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第10回 大卒資格が無価値に映るとき
大学あるある話(エピソード)
前回は大卒資格をプライスレスにするかどうかが「自分で考えて行動できるようになるかどうか」にかかっていることを指摘した。その後、読み直してみて、これだけでは余りにも無責任だろうと感じた。なぜなら、一部の成功例を紹介しただけであり、何をしてはいけないのかを明確にしていないため、自分に置き換えた際にどうすれば良いのかを考えるヒントとして十分でないからである。
したがって今回は、これまでの教え子・受講生をふりかえり「この学生にとって大卒資格は魅力を感じないのだろうな」「大卒資格は無価値に映っているのだろうな」と十分に判断できるUさん、Vくん、Wくんの3名を紹介しておくことにする。こうすることによって、自分自身に置き換えた場合のことを少しは考えられるようになるだろうと思われる。なお、この3名はその程度としても極めて酷かったから登場してもらうことにしただけである。本来ならば、程度の差を問わず大学進学を選択しない方が本人にとって後悔しない事例であることは予め申し添えておきたい。
Uさんの場合「女性特有の体調不良ということで」
UさんはF大学に入学した中国からの留学生で、5年生ということで教務課からも情報共有を求められていた学生だった。なお、このF大学において担当する講義では半数以上が留学生の場合が少なくなく、レアなケースだろうが、日本人4人に対して中国人50人という構成の講義を担当したことがある。ちなみに、出席率・欠席率についてF大学は厳しい一面があり、原則4回欠席すると評価不能とされていた。そんな環境にあることをUさんは3年次になって理解したそうで、それからは欠席数に気を付けながら通学しているとのことであった。
このUさんが、ある回の授業後に教壇へやってきて、欠席数の確認を求めたことがある。出席簿を確認してみると、前回の授業を欠席しており、それが3回目であった。もう欠席できない旨をUさんに伝えたところ「来週出席できないので女性特有のアレの日ということにしてもらえますか」という。記録上はそれで問題ないわけであるが、担当教員としては腑に落ちない。休む本当の理由を教えてもらうと「バイトが外せないからです」。聞かなきゃ良かったな。
Ⅴくんの場合「イヤホンを付けていただけじゃないですか」
Ⅴくんは、中学校の時から日本へやってきて、日本の高校へ進学したうえで大学に入学してきたという学歴をもつ学生である。受け入れる大学側の立場から言うと、Vくんを留学生扱いするか、それとも日本人扱いするかの判断が難しい部類に入るそうである。このⅤくんが、ある講義後に私の研究室に来て、オオバヤシヒデ(仮名)先生が酷いと訴えたことがある。
Ⅴくんの話によれば、ヘッドホンを付けたまま受講すると、それでは講師の話を聞いているとは言えないから外して受講するよう指導した私の説明は分かるとしたうえで、ヘッドホンではなくイヤホンを付けたまま受講していたところオオバヤシ先生から退室を命じられたというのである。なお、Ⅴくんは難聴といった耳の障害をもつわけではく健康体であり、イヤホンを付けていなければ受講するのに支障が出るという学生ではない。当たり前だろう。
Wくんの場合「出稼ぎに来てるだけなんで可だけください」
Wくんは担当するアドバイザーから匙を投げられた学生で、毎回の授業には出席するものの、最後列に座って下を向いてスマートフォンを弄って時間が過ぎるのを待ち、終了時間になった途端に、授業の終了を宣告する前であっても構わず退室していた。授業期間中に、偶々スマートフォンを弄っていない時を見つけては、その時点で講義する内容についての質問を投げかけたり、教科書の該当箇所を読むように指示してはみるものの、「日本語がわかりませんので答えられません」等と授業に参加する意図がない返事を繰り返していた。
そんなWくんが、13回目の授業を終えて珍しく教壇にやって来たところ際の言葉が「出稼ぎに来ているだけなんで可だけください」である。この13回目の授業では、期末試験の出題の仕方や流れの紹介およびガイダンス時に確認しあった成績評価の仕方についての3度目の説明を含めていたから、自分の現状では合格できないと判断したからであろう。Wくん、日本語が理解できているじゃないですか。
