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佐賀まちなか散歩②龍造寺八幡宮で幕末の志士たちの足跡を辿る


前回は、佐賀アリーナから佐賀神社までの道を歩き、佐賀の街の変化と歴史を感じました。今回は、佐賀神社に続き、龍造寺八幡宮へと足を運び、幕末の志士たちの熱い思いに触れてみたいと思います。

★前回の記事は下記です★

佐賀神社から龍造寺八幡宮へ

佐賀神社では、多くの人々が初詣に訪れており、その賑わいに圧倒されました。しかし、今回は時間の都合上、参拝は諦め、次の目的地である龍造寺八幡宮へ向かいます。

佐賀市内は、歴史的な建造物も多く、歩くたびに新しい発見があります。街並みを楽しみながら歩いていると、次第に龍造寺八幡宮が見えてきました。

龍造寺八幡宮と義祭同盟
龍造寺八幡宮は、佐賀県佐賀市白山に位置する神社で、特に義祭同盟と深い関わりがあります。義祭同盟は、幕末の志士たちが集まり、尊王論を広めるために結成された団体です。

この神社には楠神社もあり、毎年楠公祭が行われ、楠木正成とその子正行の忠義を称えています。この祭りは、義祭同盟の活動の一環として始まり、今もなお多くの人々が参加する伝統行事となっています。

楠木正成・正行親子を祀る

幕末の佐賀と志士たち

佐賀県は、幕末から明治にかけて、大隈重信や江藤新平など、多くの偉人を輩出しました。なぜ佐賀からこれほど多くの志士が生まれたのでしょうか?

それは、佐賀藩が比較的自由な風土を持っていたこと、そして藩主の開明的な政策が、志士たちの育成を促したと考えられます。特に、藩主の鍋島直正は、西洋文明を積極的に導入し、藩の近代化を推し進めました。

義祭同盟が果たした役割
義祭同盟は、佐賀藩の志士たちが集まり、尊王論を広めるために結成された団体です。この団体は、単なる宗教的な集まりではなく、政治的な活動の場でもありました。

義祭同盟の活動は、幕末の動乱期において、佐賀藩の政治に大きな影響を与えました。そして、明治維新後も、佐賀出身の多くの志士たちが、日本の近代化に貢献しました。

歴史を学び、未来へ繋げる

近年、日本の歴史教育は大きく変化しています。

特に、神武東征などの神話的な要素は、教科書では詳しく教える事もありません。

しかし、私は、日本の歴史を学ぶことは、私たちがどこから来て、どこへ向かおうとしているのかを知る上で非常に重要だと考えています。

ベトナム人の方と話をする機会があったのですが、彼らは自分の国の歴史をとても誇りに思っていました。一方、日本人の中には、自分の国の歴史について詳しく知らない人も少なくありません。

私は、日本の正しい歴史を学ぶことで、より深く自分自身と向き合い、未来への展望を持つことができるのではないかと考えています。


今回の佐賀まちなか散歩を通して、私は幕末の志士たちの熱い思いに触れることができました。龍造寺八幡宮は、単なる神社ではなく、歴史と文化が交錯する場所でした。


私たちは、過去の出来事から学び、未来へと繋いでいく必要があります。佐賀の街を歩く中で、私はそう強く感じました。

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