【水戸散歩】水浜電車の痕跡を発見!
散歩の途中、橋を渡り切ったところで「石碑」を発見!
「水浜電車軌道敷跡」
石碑には、今渡った「水門橋」に、かつて水戸の市街地を走っていた路面電車「水浜電車」の軌道敷が残っていると書いてある。
「そんなのあったけ?」
引き返して、もう一度見てみると……
確かに、橋の路面上に平行に並ぶ2本のレールのようなものが……。
コンクリートで埋め込まれ、レールの化石みたい。ボーっと歩いていると、まず気づくことはない。
このレールの化石。「歴史的な遺産として大事に残しましょう」というよりは、撤去できなかったから仕方なく残したって感じ。
水浜電車は、大正11年、浜田ー磯浜間の8.7キロメートルで営業を開始し、その後、袴塚ー湊間に路線を延長した。
終戦直前の空襲では軌道などが被災したが、わずか3日後には部分復旧させ、2ヶ月後には全線で運行を再開した。超スピード復旧だ。
昭和20年代は全盛期!
春には偕楽園へ梅見の客を運び、夏には磯浜・大洗海岸への海水浴客を運んだ。
満員の水浜電車。家族や友達とお出かけする人々の笑顔が目に浮かぶ。
その当時の乗客はなんと年間800万人。
しかし、昭和30年代に入ると赤字に転落。
この頃から水浜電車を運営する茨城交通は主軸を路線バスにシフトし、水浜電車と並行する区間に路線バスを増発していった。皮肉にも身内に活躍の場を奪われることになった。
さらに自動車の普及が進むと、路面電車は「交通渋滞の原因だ!」と悪者扱いされ、渋滞解消を理由に地元議会から撤去要請が出され、昭和41年、ついにその姿を消してしまった。
なんか最後は悲しい結末。
幕引きはこんな感じなのかもしれない。
水浜電車の歴史を紐解いていると、子どものころに読んだ絵本「きかんしゃ やえもん」を思い出した。古い蒸気機関車のやえもんが、電車にバカにされ、レールバスに仕事を奪われていくというストーリーだ。水浜電車とやえもんの姿が重なり、ちょっぴり切ない気持ちが呼び起こされた。
近い将来、路線バスもLRT(次世代型路面電車)にその地位を奪われているかも…。
【さらに水浜電車の痕跡を探す!】
調べてみると水戸市新荘3丁目付近に、水浜電車の境界杭が残っていることがわかった。
早速行ってみた。
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