温故知新(63)玉前神社 小野神社 逢善寺 縣神社 橘比売命(八坂入媛命) 桃太郎伝説
千葉県長生郡一宮町にある玉依姫命を祀る上総国一宮 玉前神社は、和珥氏を祖とする小野氏の関係の神社と思われます。「小野」を社名に持つ小野神社は、多くは古代豪族・小野氏に関係するとされています。茨城県稲敷市には小野川があり、稲敷市小野には、小野神社や「小野の観音様」として古くから親しまれている千手観音を本尊とする逢善寺(ほうぜんじ)(写真トップ)があります。千手観音は、オシリスと関係があると思われます。本堂の棟鬼飾りなどには、大きな菊花紋が飾られています(写真1)。逢善寺の境内には巨木があり(写真2)、本堂の天井には常陸国河内郡寺内村(現在の稲敷市寺内)出身の日本画家、松本楓湖により描かれた天女が舞う絵「飛天の図」(写真3)があります。
玉前神社と聖ミカエルの山を結ぶラインは、千葉県茂原市の菊理媛命を祀る白山比咩神社や日光東照宮(栃木県日光市)の近くを通り、アレクサンドリアやパレルモとレイラインでつながっている武蔵国一宮 小野神社(多摩市)と逢善寺に隣接する小野神社(稲敷市)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図1)。玉前神社と小野神社(多摩市)を結ぶラインの近くには景行天皇ゆかりの姉崎神社(千葉県市原市)があり、小野神社(多摩市)と小野神社(稲敷市)を結ぶラインの近くには、天照大神を祀る神明社(柏市)があります(図1)。出雲市大社町にある日御碕神社(神紋は三ツ柏)には、素盞嗚尊と天照大御神が祀られ、夫婦円満の御利益があります。日御碕神社の神職の小野氏は家紋を「柏」としていることから、柏市の「柏」は、賀志波比売命(天照大神と推定)の「賀志波」に由来するのかもしれません。
神明社(写真4)の祭神は、天照大神(大神宮)、誉田別命(八幡社)、武甕槌神(春日社)の三社神明造で、市指定無形文化財である塚崎十二座神楽が奉納されています。神明社の境内に合祀されている石祠には、西之宮大神宮や大生神社境内にあるような菊花紋のある石祠があります(写真5)。「金比羅」の文字があるので、市杵島姫命を祀る厳島神社と思われます。
玉前神社と長沼八幡宮(栃木県真岡市)を結ぶラインは、千勝神社(茨城県つくば市)の近くを通り、麻賀多神社(成田市)と意富比神社(船橋大神宮)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図2)。長沼八幡宮と麻賀多神社を結ぶラインと意富比神社(船橋大神宮)と常陸第三宮 吉田神社(茨城県水戸市)を結ぶラインの交点付近に豊受姫命を祀っていると推定される女化神社(龍ヶ崎市)があります(図2)。
吉田神社は、日本武尊が、境内にある朝日三角山で朝日を拝み「ここは良い(吉)田が出来るぞ」と言ったことが神社の名前の由来とされています。吉田神社に祀られている日本武尊は、意富比神社(おおひじんじゃ)に大日孁貴(おおひるめのむち)を祀ったと推定される第13代成務天皇(倭建命と推定)だったと思われます。つくば市の千勝神社は、1964年(昭和39年)に下妻市の元宮から遷座され、元宮の創建は502年(武烈天皇の壬午年)です。千勝神社には猿田彦神が祀られていますが、「千勝」の名前から元は正勝吾勝々速日天之忍穂耳命(加具土命と推定)が祀られていたのではないかと思われます。加具土命が猿田彦神に替わったとすると、息栖神社の祭神が、加具土命から猿田彦神と同神ともされる久那斗神(岐の神)に替わったと推定されることと似ています。
意富比神社(船橋大神宮)と吉田神社を結ぶラインの近くにある白井市(図2)の旧家川上家から、内反りの短刀が見つかっています。鍔にはダブルスパイラル(S字文)の連続文様があり、川上家は江戸時代後期に牧士に任じられています。江戸幕府の御用牧では、名主などの有力農民が多くその任務にあてられ、名字帯刀など武士に準じる身分特権を与えられました。白井市の川上家は、物部氏・尾張氏・海部氏系の川上氏で、川上梟帥(天穂日命(加具土命)を祖とする五百城入彦皇子と推定)の後裔かもしれません。
景行天皇は、即位52年に八坂入媛命を立后し、即位53年から54年にかけて日本武尊の事績を確認するため東国巡幸しています。千葉県大網白里市にある縣神社に祀られている橘比賣命は、景行天皇の后と推定されるので、橘比売命は八坂入媛命で、景行天皇(倭建命と推定)と共に巡幸したのではないかと思われます。八坂入媛命の母は未詳ですが、和珥氏だったのかもしれません。
