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温故知新(54)欽明天皇 丸山古墳 チャタル・ヒュユク 蘇我稲目 都塚古墳 馬子 石舞台古墳 蝦夷 小山田古墳 入鹿 菖蒲池古墳 廣田神社 須我神社(須賀宮) 日岡神社 阿遅鉏高日子根 スキタイ

 丸山古墳は、古墳時代後期後半に築造されたものの中では最大の規模の前方後円墳です。築造は6世紀後半と推定され、第29代欽明天皇と蘇我稲目の娘の堅塩媛(きたしひめ)の陵墓であるとの説があります。当時、蘇我氏が付近を根拠地としていました。

 丸山古墳とチャタル・ヒュユクを結ぶラインは、神功皇后が凱旋の帰途に創祀した廣田神社(西宮市大社町)、岩戸神社(神崎郡市川町)、三室山(宍粟市千種町)、丹生川上神社中社や丹生都比売神社ともつながっている青谷上寺地遺跡の近くを通ります(図1)。三室山を兵庫県側に下った一宮町に伊和神社があります。丸山古墳、廣峯神社元伊勢外宮 豊受大神社を結ぶ三角形のラインを描くと、丸山古墳とチャタル・ヒュユクを結ぶラインは、廣峯神社と元伊勢外宮 豊受大神社を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図1)。これらのことから、丸山古墳は大丹生氏の祖と推定される継体天皇の嫡男、欽明天皇の陵墓と推定されます。

図1 丸山古墳、廣峯神社、元伊勢外宮 豊受大神社を結ぶ三角形のライン、丸山古墳とチャタル・ヒュユクを結ぶラインと廣田神社、岩戸神社、三室山、青谷上寺地遺跡

 古事記・日本書紀に記載されている「須賀宮(すがのみや)」とされる須我神社(島根県雲南市大東町須賀)と蘇我馬子の墓と推定されている奈良県明日香村にある石舞台古墳を結ぶラインは、日岡神社(加古川市)、丸山古墳、菖蒲池古墳(橿原市菖蒲町)、小山田古墳(高市郡明日香村)の近くを通ります(図2、3)。須我神社には、須佐之男命が蘇民将来に一夜の宿を借りた礼に授けた悪切除災招福にまつわる神事があり、八岐大蛇(九頭龍と推定)を「諸悪の権化」としています。須佐之男命に「素盞嗚」の漢字をあてたのは「蘇民将来」と関係があると推定されますが、「蘇我」の「蘇」も「蘇民将来」と関係があると思われます。須我神社は、熊山遺跡とチャタル・ヒュユクを結ぶレイライン上にあるので、元は「須賀宮」で、蘇我馬子が「須賀宮」を「須我神社」とし、蘇我氏の氏神としたのではないかと思われます。

 日岡神社の現在の主祭神である天伊佐佐比古命の由来は詳らかではありませんが、近年の社伝によると、播磨稲日大郎姫命による大碓命・小碓命(日本武尊)ら双子出産に際し、天伊佐佐比古命はその安産祈願をしたとしています。日岡神社の祭神は、古くは『播磨国風土記』賀古郡条で、大御津歯命(おおみつはのみこと)の子の伊波都比古命(いはつひこのみこと)と記されています。大御津歯命は、罔象女神(みつはのめのかみ)と推定され、瓊瓊杵尊(饒速日尊)の后と推定されるので、日岡神社の主祭神だった伊波都比古命は、大国主命(孝元天皇)と推定されます。日岡神社を創建したのは、景行天皇(吾賀古君)ではないかと思われます。

 菖蒲池古墳小山田古墳は方墳で、石舞台古墳と同じライン上にあるので、蘇我氏の墓と推定されます。小山田古墳は馬子の子の蝦夷の墓の「大陵(おおみささぎ)」に比定する説があります。また、石舞台古墳に近い都塚古墳(図3)を馬子の父の稲目の墓、菖蒲池古墳を蝦夷の子の入鹿の墓とする説があります(蘇我氏4代の墓を探る!)。須我神社と石舞台古墳を結ぶ図2のラインは、石舞台古墳の被葬者とされる馬子以降に造られたと推定されることから、ライン上にある小山田古墳が馬子の子の蝦夷、菖蒲池古墳が馬子の孫の入鹿の墓と推定され、ラインから外れている都塚古墳が馬子の父の稲目の墓と推定されます。丸山古墳がライン上にあるのは、稲目の娘の堅塩媛が葬られているためと推定されます。

