは、仲哀天皇の皇子の麛坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)が、神功皇后と戦うために作ったともいわれている五色塚古墳(神戸市垂水区)と類似しています。
佐紀陵山古墳は、五色塚古墳と相似形で、奈良市山陵町にあり、佐紀陵山古墳と相似形の古墳は、他に、膳所茶臼山古墳(滋賀県)・御墓山古墳(三重県)・摩湯山古墳(大阪府)があります。また、付近の八尾市や平群には、朝鮮式山城があります(図6)。このことから、4世紀後半当時に畿内制的な領域支配が存在したとする説があり、佐紀陵山古墳は、神功皇后や応神天皇と対立した麛坂皇子の墓と思われます。五社神古墳は、佐紀陵山古墳に後続する築造順序に位置づけられ、ヤマト王権の大王墓と目されることから、忍熊王(忍熊皇子)の墓と推定されます。これらは、応神天皇の墓と推定される尾上車山古墳と同年代なので、忍熊皇子が応神天皇との間での対立伝承で知られることと整合します。佐紀陵山古墳の石室例は大阪府柏原市の松岳山古墳にその類例がみられるだけのようです。佐紀石塚山古墳は成務天皇陵に治定されていますが、『扶桑略記』には1063年、興福寺僧の静範らが成務天皇陵の副葬品を盗掘した事件が記されているようです。
大阪府羽曳野市の誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)は、応神天皇陵の伝承があり、5世紀の第1四半期の築造と推定されています。応神天皇陵については、下記のようなブログがあります。
誉田御廟山古墳と佐紀陵山古墳を結ぶライン上に平群町があり、誉田御廟山古墳の北に八尾市があります(図7)。したがって、誉田御廟山古墳の被葬者は、麛坂皇子や忍熊皇子と近い関係にあったと推定されます。応神天皇陵に治定されている誉田御廟山古墳からは、蓋形(きぬがさがた)埴輪が出土していますが、佐紀陵山古墳や五社神古墳からも出土しています。
仲姫命の墓に治定されている大阪府藤井寺市にある古市古墳群の中津山古墳は、上石津ミサンザイ古墳より古いと推定され1)、名称から、彦人大兄(五百城入彦皇子と推定)の娘の大中姫(おおなかつひめ)の墓と推定されます。同じ古市古墳群にある誉田御廟山古墳は、大中姫を后とした仲哀天皇の陵墓と思われます。記・紀の陵墓記載には、仲哀天皇の陵墓が河内の古市付近に営まれたとする伝承があるようです2)。『古事記』には、仲哀天皇が亡くなった際に「國之大祓」をしたとあるので、誉田御廟山古墳の築造時期が新しいのは、後に作り直したためかもしれません。
誉田御廟山古墳の後円部の頂上には六角堂があったようで、白石太一郎氏は「三昧堂」が建てられたと推定しています。「三昧堂」は本来、死者の菩提のために法華三昧の行事を行うためのもので、藤原氏の祖先の墓所などにも建てられています2)。藤原氏(中臣氏)は、仲哀天皇と関係があったと推定されます。古市誉田古墳群のあたりは、「河内飛鳥」とも呼ばれ、渡来系の豪族が多く居住していました3)。誉田御廟山古墳の北側におかれた誉田丸山古墳という陪塚から金銅装馬具が出土していますが、伽耶高霊の古墳出土の文様に酷似し、朝鮮半島からの舶載品を含んでいるとされているようです。したがって、仲哀天皇と藤原氏(中臣氏)は、朝鮮半島からの渡来系豪族とつながりがあったと考えられます。
誉田御廟山古墳に接して誉田八幡宮がありますが、誉田八幡宮は、11世紀の中頃の成立と考えられていて、八幡総本宮の宇佐神宮や石清水八幡宮、鶴岡八幡宮と異なり、比売大神に替えて仲哀天皇を祭神とし、応神天皇・神功皇后・仲哀天皇を主祭神としています1)。仲哀天皇(小碓尊 日本武尊と推定)を八幡神としたのは、倭建命が八幡神とされていたためと推定されます。島根県松江市にある平濱八幡宮や、山口県下関市にある亀山八幡宮は、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を祭神としていることから、誉田八幡宮と同じ頃かその後に、仲哀天皇を八幡神としたと思われます。