玉前神社とスカラ・ブレイを結ぶラインの近くに、日本武尊の后である弟橘媛を祀っている橘樹神社(千葉県茂原市)、縣神社(大網白里市)、橘神社(千葉市緑区)、千勝神社、長沼八幡宮があり、このラインは、橘神社(埼玉県上尾市)と橘郷造神社(茨城県行方市)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図3)。成務天皇(倭建命と推定)や五百城入彦皇子の母の八坂入媛命が橘比売命とすると、五百城入彦皇子の後裔と推定される伊福部氏と関係があると推定される井伊氏の井伊直政が橘紋を使用した理由がわかります。
「橘氏」は、県犬養三千代が、和銅元年(708年)に第43代天皇で女帝の元明天皇から「橘」の姓を受けたことが始まりといわれます。元明天皇は、天智天皇第四皇女子で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘の姪娘(めいのいらつめ)です。天武元年(672年)の壬申の乱で、大海人皇子(天武天皇)に鞍馬を提供した人物に、大海人皇子の舎人の県犬養大伴がいます。犬養部は犬を用いて屯倉の守衛をしていたという説が有力になっていて、犬飼氏および犬養部の研究では、蘇我氏との関連が指摘されています。県犬養三千代は、はじめ敏達天皇系の美努王(みぬおう/みのおう)に嫁し、葛城王(後の橘諸兄)をはじめ、佐為王(後の橘佐為)・牟漏女王を生んでいますが、後に藤原不比等の後妻となっています。
岡山の桃太郎伝説では、桃太郎が吉備津彦命で、鬼が温羅一族となっていますが、桃太郎のお供の犬・猿・雉にはモデルがあり、犬のモデルは、犬養毅元首相の先祖の犬飼部犬飼健命といわれています。犬養毅元首相の生地は、吉備津神社(岡山市北区)に近い備中国賀陽郡川入村(現・岡山市北区川入)です。『日本書紀』によれば、吉備国に設置された白猪屯倉(しらい の みやけ)には、555年に蘇我稲目ら、574年に蘇我馬子が遣わされ、児島屯倉(こじま の みやけ)には、556年に蘇我稲目らが派遣されたとされています。香川の桃太郎伝説では、吉備津彦命の弟である稚武彦命が桃太郎ということになっているようです。讃岐の三木氏には神櫛王(仲哀天皇と推定)を祖とする讃岐国造の後裔氏族があり、橘氏支流の讃岐永成の一子で讃岐元重が讃岐国三木郡を領して、三木氏を称したことに始まるとされます。これらのことから、犬・猿・雉の登場する桃太郎伝説は、6世紀以降に作られたと推定されます。
温羅伝説にある「百済の王子」は、461年に倭国に来た百済の王族の昆支王(雄略天皇と推定)のことかもしれません。稲荷山古墳でみつかった「金錯銘鉄剣」にある「斯鬼宮(しきのみや)」が、雄略天皇の宮と推定されることから、元は、昆支王が鬼とされていたのではないかと思われます。
白猪屯倉の場所は、美作国大庭郡という説があり、「大庭郡」は「真庭郡」の南部で、五反廃寺跡(真庭市)がその地域に収まり、同寺跡出土の瓦が高句麗系のもので、白鳳期間に遡るものがあることから、古くから帰化人(渡来人)が居住していたことが知られています。屯倉は、中国北朝の均田制が高句麗を通じて伝来した可能性も考えられていて、「白猪屯倉」は、「児島屯倉」とともに、吉備国造の支配していた地帯を南北にはさむ形で設置されています(wikipedia 白猪屯倉)。
吉備の児島は、大陸との交流と貿易に欠くことのできない大和政権の拠点でした(児島の歴史)。児島屯倉の所在地は不明ですが、神功皇后が舟がかりして休まれたと伝えられている龍王山や『万葉集』歌人の大伴旅人、筑紫娘子児島の歌碑があるJR児島駅に近い児島味野付近と仮定すると、白猪屯倉遺阯碑(五反廃寺)と児島味野を結ぶラインの近くには、出雲建(品陀真若王、温羅と推定)の城だったと推定される鬼ノ城跡や備中国分寺跡があります(図4)。
児島は、西日本では最も古い「土器製塩」が行われた場所のひとつで、水島諸島(児島諸島)の釜島(倉敷市)では縄文・弥生土器や古墳が見つかっていて、島には鹽竈神社があります(図5)。釜島の鹽竈神社と約10,600年前(縄文時代早期前葉)の上野原遺跡と関係があると推定されるチャタル・ヒュユクを結ぶラインの近くに、倉敷市玉島勇崎の塩釜神社(鹽竈神社)があります(図5)。
塩釜神社(栃木県矢板市)や、鹽竈神社(長野県松本市)、鹽竈神社(宮城県塩竈市)は、パレルモとレイラインでつながっているので、倉敷市の鹽竈神社の方が古いと思われます。