図2 須我神社と石舞台古墳を結ぶラインと日岡神社
図3 須我神社と石舞台古墳を結ぶラインと丸山古墳、菖蒲池古墳、小山田古墳

 蘇我氏が歴史の舞台に登場するのは6世紀の初めで、欽明天皇の頃からです。法隆寺の 四騎獅子狩文錦救世観音像などには、紀元後226年に登場したササン朝ペルシャの影響が見られるといわれています。ササン朝はネストリウス派キリスト教の信仰に寛容で、北インドのクシャーナ朝が衰退すると、ササン朝と中国(魏晋南北朝時代)が国境を接するようになり、ネストリウス派キリスト教も中国に伝えられ、後に景教と言われるようになりました。

 藤原北家と姻戚関係にあった秦氏はネストリウス派キリスト教徒だったと思われますが、秦氏は、815年に編纂された『新撰姓氏録』によれば、秦王朝始皇帝の末裔であるという意味の記載があり、また『日本書紀』応神天皇条によると、応神天皇14年(283年)に百済を経由して百二十県の人を率いて帰化したと記される弓月君が秦氏の祖とされています。秦の始皇帝の妃の頭蓋骨から3D出力で顔を復元した結果、中国系ではなく、ヨーロッパ系の人物の可能性があるようです。また、2006年6月28日の新華社電は、始皇帝陵の墓から出土した人骨がペルシャ系のDNA と同じ特徴を持つ男性の骨と分かったと伝えています。

 法隆寺の仏像は、高句麗を経て日本に伝わった北魏様式や、百済からもたらされた南朝様式など、古い時代の中国や韓国の影響を色濃く残している。737(天平9)年、都で天然痘が流行し、藤原氏など政治の中枢にいた人物が相次いで亡くなった。これを聖徳太子の怨霊の仕業だと考えた人々は、太子が亡くなってから100年以上を経てから、夢殿を建て、太子の供養をしたのではないかという推論がある。つまり、太子の怨霊を恐れた人々が、太子を神として祭り上げて夢殿の扉を閉ざし、更なる災難を繰り返さないように、太子の等身像を白布で巻いて封印したというストーリーが浮かび上がってくるのである。

出典:法隆寺 封印された救世観音

 秦氏の弥勒菩薩像にはキリスト教の影響が見られますが、蘇我氏は、高句麗系の渡来人と推定され、馬子は、扶余の仏像に似た百済の石の弥勒菩薩像を祀っていたことから、秦氏と同じく北魏系と思われます。高松塚古墳の「男子群像」の衣笠(きぬがさ)や、仲哀天皇の陵墓と推定される誉田御廟山古墳などから見つかっている蓋形(きぬがさがた)埴輪は、ペルシャの影響と思われます。祇園祭には、17世紀に伝わったとされるペルシャ絨毯が山鉾を飾る懸装などに飾られています。祇園祭では天照大神が男神とされているのは、秦氏の信仰する太陽神が男神だったためと思われます。

 前6世紀後半、イラン高原に興ったアケメネス朝ペルシアは、東方に進出し「サカ」と総称される遊牧騎馬民族(スキタイ)と接触したようです。『古事記』『日本書紀』で葦原中国平定の段に登場するアヂスキタカヒコネ(アジスキタカヒコネ、阿遅鉏高日子根、味耜高彦根、阿遅鋤高日子根)の持つ十掬剣(神度剣)は、北魏の剣を表していると推定されます。アヂスキタカヒコネは、大和国葛城の賀茂社の鴨氏が祀っていた神ですが、鴨氏は秦氏と婚姻関係を結んでいます(鴨氏と秦氏の謎過ぎる関係性とは?)。もしかすると、阿遅鉏高日子根の「阿遅(あじ)」は、阿字八幡宮の「阿字(あじ)」の意味の「始まり」を表し、「鉏高」は「スキタイ」を表し、「阿遅鉏高」は「最初のスキタイ人」という意味かもしれません。賀茂建角身命が須佐之男命であることを、鴨氏が隠してきたと思われるのは、秦氏との姻戚関係があったためと思われます。