誉田八幡宮が成立したころの白河天皇(在位:1073年-1087年)の母は藤原氏閑院流(藤原北家支流)藤原公成の娘の藤原茂子で、その後、閑院流は代々の天皇の外戚として権勢を振るうようになったといわれています。丸谷憲二氏によると、永保 4年(1084年)に、岡山県瀬戸内市邑久町山手の八幡宮(旧大垣八幡宮)古来の由緒が書き改められ、その時に百枝八幡宮のあった高砂山の下稲戸明神の記録は抹消されたようです4)。
岐阜県可児市久々利に、八剱八幡神社があり、その付近に崇神天皇の皇子の八坂入彦命墓があります。八剱八幡神社の主祭神は、八坂入彦命、八坂入媛命、弟媛命、八幡大神、天照大御神、火産霊神、宇迦之御魂神です。地名の「久々利」は「菊理媛」に由来するのかもしれません。「弟媛命」は品陀真若王の娘の弟姫命で、黒媛と思われます。岐阜県大垣市の大垣八幡神社は、祭神として応神天皇、神功皇后、比咩大神を祀っています。大垣八幡神社は、1334年に東大寺の鎮護神である手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)を勧請したのが始まりといわれますが、手向山八幡宮では仲哀天皇も祀っています。
香川県坂出市王越町の梅宮八幡神社は、祭神として、市杵島姫命、足仲彦命、譽田別命、息長帯姫命、武内宿禰命を祀っています。『日本書紀』の足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)は仲哀天皇とされていますが、「たらし」は充足するという意味の嘉名なので、本来の足仲彦命は中彦命(仲彦)で応神天皇の名前かもしれません。
御野に近い北区中井町にある神宮寺山古墳は、被葬者として『日本書紀』応神天皇22年条に見える「三野県」を「御野」と見て、三野県に封じられたという弟彦(吉備弟彦、三野臣祖)に比定する説があります。神宮寺山古墳とシチリア島南東部にあるシラクサを結ぶラインの近くには、孝霊天皇を祀る高岡神社(岡山県真庭市)や素戔嗚命を祀る石見神社(鳥取県日野郡日南町)があります(図8)。
和気神社(岡山県和気郡和気町)と神宮寺山古墳とを結ぶラインは、由加神社(和気町)とマラケシュを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図9)。
神宮寺山古墳の被葬者は、孝霊天皇(須佐之男命)や和気氏と関係があると推定されることから、和気氏の祖で、忍熊皇子の反乱を播磨・吉備の堺山で打ち破った、鐸石別命の曾孫である弟彦の墓と推定されます。和気氏は、佐伯氏とともに、戦国時代頃までは天皇即位の際などに氏爵を受ける氏族とされていました。神宮寺山古墳からは、かなり近代になって、盗掘により副室が発見され、大量の鉄器が入っていることが知られましたが、盗掘者にたたき壊されたものも多いようです1)。盗掘者は、忍熊皇子の関係者かもしれません。
若宮八幡宮(わかみやはちまんぐう)は、「八幡宮の若宮」という意味で、多くは宇佐神宮・石清水八幡宮・鶴岡八幡宮などにある若宮を勧請し、応神天皇の子である仁徳天皇(大鷦鷯尊)を祀っています。岐阜県では、特に伊福部氏の氏神の伊富岐神社付近に多くあり、若宮八幡宮は、伊福部氏(尾張氏)と関係があると推定されます。
「美濃」は、七世紀には「三野」と表記され、「御野」に改定されたのは大宝二年(702年)ごろと推測されていて、「美濃」の表記に再改定されたのは、慶雲四年(707年)から和銅元年の間のこととされています。各務原市蘇原宮代町の若宮八幡神社(図10)は、仁徳天皇を祭神とし、由緒由来には「往古当集落は同村内宮?ら移住したから宮代と云ふ。」とあります。大宮町に近い本巣郡北方町若宮にある若宮八幡神社は、仁徳天皇を祭神とし、周辺には、大宮町や神戸町や笠縫町があります(図10)。
