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『MISSION:JOY 困難な時にこそ幸せを見出す方法』を観て、離婚した理由を思い出した話
2024年に入ってから、月に1本は映画を観るぞ!と決めていた。アウトプットしたいものは山ほどあるけれど、まずは今日観た最新のものから備忘録として綴ろう。(いつもは完璧に、綺麗にと思うけど、今回は本当に備忘録で!)
MISSION:JOY 困難な時にこそ幸せを見出す方法
この映画と出会ったきっかけは、大好きな近所のミニシアターでの掲示板。初めてその映画館に訪れた時「なにこの可愛い空間…!!」と感動したことを覚えている。
ここで上映される映画も、大手の映画会社では上映されないニッチかつメッセージ性の強いものばかりで、今月は何がやるのかな…と、密かに上映スケジュールを見るのが毎月の習慣になっていた。
友人が我が家に来て「紹介したいな」と思ったタイミングで、ちょうど上映されていたのが『MISSION:JOY 困難な時にこそ幸せを見出す方法』だった。あらすじを読んで、すぐに観ることを決めた。
あらすじ
困難に直面した時、私たちはどのように幸せを見出すことができるのか?本作はチベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世と、南アフリカのアパルトヘイト撤廃運動の指導者の一人でキリスト教の、デズモンド・ツツ大主教という2人のノーベル平和賞受賞者が、宗教の違いを超えてその答えを導き出す深い知恵と喜びに満ちた世紀の対談を元にしたドキュメンタリー。
深い友情で結ばれた2人は、ユーモアを交えながら、幸せや死生観などについて壮大な問いに迫り、私たちにどんな状況でも喜びと共に生きる知恵を授けてくれる。
印象に残った言葉たち
「私は、自分を”希望を抱く捕らわれの人”だと思っています。」
「人は時に希望を完全に失う時がある。でも、人は誤る生き物だから、過去を憎んではいけないのです。」
「平常心は生まれつきではなく、鍛錬するしかない。優しさも思いやりも、筋肉のように育てるもの。何日も何年も何十年もかけていくもの。」
「愚かな自分勝手と賢い自分勝手がある。愚かな自分勝手は、いじめや相手を傷つけ、自分だけの欲を守ろうとすること。賢い自分勝手は、他人が喜ぶために行うこと。善良なことをして感謝されることを不快に思う人はいない。人はみな、善い行いをするために生きているのです。」
「わたしたちは、完璧になる過程の存在。人間らしさは一人で育まれるものではなく、いろんな人と繋がり一緒に生きることで自分が形成されていく」
「喜びや幸せは追い求めても見つからない。みんな外にそれを求めて探そうとするけれど、インサイト(内側)にあるものだから。」
「80歳でも毎日学んでるよ」
感じたこと/「赦すこと」は弱さではなく強さである
赦すことは、生きる上で最上級の慈悲なんだなぁと思う。
ツツ大主教とダライ・ラマ14世。キリスト教と仏教、アパルトヘイトの時代に差別を受けていた貧民と宮殿で育った法王。ふたりは生い立ちも異なり、それぞれの境遇から学んできた哲学、視点で育まれていった思考や宗教。近しくも全く同じではないそれらを、「異物」とするのではなく互いに「尊敬する姿勢」で信頼が自然と育まれていったのだと感じた。
それぞれ孤独や差別、亡命など、壮絶な人生を歩まれたふたりだけれど、決して人を裁くことなく「赦す」ことで憎しみを断ち、負の連鎖を終わらせてきたんだと思う。
それを強く感じたのは、チベット人で迫害(収容)された人のエピソードだった。
「収容所で暮らした時間に”危機”を感じたとある人は言っていた。その人の”危機”とは、加害者のことを想いやる心を失いそうになることだと言うのです。」
この話から、自分の離婚経験を思い出した。
私は20代の頃に結婚して、離婚した経験がある。きっかけは、当時の夫からの言葉や身体的な暴力だった。でも、私が彼を憎めなかったのは、彼の精神状態がなぜそうなるかを理解しようとしていたからだったし、少なくとも理解できることもあったからだった。
それでも「私はこんな扱いをされて良い人間じゃない」。そう思った時、このまま一緒にいたら、一度は一生を共にすると誓った彼を憎んでしまうと思った。
「幸せを願えるうちに。自分達が幸せに生きるために別れを選ぼう」
綺麗事に聞こえるかもしれない。でも、確かに私はそう思ったから。その時に流れた藤井風さんの「帰ろう」の歌詞は、私の決意を確かなものにしてくれた。
憎み合いの果てに何が生まれるの?私、私が先に忘れよう。
赦すことは、なかったことにすることじゃない。なかったことにはできないし、忘れたくても忘れられないこともあると思う。(正直、今でも乱暴な言葉遣いや暴力シーンは好んでは観れない。)
それでも、それに捕らわれないと決める。
「私は、幸せに生きる人間だ」と決める。
そうやって自分の「今」を大切にして、自分のこれまでを肯定できるような努力をし続けた先にあった「今」は、心から幸せだと言える。
感じたこと/意図を持って、その人の前に立つ
チベットの歴史や文化を学ぶ子ども達が想いを伝えるシーンがあった。ある女の子は正直に「家族と離れてこの場所に来た。会いたくてたまらないし悲しい」と。
それを聞いたツツ大主教は、寄り添うような言葉を掛けた。一方で、ダライ・ラマ14世は「あなたはここで、素晴らしいチベットの歴史を学ぶ自由を得た。(亡命しなかったらその機会は失われていたから)決して悲しいことではないし、悲観することではないよ」と伝える。
ツツ大主教と反して一見冷たいようなこの言葉が、彼女の想いを否定するものではなかったように感じられたのは、ダライ・ラマ14世自身がチベットの人々にとって「手本そのもの」であり「希望」であることを体現する存在ではなくてはいけないという、彼の使命だと思ったから。
自分のその行為が、発言が、相手にとってどんな影響を及ぼすのか。
どこまでも相手の立場に立ち、今、”相手にとっての最善の自分”を選択することは、誰でも出来るわけではないと思う。「良い人だとおもわれたい」ではない次元。その先の人生を見通した時に、その立ち振る舞いは善行なのか?これは、本質とはズレた認識で「ありのままがいいよ」という考えが広まっている現代に必要な考えだと思う。
まずは自分を知る。自分の喜びを知る。
その上で、他者のことを考える。「相手にとっても、自分にとっても幸せな選択は?」を目線を合わせて考える。その自分の大切にしている考えとリンクしたような気がした。
最後に
私は、綺麗事を堂々と言いたい。でもそれは、何かを否定するための行為ではなくて。本当に心からそう思って、嘘偽りなくそう言い切れるように、自分の生き様からそれを証明していく。それが、私の大切な人や、まだ出会っていない誰かにとって希望になると思っているから。
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