温故知新(44)縄文文明 三内丸山遺跡 デーノタメ遺跡 真脇遺跡 遮光器土偶 田端環状積石遺構 棚畑遺跡 是川石器時代遺跡 伊川津貝塚遺跡
藻岩山と約10,600年前からの遺跡がある鹿児島県の上野原遺跡を結ぶラインは、三峯神社 奧宮とチャタル・ヒュユクを結ぶラインとほぼ直角に交差します。藻岩山と三峯神社 奥宮を結ぶラインの近くには、大平山元遺跡(東津軽郡 外ヶ浜町)、三内丸山遺跡(青森市)、伊勢堂岱遺跡(秋田県北秋田市)があります(図1)。伊勢堂岱遺跡は、世界文化遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」の中で一番南西に位置する遺跡で、三内丸山遺跡は、縄文時代前期中頃から中期末葉(約5900-4200年前)の大規模集落跡です。大平山元遺跡は、旧石器時代の日本各地の石器や、15,000年以上前の土器片も見つかり、定住がはじまったころからの遺跡に位置づけられています。
埼玉県北本市にあるデーノタメ遺跡は、2023年10月に公表された「指定相当の埋蔵文化財」にリスト入りした縄文時代中期(約5,000年前)から縄文時代後期(約3,800年前)にかけての集落及び水場の遺跡です。デーノタメ遺跡とアルテミス神殿を結ぶラインは、亀ヶ岡石器時代遺跡と元伊勢籠神社を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図2)。亀ヶ岡石器時代遺跡は、縄文時代晩期(約3,000~2,400年前)を中心とした遺跡で、漆塗りの土器や漆器、土偶、植物製品、ヒスイ製の玉類が出土しています。籠神社 奥宮 眞名井神社境内地からは、縄文時代の石斧や掻器などが出土しています。デーノタメ遺跡とアルテミス神殿を結ぶラインの近くには、榛名神社(群馬県高崎市)があります。また、亀ヶ岡石器時代遺跡とデーノタメ遺跡を結ぶラインの近くには、出羽三山神社(羽黒山神社)(山形県鶴岡市羽黒町)があり、デーノタメ遺跡と元伊勢籠神社を結ぶラインの近くには、御嶽神社 里宮(王滝口)(長野県木曽郡王滝村)があります(図2)。
デーノタメ遺跡と幣立神宮を結ぶラインの近くに、弥生時代の環濠集落の遺跡である唐古・鍵遺跡や古代からの聖地だったと推定される剣山があります(図3)。神武天皇や豊玉姫命(倭迹迹日百襲姫命)と関係があると推定される唐古・鍵遺跡は、弥生時代前期から後期まで約700年間の間、途切れずに集落として存在し続けていました。幣立神宮は、社伝によると、神武天皇の孫である健磐龍命が、阿蘇に下向した際この地で休憩し、眺めがとても良い場所であると、幣帛を立て天神地祇を祀ったといわれます。縄文遺跡と弥生遺跡が同じレイライン上にあることから、縄文人と弥生人は同系統の民族と推定されます。
図3のデーノタメ遺跡と幣立神宮を結ぶラインと、幣立神宮と亀ヶ岡石器時代遺跡を結ぶライン、亀ヶ岡石器時代遺跡とデーノタメ遺跡を結ぶラインで三角形を描くと、幣立神宮と亀ヶ岡石器時代遺跡を結ぶラインは、デーノタメ遺跡とオリンポス山を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図4)。デーノタメ遺跡とオリンポス山を結ぶラインの近くには、伊香保神社(群馬県渋川市)、石水寺跡/吾妻三十三観音/17番札所跡(群馬県吾妻郡中之条町)があります(図4)。
羽黒山と沖ノ島を結ぶ直線上に佐渡の羽黒神社があることが知られています。宗像大社 沖津宮(福岡県宗像市)と出羽三山神社(山形県鶴岡市)を結ぶラインは、デーノタメ遺跡とモロッコのマラケシュを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図5)。デーノタメ遺跡と宗像大社 沖津宮を結ぶラインの近くには高岡神社(岡山県真庭市)があり、宗像大社 沖津宮と出羽三山神社を結ぶラインの近くには、許豆神社(島根県出雲市)、總持寺 祖院(石川県輪島市)、羽黒神社(新潟県佐渡市)があります(図5)。また、デーノタメ遺跡とマラケシュを結ぶラインの近くには赤城山(群馬県前橋市)があります(図5)。