岐阜市敷島町にある本荘神社(ほんじょうじんじゃ)は、富士山と出雲大社を結ぶ線と、山岳信仰の白山と伊勢神宮を結ぶ線が交わった所にあることで知られています(図11)。北方町若宮にある若宮八幡神社は、豊受大神宮(伊勢神宮 外宮)の真北にあり、加賀一ノ宮 白山比咩神社と豊受大神宮を結ぶラインと出雲大社と上総国一之宮 玉前神社を結ぶラインの交点付近に位置しています(図11)。岡山県の「御野」は、岡山市北区北方にありますが、若宮にある若宮八幡神社も北方町にあるので、この付近に仁徳天皇の宮があったのではないかと思われます。里伝によると「若し社殿を営まば、宜しく七間四面のものを造る可し」との神託があったといわれます。「七間四面」というのは、柱の本数は8本で、身舎(もや)の前後左右(四面)に庇(ひさし)のある建物のことです。図11の東西南北のラインと関係があると思われます。
菊理媛神(白山比咩神(しらやまひめのかみ))、伊弉諾尊、伊弉冉尊を祀る白山神社は、岐阜県の山県市周辺に多く分布し(図12)、明智光秀が生まれた地とされる山県市中洞には、中洞白山神社があります。この付近を撮影したブログがありました(岐阜県山県市柿野に流れる西洞川)。白山信仰の美濃国からの道は、長瀧白山神社(郡上市白鳥町)から越前国の白山中居神社を通り、白山へと向かっています(図13)。
大仙陵古墳(仁徳天皇陵)とチャタル・ヒュユクを結ぶラインは、瓊瓊杵尊(饒速日命)の降臨地と推定される摩耶山や坂本丹生神社、伊和神社(兵庫県宍粟市)、岩上神社(兵庫県宍粟市)、鳥取県八頭郡智頭町にある牛臥山の近くを通ります(図14)。これは、仁徳天皇が須佐之男命の子孫で、母の仲姫命や妃の黒媛が、瓊瓊杵尊(饒速日命)の子孫である品陀真若王の娘であるためと推定されます。智頭町には土師神社があり、大仙陵古墳(仁徳天皇陵)の近くも土師町があります(図14)。応神天皇が忍熊皇子に勝利した後、仁徳天皇は、土師氏が開発した難波の高津(大阪市中央区高津)に遷都したと推定されます。大仙陵古墳(仁徳天皇陵)が、海から見える場所に建造されたのは、この地域を支配したこと対外的に示すためだったと思われます。
『延喜式』には、第16代仁徳天皇の陵は「百舌鳥耳原中陵」という名前で和泉国大鳥郡にあるとされ、450年頃のものとされる大仙陵古墳が仁徳天皇陵に治定されていますが、第15代応神天皇は、長命で430年頃亡くなったと推定されることと矛盾しません。成務天皇(倭建命)の陵墓を築山古墳(5世紀後半)に移したのは黒媛かもしれません。大阪府堺市にある百舌鳥古墳群の南部に位置する上石津ミサンザイ古墳(かみいしづみさんざいこふん)は、宮内庁により第17代履中天皇の陵に治定されていますが、考古学的には大仙陵古墳(仁徳天皇陵)より古いと考えられています2)(図15)。
「ミサンザイ」は「ミササギ(陵)」の転訛したものと考えられていますが、仁徳天皇の名前である大雀命(おほさざきのみこと)の「サザキ」と関連するように思われます。また、矢を収納する靫を模した靭形埴輪が見つかっていることから、弓の名手だった弟彦公(五百城入彦皇子と推定)とも関係があると推定されます。これらのことから、上石津ミサンザイ古墳は、仁徳天皇の母で、品陀真若王の娘の仲姫命の墓と推定されます。上石津ミサンザイ古墳は、五百城入彦皇子の墓と推定される吉備の造山古墳と酷似していることとも整合します。
『古事記』によると、仁徳天皇に続く、第17代履中天皇と第18代反正天皇の陵墓も百舌鳥にあるとされます。土師ニサンザイ古墳、淡輪ニサンザイ古墳、岡ミサンザイ古墳の「ニサンザイ」や「ミサンザイ」が、大雀命(おほさざきのみこと)の「サザキ」が転訛したものと考えると、それぞれ、履中天皇(仁徳天皇の第1皇子)、反正天皇(第3皇子)、允恭天皇(第4皇子)の陵墓と思われます。岡ミサンザイ古墳を仲哀天皇陵に比定することを疑問視する研究者は少なくないようです。岡ミサンザイ古墳の近くには、この地を治めることになった物部氏が創建した辛國神社(大阪府藤井寺市)や、千手観音をまつる葛井寺があります(図16)。
第19代允恭天皇は、5世紀前半に実在したと見られる天皇で、允恭天皇の陵墓と推定される岡ミサンザイ古墳は、大仙陵古墳(仁徳天皇陵)と同緯度(北緯34度33分)にあり(図17、18)、5世紀末頃の築造と推定されています。大仙陵古墳(仁徳天皇陵)や岡ミサンザイ古墳の前方部が南南西を向いているのは、反対方向に賀茂建角身命を祀る下賀茂神社(賀茂御祖神社)があるためかもしれません(図17、18)。
