温故知新(64)葛城氏 和珥氏 馬見古墳群 葛城襲津彦 佐味田宝塚古墳 葛城円 極楽寺ヒビキ遺跡 長屋王 春日和珥童女君 東大寺山古墳 春日大娘皇女 巣山古墳 恭仁京 聖武天皇 橘諸兄 井手寺跡 蓬莱山
『百済記』には、382年に倭国は沙至比跪(さちひこ)を遣わして新羅を討たせようとした記録があり、通説では「沙至比跪」は、葛城襲津彦とされています。『紀氏家牒(きのしかちょう)』によれば、葛城襲津彦は武内宿禰の子とされ、葛城氏およびその同族の祖とされています。記紀ともに仁徳天皇の妃磐之媛は葛城襲津彦の娘で、履中・反正・允恭の母としています。葛城の名は『日本書紀』神武天皇の巻に、土賊を葛の蔓で作った綱で覆い捕えたことが起源とされていますが、出雲健(品陀真若王と推定)の刀に「黒葛(つづら)」が巻かれていたことと関係があると思われます。
奈良盆地西南部にある馬見古墳群は、4世紀末から6世紀にかけて造営されたと推定され、古代豪族の葛城氏の墓域とみる説があります。馬見古墳群は、奈良県天理市の和珥氏の拠点にある東大寺山古墳と日前神宮・國懸神宮(和歌山市)を結ぶライン上にあります(図1)。
馬見古墳群にある佐味田宝塚古墳は、墳丘の裾から出土した円筒埴輪列から、4世紀末から5世紀初頭頃に造られたものと考えられています。佐味田宝塚古墳からは、三角縁神獣鏡の他に家屋文鏡(かおくもんきょう)が出土していますが、家屋文鏡にある類似の竪穴建物が東大寺山古墳から出土した鉄刀の中にある「家形飾環頭柄頭」に表されています。
佐味田宝塚古墳と東大寺山古墳を結ぶラインは、唐古・鍵遺跡とマラケシュを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図2)。唐古・鍵遺跡とマラケシュを結ぶラインの近くには、額安寺(奈良県大和郡山市)があります。このラインは、佐味田宝塚古墳の被葬者と和珥氏との関係を示していると推定されます。
武内宿禰の墓と推定される室宮山古墳と佐味田宝塚古墳を結ぶラインは、向日神社(京都府向日市)と高倉神社(和歌山県新宮市)を結ぶラインとほぼ重なります(図3)。このラインの近くには、石清水八幡宮(京都府八幡市)、熊野本宮大社(和歌山県田辺市)、高倉神社(田辺市)があります(図3)。
熊野本宮大社、向日神社、龍宮総宮社(徳島県阿南市)を結ぶ三角形のラインを引くと、向日神社と龍宮総宮社を結ぶラインは、熊野本宮大社とブラウロン(Brauron)遺跡を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図4)。熊野本宮大社とブラウロン遺跡を結ぶラインの近くには、日前神宮・國懸神宮、伊弉諾神宮、家島神社(姫路市)があります(図4)。家島神社は、伝承によると、神倭磐彦命(神武天皇)が、大和橿原の地に向かう途中に当地に寄港し、港内が風波穏やかで、あたかも家の中にいるように静かであったので「いえしま」と名付けたといわれています。
佐味田宝塚古墳の副葬品から、被葬者は大王家と深いかかわりを持つ人物と推定されています。これらのことから、佐味田宝塚古墳は、武内宿禰の子の葛城襲津彦の墓と推定されます。佐味田宝塚古墳に近い、前方後円墳の巣山古墳からは、玉類・腕輪型石製品が出土しています。巣山古墳周辺には、神功皇后の墓と推定される富雄丸山古墳に似た乙女山古墳などいくつかの帆立貝形古墳があります。帆立貝形(纒向型)の源流は、楯築遺跡(天照大神、大日孁貴、倭国香媛の墓と推定)とされています。品陀真若王に皇子がいなかったため、葛城襲津彦が和珥氏の娘と結婚したのではないかと思われます。
古代豪族葛城氏の本拠地とされる南郷遺跡群の南部に、柱の火災の痕跡から葛城円の邸宅という説もある5世紀前半の豪族居館遺跡(極楽寺ヒビキ遺跡)があります。極楽寺ヒビキ遺跡とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くには、百舌鳥耳原南陵(履中天皇陵古墳)や、伯耆稲荷神社(鳥取県東伯郡琴浦町)があります(図5)。