ハドソン湾からデーノタメ遺跡までの距離は8,600km程度で、ハドソン湾からメンフィスまでの距離(8,500km程度)と近い値です(図6)。このラインの近くには、金刀比羅神社(岩手県久慈市)、陸中一宮 駒形神社(岩手県奥州市)、毛越寺(岩手県西磐井郡平泉町)、宇岐須神社(宮城県加美郡加美町)、貴船神社(宮城県黒川郡大衡村)、大國神社(仙台市青葉区)、福島稲荷神社(福島市宮町)、那須波切不動尊 金乗院(栃木県那須塩原市)、宇都宮二荒山神社(宇都宮市)などがあります(図6)。これは、ハドソン湾に北極点があった時代に、縄文人が、かつての北極星を北の方角の目印にしたことからできたレイラインと思われます。
デーノタメ遺跡は、鹿島神宮と諏訪大社下社 春宮を結ぶラインの近くにあります(図7)。このラインの延長線上の近くには、天照皇大神社(石川県加賀市山中温泉真砂町)があり(図7)、真砂地区は山中漆器の発祥の地ともいわれます。デーノタメ遺跡から発掘されている漆製品と関係があると推定されます。
デーノタメ遺跡からはヒスイ製大珠も見つかっていますが、千葉県松戸市の「21世紀の森と広場」にある旧石器時代から縄文時代にかけての出来山遺跡とギョベクリ・テペを結ぶラインは、デーノタメ遺跡やヒスイ海岸の近くにある小滝川ヒスイ峡(新潟県糸魚川市)の近くを通ります(図8)。
縄文時代の黒曜石、ヒスイ、漆などの産地が聖地になったと推定されることから、鹿島は砂鉄が採れたことから聖地になったと思われます。鉄は縄文時代末から弥生時代のはじめころ、大陸からもたらされたと考えられていて、製鉄技術は、燕国などから導入されたと推定されます。鹿嶋地域では、奈良時代の頃の鍛冶工房が見つかっていて、『常陸国風土記』の鹿島(香島)郡の条には「慶雲元年(704年)に国司の采女朝臣(うねめのあそん)が鍛冶師の佐備大麿(さびのおおまろ)らを率いて、若松の浜の砂鉄を採って剣を作った。」と記載されているようです。北海道伊達市にある縄文時代の北小金遺跡では世界最古の刀が出土していますが骨刀で、縄文時代の石刀は多く見つかっていますが、鉄刀は見つかっていません。徳島県では弥生時代の矢野遺跡の鍛冶工房で壷入り砂鉄が出土していますが、砂鉄は攻玉用の研磨剤として使われていた可能性があるようです。行方市には「玉造」という地名が残っていることから、ヒスイに穴をあけるのに用いたと推定されている管錐(くだきり)による回転穿孔法1)の研磨剤として、砂鉄のスラリーが用いられたのではないかと思われます。管錐には、硬く丈夫で中空の三葉空木(ミツバウツギ)の枝が使われたのかもしれません。
彌彦神社の参道手水舎前には、石油精製蒸留釜があり、弥彦神社は石油の守護神ともされています。彌彦神社から22.4kmの距離にある大沢谷内遺跡(新潟市)(図9)からは、アスファルトの塊が縄文時代から中世まで見つかっていて、縄文時代の石鏃の根元部分に接着に使ったものや土器に付着したものも見つかっています。彌彦神社のある地域は、石油が採れたため聖地となったと推定されます。
弥彦神社と黒曜石の採れた神津島を結ぶレイラインが知られています(セキホツ熊の謎を追え!)。ラインの近くには、十二神社巻機神社(新潟県南魚沼市)、上野国一社八幡宮(群馬県高崎市)、伊豆沢文殊堂(埼玉県秩父郡小鹿野町)、三頭山(みとうさん)、伊豆山神社 本宮社(静岡県熱海市)などがあります(図10)。
大沢谷内遺跡とデーノタメ遺跡を結ぶラインの近くには、十二山神社(新潟県魚沼市)、庚申山の奥ノ院とされる皇海山、伊勢神社(栃木県足利市)、古代蓮の里(埼玉県行田市)などがあります(図11)。大沢谷内遺跡とデーノタメ遺跡は、物々交換などの交流があったと推定されます。
亀ヶ岡の土偶の製造方法は、天然アスファルトを粘土に混入して焼くという方法で、シュメール文明でも見られるようです2)。川崎真治氏の説では、シュメール文明で造られた女神像が遮光器土偶像に似ていることに注目し、日本の土偶は、シュメール文明の影響を受けた可能性があるとしています2)。遮光器土偶の用途は不明ですが、人形として穢れを落とすため、壊して埋めたという説などがあります。ウルで発見された「子供をあやすトカゲ頭の裸婦」(紀元前4,500年から4,000年)の頭や顔は、遮光器土偶のものと類似性が見られます。遮光器土偶の顔がウミガメを模っているとすると、シュメールの像も同様と推定され、目の位置は、シュメールの像の方がよりウミガメに近いと思われます。この像は考古学者によると儀式的なものではないとされていますが、日本西アジア考古学会の前田徹氏の『シュメール語文字史料から見た動物』によると、シュメールでは「カメ」は争い好きとされていたようで、神聖視はされていなかったようです。