京都盆地の東南部に宇治市があり、宇治上神社では、左殿に菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)命、中殿に応神天皇、右殿に仁徳天皇を祀っています。『古事記』では「宇遅之和紀郎子」と表記され、「宇治」は、孝元天皇(菟道彦 宇遅比命)に由来すると推定されます。菟道稚郎子は、応神天皇の皇子で、母は和爾氏の矢河枝姫(やかわえひめ)です。『日本書紀』では、皇太子に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したとされ、儒教的聖君子として描かれています。『古事記』には、菟道稚郎子の自殺の話はなく、『日本書紀』の話は創作と思われます。
『山城国風土記』(逸文)では、応神天皇皇子・菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が、この地に宮「菟道宮(うじのみや)」を構えたことが地名の起源となったとする説話がありますが、『日本書紀』の垂仁天皇の段などに「莵道河」(現・宇治川)の記載があることから、「菟道」の地名が元からあったとする見方があります。宇治上神社や宇治神社は、山城国(山背国)にあり、垂仁天皇を祀る珠城神社の東にあるので(図19)、垂仁天皇の時代には、珠城宮の東側に孝元天皇(菟道彦)を祀る神社があったのではないかと思われます。久世郡宇治町離宮社(宇治郷)には応神天皇の離宮(支城)があったようです。
宇治上神社とパレルモを結ぶラインの近くには、京都府亀岡市の天照皇大神社、高倉神社(京都府綾部市)、元伊勢内宮皇大神社、八幡神社(大成八幡神社)(京都府京丹後市)があります(図20)。天照皇大神社は、丹波国にあったので、祭神の天照大御神は、大日孁貴(神大市比売)だったと思われます。
赤磐市の備前国分寺跡(写真2)の近くにある5世紀後半の両宮山古墳(写真3)は、備前地域では最大の前方後円墳で、吉備上道臣の田狭(たさ)の墓と伝えられています。両宮山古墳は、摩耶山と同緯度にあり(図21)、おのころ島神社とチャタル・ヒュユクを結ぶラインの近くにあります(図22)。このラインは、大石見神社(鳥取県日野郡日南町)、石見神社(日南町)、宇賀神社(島根県出雲市口宇賀町)の近くを通り、楯築遺跡と勝間田神社を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図22)。
第21代雄略天皇は、葛城の円(つぶら)大臣らを滅ぼした後、田狭を任那に派遣し、田狭の妻稚媛(わかひめ)を召し上げています。『日本書紀』によれば、雄略7年(463年)には、田狭らが、大和政権に対して反乱を起こしたとされ、両宮山古墳以後に吉備で古墳規模が縮小することとの対応を推測する説があります。両宮山古墳は、大仙陵古墳(仁徳天皇陵)の約5分の2の相似形なので、仁徳天皇の妃で、吉備海部直(大伯国造)の娘の黒媛のために作られたと推定されます。両宮山古墳には葺石や埴輪が見つかっていないことなど、両宮山古墳が最終的に完成しなかったのは、築造に田狭が係わっていたためと思われます。両宮山古墳の北側に位置する陪塚の和田茶臼山古墳は、主墳の人物と親密な関係が想定されていて、同様に葺石や埴輪が見つかっていないことから、田狭が自らの墓を作っていたのかもしれません。
黒媛の出身は岡山県津山市なので、仁徳天皇が応神天皇から譲られたとされる日向髪長媛の話は、黒媛の話が基になっていると思われ、黒媛は、品陀真若王の娘で、仲姫命の姉の弟姫命と思われます。葛城襲津彦は、品陀真若王と推定されるので、『万葉集』にある仁徳天皇の后の磐之媛命(葛城襲津彦の娘)の歌とされる「ありつゝも君をば待たむ 打ち靡くわが黒髪に 霜の置くまでに」などは、黒媛(弟姫)の詠んだ歌で、磐之媛命は黒媛と思われます。
文献
1)真壁忠彦 真壁葭子 1995 「古代吉備王国の謎」 山陽新聞社
2)白石太一郎 2018 「古墳の被葬者を推理する」 中央公論新社
3)武光 誠 2003 「大和朝廷と天皇家」 平凡社新書
4)丸谷憲二 「百枝八幡宮より見える吉備国の古代史」 せとうちキラリ☆くらぶ 6 月例会