大神神社とジェッダを結ぶラインの近くにナガレ山古墳(馬見古墳群)があり、このラインは、極楽寺ヒビキ遺跡と長屋王邸跡を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図6)。また、大神神社と極楽寺ヒビキ遺跡を結ぶラインの近くに室宮山古墳があります(図6)。長屋王は、天智天皇と天武天皇の孫ですが、対立する藤原四兄弟の陰謀といわれる729年に起きた長屋王の変で自殺しています。長屋王と吉備内親王(草壁皇子と元明天皇の皇女)の子に、長屋王の変で自害した葛城王がいます。ナガレ山古墳は、5世紀前半の築造と推定され、葛城襲津彦の子の葛城葦田宿禰の墓かもしれません。『紀氏家牒』逸文では葛城円大臣も葦田宿禰の子とされます。
葛城系の大王は、武烈天皇で途絶えますが、手白香皇女が継体大王の大后となり、葛城氏の血筋は、欽明-敏達へと受け継がれました。手白香皇女の真陵は、オオヤマト古墳群内の西山塚古墳に比定する説が有力です。富雄丸山古墳と西山塚古墳を結ぶラインは、巣山古墳と東大寺山古墳を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図7)。神功皇后の母は葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)ですが、神功皇后は、彦坐王の孫と推定されるので、和珥氏の系統と推定され、このラインは、和珥氏の関係でつながっていると推定されます。
春日和珥童女君は、第21代雄略天皇の妃とされ、春日大娘皇女は、第24代仁賢天皇の皇后で、第22代清寧天皇とほぼ同世代です(参考:古代天皇系図)。第20代安康天皇と第21代雄略天皇は第19代允恭天皇とは血縁関係がなく、清寧天皇が允恭天皇の第2皇子の坂合黒彦皇子と推定されます。また、第25代武烈天皇は春日大娘皇女や手白香皇女とは血縁関係がないと推定されます。春日大娘皇女の「出自についての記述」を見ると、物部目大連の行動は、春日大娘皇女が葛城襲津彦の娘で、襲津彦の血筋を残そうとしたと考えると理解できます。これらのことから、4世紀後半の築造とされる東大寺山古墳が葛城襲津彦の妻の春日和珥童女君の墓で、巣山古墳が娘の春日大娘皇女の墓と推定されます。
740年に起こった藤原広嗣の乱の後、聖武天皇の勅命により、平城京から山背国相楽郡(現在の京都府木津川市加茂地区)の恭仁京に遷都されました。相楽が選ばれた理由として右大臣(のち左大臣)の橘諸兄(初名は葛城王(葛木王))の本拠地であったことが指摘されています。馬見古墳群と恭仁京跡を結ぶラインは、石上神宮(天理市)とメンフィス博物館を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図8)。石上神宮や東大寺山古墳からは、「ハルパー」と関係があると推定される内反りの鉄刀が見つかっています。物部氏が祭祀する石上神宮とメンフィス博物館を結ぶラインの近くには、紫雲山 中山寺(兵庫県宝塚市)があります(図8)。紫雲山 中山寺は、寺伝では聖徳太子が建立したとされるので、このラインは、聖徳太子と葛城氏や物部氏は同族と推定されることと整合します。
トルコの古代都市セリヌス(Selinus Ancient City)と恭仁京跡を結ぶラインの近くに、橘諸兄別邸跡(玉井頓宮)があったとされる「六角井戸」(京都府綴喜郡井手町石垣字宮ノ本)や、橘諸兄夫妻の供養墓がある地福寺(井手町字北溝)があります(図9)。恭仁京とパルテノン神殿を結ぶラインの近くに、橘諸兄公旧跡(井手町)や、橘諸兄が創建したと伝わる井手寺(井堤寺)跡があります(図9)。
恭仁京は、石上神宮と蓬莱山(滋賀県大津市葛川木戸口町)を結ぶラインの近くにあります(図10)。このラインの近くには、弘仁寺(奈良市虚空蔵町)や稲荷大明神(京都市伏見区醍醐二ノ切町)があります(図10)。
蓬莱山と沖の白石を結ぶラインは、長命寺(滋賀県近江八幡市)とスカラ・ブレイを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図11)。長命寺とスカラ・ブレイを結ぶラインは、白髭神社、音羽古墳群、闇見神社の近くを通ります(図11)。長命寺は、千手観音を本尊とし、開基は聖徳太子と伝えられているので、音羽古墳群が聖徳太子と関係があると推定されることと整合します。