古代豪族の土師氏が関係していると推定される能楽の代表的な能面の一つに般若の面がありますが、これは女性の激しい嫉妬や怒りを表現したもので、本来の「般若」(仏の智慧)とは逆のものです。般若と同じ女の怨霊の面で、より激しい怒りの様子を表したのが蛇や真蛇で、面によっては耳がないなど、人間よりも蛇に近い顔つきをしています。能面に関する最古の史料である『申楽談儀』(1430年)には、「般若」の名は見られないものの、般若のような蛇系の鬼女面が使用されていた可能性もあるようです。シュメールのトカゲ頭の像や遮光器土偶の頭の上には、もやもやとした湯気のようなものが載っていて肩を怒らせています。下記にあるように、遮光器土偶は元は赤く塗られてたようなので、真っ赤になって怒っている人を表しているのかもしれません。
アポロン神殿にある古代ギリシアの格言に似ている徳川家康の家訓に「怒りは敵と思え」とあることからも、シュメールの像や遮光器土偶には怒りを戒める意味があり、縄文時代には争いが少なかったとされることと関係があるかもしれません。怒った表情をしている不動明王のように、悪を断ち切って煩悩を消し去る御利益があったのかもしれません。あるいは、壊して埋めることによって、大地の怒りを鎮める意味があったのかもしれません。
デーノタメ遺跡は、ピラミッドとして知られる姫神山(盛岡市)と田端環状積石遺構(町田市)を結ぶラインの近くにあります(図11)。このラインの近くには、清水寺(岩手県花巻市)、船形山(山形県尾花沢市)、磯山神社(栃木県鹿沼市)があります(図12)。
図12のデーノタメ遺跡と田端環状積石遺構を結ぶラインを一辺とし、妙見本宮 千葉神社を対頂点とする三角形を描くと、デーノタメ遺跡と田端環状積石遺構を結ぶラインは、妙見本宮 千葉神社とジェッダを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図13)。妙見本宮 千葉神社とジェッダを結ぶラインの近くには諏訪神社(秩父市中津川)があります(図13)。
田端環状積石遺構は、縄文時代中期から晩期の墓地・祭祀場で、冬至に丹沢山地の蛭ケ岳の真上に太陽が沈むのが観測できることからこの場所が選ばれたとされています。田端環状積石遺構、蛭ケ岳、相模國一之宮 寒川神社は、ほぼ正三角形の位置にあり、田端環状積石遺構と蛭ケ岳を結ぶラインは、寒川神社とモロッコのマラケシュを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図14)。寒川神社とマラケシュを結ぶラインの近くには、熊野皇大神社(長野県北佐久郡軽井沢町)があります(図14)。
デーノタメ遺跡は、棚畑遺跡(長野県茅野市)と同緯度にあり、デーノタメ遺跡の周辺には、縄文系の猿田毘古神を祀る猿田彦神社が多くあります(図15)。もしかすると、デーノタメ遺跡は、天孫降臨で瓊瓊杵尊を出迎えた猿田彦命(猿田毘古神)を王としていたのかもしれません。
棚畑遺跡とチャタル・ヒュユクを結ぶラインの近くには、式内阿礼神社 五百渡頂上御旧蹟 石碑(長野県塩尻市)、北熊井諏訪社(塩尻市)、惣社白山神社(富山県高岡市)、慈眼大師天海大僧正によって建立された清水観音堂(高岡市)があります(図16)。このレイラインは、チャタル・ヒュユクの母神像と「縄文のビーナス」との関係を示していると推定され、パルテノン神殿ともレイラインでつながっている棚畑遺跡の「縄文のビーナス」が、アテナとチャタル・ヒュユクの母神像の両方の特徴を持っていることと整合します。
石川県鳳珠郡能登町にある真脇遺跡は、縄文時代前期(約6,000年前)から晩期(2,300年前)までの約4,000年間、人々が住み続けて繁栄した集落遺跡で、晩期の環状木柱列などが復元されています。真脇遺跡と富士山を結ぶラインは、棚畑遺跡や茅野市尖石縄文考古館の近くを通ります(図17)。富士山は縄文時代から聖なる山だったと推定されます。
富士山とマラケシュを結ぶラインは、図16のラインとほぼ重なり(図18)、富士山、環状列石(山形県長井市)、眞名井神社(籠神社奥宮)を頂点とする三角形を描くと、環状列石と眞名井神社を結ぶラインは、富士山とマラケシュを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図19)。
