「落下の解剖学」決定的証拠のない法廷劇の顛末を描く【映画感想文】
※直接的なネタバレはしてませんが内容に深く触れた、感想文です。
ひとつの事件を追う法廷ドラマとして、すごく楽しめた。
コピーから想像するミステリとしての物語を求める方にはちょっと違うベクトルの話だろうな、とも。
私が観終わったあとすぐに思ったのが、
「この小説家は、この事件を小説にするんだろうな」ということだった。
作中で夫婦の激しい応酬の過程で明らかにされていく事実のひとつに、私生活の会話を録音して小説のネタにしようとしていた、という下りがあった。
だから、自分自身の関わった事件を小説としても、何ら不思議ではない。なんなら、それが映画化されたのが、この「落下の解剖学」なのではないか、とメタなことも感じもした。
「実際に起こった事件の真相を探る」かのようにみえた物語が、裁判の過程で、「きわめて私的な状況証拠を切り貼りして事件の真相を組立ていく」物語へと変貌していく流れを叩き込まれたからがゆえの印象だとも思う。
ミステリとしてたったひとつの真実をあぶり出していく物語ではなく、
都合の良い真実を見立てていく物語だったな、と。
その作らなければならなかった、真実の最後の1ピースを嵌めたのは、目の見えない一人の少年。子どもだ。けれど彼は、裁判の過程で知らなくても良かった親の真実を知り、傷ついた。その傷をいやすには、そして彼がこれから生きていくために、どうあればよいか。
守られる庇護者ではなく、ひとりの「人間」として悩んだ彼のそのための決断が、あの証言だったように思う。補助線を引いたのは、間違いなく父親であり、そして母親でもあった。過去の父親と、未来の母親の姿を「自分の真実=理想の体現」とするために、彼はああ言ったのかな、と。
そもそも事件を解剖して真実を見極めようとしたところで、証拠を分析しているわけでなく、ただ前後の人間心理を暴いているだけだから、見えてくるのは、当たり前に人間というものの複雑怪奇な心理状況でしかない。
あの夫婦の口論だって、徹底的な諍いのようで、愛がないようで、
けれどああまで真剣にやり合いするのは、相手にわかってほしいという情がまだあったからでもないか、と思う。殺人の根拠になんかなりようがない、傍観して観ているとそう思う。
けれど、なにせ証拠がない。だから、ただただひたすらプライベートを掘り進んで、偏見や思い込みも含めてでも、真相を出すしかない。真実を導く法廷のゆがみがこれほど明白に描かれると、どこか滑稽ですらもあった。
あくまで真相は藪の中だから、見当違いに近い感想かもしれないけれど、ただ自分はこう思った、という話。
観た人の数だけ感じ方にバラエティがありそうで、その不確かさがぞくぞくと面白い。私はこういうタイプの作品が好きだなあと心から思えたので、観られて良かったと、深々と安心した。