自由は不自由だと誰かが言った。
パラドックスとか、アンビバレントとか、
そういった類の言葉が好きだ。
前者は「逆説的」、後者は「相反する感情」。
裏返しのオセロのような状態は人間の本質を突いているようで、興味をそそられる。
人間って複雑な動物だな、とあらためて感じる。
さて、少し前の星野源氏のライブでの発言。
星野源自身が恐らく気になっていたことなんだろうと思う。
アーティストに押し付けられて、合わせる必要はない。
してもしなくてもどちらでもいいよ。
違う表現でもいいんだよ。
これは彼の気持ちだ。彼の思いだ。
例えば、彼も自分以外のライブやイベントでは手をあげていない時もあるかもしれない。
でも、それじゃ盛り上がりに欠けると感じる観客もいる。
"手をあげるやつ"がバラバラでは一体感がなくなると心配する。
要は観客自身が満足感を得られなくなるんだろう。
もしくは手をあげない奴は、何しに来たんだと不満を持つかもしれない。
自由は不自由だ、と誰かが言った。
自由な状態を解放されると、逆にどうしたら良いか分からなくなる。
気持ちが硬直してしまう。
まさにパラドックス。
星野源の提言は、会場にこの状態を生み出してしまったのかもしれない。
何故なら、大抵の人は周りに合わせる空気を読む人たちだから。
そんな暗黙の了解を知っていて、皆で盛り上げることでアーティストを喜ばせたいと思っているから。
だから、アーティスト側から急にそんなことを言われると、困惑してしまう。
「え、一体となってあなたを盛り上げたいんですけど、なんでそんなこと言うの?」と。
でも、会場にいる皆が皆、悦んで手をあげたいというかというとそうではない。
腕と肩痛くなるからやだなぁ〜と内心思いながら、取り敢えずやっている人もいる。
かく言う私もそんな人で、いくら好きなアーティストのライブでも、途中で痛くなるのは嫌だ。
嫌だから、途中で降ろしたりもする。初めからあげなかったりもする。
痛いと逆に楽しめない。
私はどちらかというと星野源側の人間だ。
要は人によりいろんなライブの楽しみ方があるということ。
手をあげたい人、あげなくても楽しみたい人、違う楽しみ方をする人、ただ観に来た人。
ライブでの楽しみ方は自由だ。
星野氏の言うことに、私は同意はできる。
"手を上げるやつ"をしなくても、いくらでも表現方法はあり、誰しもがそれを自由にバラバラにやっていい。
彼はその時きっとそれを望んでいたんだと思う。
けど、一体感で会場を"アゲたい"という感覚の日本人のマジョリティや文化と乖離してしまったのかもしれない。
私も同意できると言いつつ、実際にその場にいたら戸惑いがあっただろう。
この、アーティストとファンの間でちょっと相容れない感じ。
もどかしい。
ファンも彼の思いを理解してあげたいかもしれない。
でも彼に反対されたようで、自分の不自由さを指摘されたようで、困惑する。
人間の感情ってやっぱり複雑で、その人たちの信念とかが乗っかれば尚更で、
だからこそ人同士の距離感や人間関係は難しいなと感じるのである。
_終わり
↓ 記事とは直接関係ないが、電通のこの連載が面白い。