棚畑遺跡と幣立神宮を結ぶラインの近くには、高知県天然記念物に指定されている紅簾石珪質片岩で知られる竜王山(通称:奥工石山)があります(図20)。また、このラインは、建部大社、八柱神社(徳島県三好郡東みよし町)、網代島などの近くを通ります(図20)。
図20の棚畑遺跡と幣立神宮を結ぶラインを一辺とし、豊受大神宮(外宮)を対頂点とする三角形を描くと、棚畑遺跡と幣立神宮を結ぶラインは、豊受大神宮(外宮)とマラケシュを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図21)。棚畑遺跡と豊受大神宮(外宮)を結ぶラインの近くには大樹寺(愛知県岡崎市)があり、豊受大神宮(外宮)と幣立神宮を結ぶラインの近くには峯神社(徳島県阿南市)があります。また、豊受大神宮(外宮)とマラケシュを結ぶラインの近くには太郎坊宮(阿賀神社)(滋賀県東近江市)があります(図21)。
沖の白石と八海山神社(栃木県矢板市)を結ぶラインは、伊吹山、岩屋岩蔭遺跡、男体山(栃木県日光市)を通り、ラインのほぼ中央に平出遺跡 縄文の村(長野県塩尻市)があります(図22)。このラインは、八ヶ岳信仰の中心の権現岳を通る富士山とモン・サン・ミシェルを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図22)。平出遺跡は、縄文早期から晩期にかけて痕跡をたどることができ、中期 ( 約4,500年前 ~ 5,500年前 )に最も栄えたようです。 平出遺跡の南側の集落には伊夜彦神社が鎮座していますが、当初は「平出の泉」の水神を祀る神社で、後に彌彦神社(新潟県弥彦村)を勧請して現在の社名に改めたようです。八海山神社と富士山を結ぶラインの近くには、源氏ゆかりの冠稲荷神社(群馬県太田市)があります(図22)。
諏訪大社の近くにある棚畑遺跡とアスワンを結ぶラインの近くには、三嶽神社(長野県塩尻市)、平出遺跡 縄文の村、12,000年前に大噴火を起こした焼岳、古来より神聖視されていた天柱石(富山県南砺市)があります(図23)。
棚畑遺跡とヤンガードリアス彗星の衝突場所と推定されているサギノー湾を結ぶラインは、八海神社(新潟県南魚沼市)、月山神社 本宮(山形県東田川郡)、是川石器時代遺跡(青森県八戸市)の近くを通ります(図24)。是川石器時代遺跡では、漆製品が多数発見されています。
図22の棚畑遺跡と天柱石を結ぶラインを一辺とし、図23の棚畑遺跡と是川石器時代遺跡を結ぶライン、是川石器時代遺跡と天柱石を結ぶラインで三角形を描くと、是川石器時代遺跡と天柱石を結ぶラインは、棚畑遺跡とオリンポス山を結ぶラインとほぼ直角に交差し、棚畑遺跡とオリンポス山を結ぶラインの近くには、能登國二ノ宮 天日陰比咩神社(石川県鹿島郡中能登町)があります(図25)。
金沢大や東京大のグループは、愛知県田原市の縄文晩期の土器が発掘されている伊川津(いかわづ)貝塚遺跡から出た人骨について、DNAを調べ系統樹を描いています(朝日新聞デジタル 2020年12月10日 「縄文人」のルーツをDNA解析 アジア東部で最古級か)。その結果、ヒマラヤの南側を通ったホモ・サピエンスの集団の指標となるラオスの遺跡の人骨(約8千年前)に近く、ホモ・サピエンスがアジア東部や日本列島に到達した時期に近い4万~2万6千年前に分岐したと考えられ、北海道礼文島の船泊遺跡の縄文人骨(約3800年前)とも近い関係にあるようです。
富士山と伊川津貝塚と棚畑遺跡をラインで結ぶと、伊川津貝塚と棚畑遺跡をを結ぶラインは、富士山とギョベクリ・テペを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図26)。これらのラインの近くには、智者山神社(静岡県榛原郡川根本町)、大御食神社(長野県駒ヶ根市)、諏訪神社(長野県伊那市高遠町)、大宮大神社(山梨県北杜市)、大山祇命碑(岐阜県高山市高根町日和田)、飛騨山大宮 日枝神社(岐阜県高山市)、金劔宮(石川県白山市)があります(図26)。
縄文時代から、地球レベルでレイラインがつくられ、縄文文明は、古代オリエント文明やエーゲ文明と関係があったと推定されます。デーノタメ遺跡と棚畑遺跡は、多くのレイラインの指標となっているので、縄文時代において重要な場所だったと推定されます。
文献
1)志村史夫 2023 「古代日本の超技術」(新装改訂版) ブルーバックス 講談社
2)朝比奈宏幸 2012 「古事記とアトランティス王国の真実」 ブックコム