所見
大卒資格が無価値に映るか、それとも有価値に映るかも、実は他人が影響するのではなく、自分自身が影響する。努力という言葉が嫌いな人もいるだろうが、大卒資格が無価値に映るときに共通している点は、自分自身が努力していないところである。例えば、面倒くさいから「しない」とか、無駄そうに感じるから「しない」とか、面白くないから「しない」というふうに、結局のところ<努力しない>とは、何かの理由を付けて捨てることをいう。
世間様において、大学生特に文系の大学生は勉強しないと言われているが、勉強しないで単位を取得できることは有り得ない。極端な話をすれば、試験直前でも一夜漬けであっても試験前には試験対策を自分なりにやって対処するぐらいのことは文系の大学生でもやっている。それさえもしない受講生に対して単位を与えることは、少なくとも私はやったことがない。ちなみに、Uさんのケースが契機となって私は『採点の目安』を配布し始めることになった。『採点の目安』には若干の決まりを文字化しているのだが、その1つは欠席理由についてその「文面を自分で作成し、私宛にメールで提出ください」である。口頭だけで、事後の追及に対して証拠を残そうとしないところがズルいと私が感じたからである。これは大学生に限ったことではないが。
一方、受講生の授業態度については年々悪化していることは否定できない事実である。ここにいう悪化とは、一緒に受講している受講生に対して迷惑を掛けていることを気にしない、無視する、それでいて平気であるという大学生がその講義に与える影響のことである。ちなみにスマートフォン依存症の大学生であっても、その授業態度を悪化させない工夫をしている人もいる。授業中の一時預かりを伝えた際に素直にスマートフォンを提出する大学生や、最前列で受講してデジタルデトックスをしようと努力する大学生もいることは申し添えておきたい。
なお、講義に与える影響であるから、それは担当教員に対する影響も当然に含まれる。オオバヤシ先生は被害を受けた1人である。「目の前で「お前の話を聞く気は一切ない」という態度をとっておられる方を相手にして、話し続けられるメンタルのタフネスを持ち合わせておりません。たとえば、イヤホンまでして動画を視聴なさっている方はその典型例です。そこまであからさまでないにせよ、要するに耳に指を突っ込んでいる人を相手に話し続けられますか?ということです。想像してみてください。」とはオオバヤシ先生の優しさ、合理的な指導の現れであると私は思う。
ポイント
今回のポイントについては前述の所見の中で既に指摘したため、ここでは関連の周辺環境なりその要因なりを説明し、一人ひとりがどのように行動すべきかを判断する際の指標にして欲しい。
受講生特に留学生にとって慣れない日本語の講義を90分なり105分なり聞きながら学びを深めることは大変な作業であり、越えなければならない壁としては高い方に入るだろうと思う。そのため壁が高すぎるから回避したいと考えたくなる気持ちも、少しばかりの留学を経験した人間としては理解できる。とはいえ、Uさんのようにアルバイトがあるから出席できないというのは正当な理由にならない。また、武漢コロナが流行していたとき、中国人の留学生を中心に「在留期間の更新手続きに行かなければならないから公欠です」という連絡が多く入ってきたが、何の冗談だろうと苦笑するしたことがある。公欠すなわち公認欠席とは、就職活動における最終面接のように選抜を伴う要素があり、原則大学として正当な理由があると認める欠席をいう。学生が自分で確定できるものではない。要するに、壁が高すぎるならばその壁を乗り越えるためにスチューデントアシスタント(SA)といった助力を求めたり、講義レベルの低い科目に変更するなり、公欠願の申請書を作成して提出するなりの努力を行なう必要がある。
そうすると、平常点の割合の高い講義を履修するというのが合理的な選択になるだろうが、平常点はあくまで出席していれば獲得できるものではない。教室に居るだけで参加していないのであれば、平常点を付与する理由が担当教員にはないのである。詳細は講義の受け方やリアクションペーパーの書き方を中心に書き留めたものを再度読み直して欲しい。念のために申し添えておくと、「忙しい中で授業に出席するという努力をした」というのも努力をしたとは言わない。そもそも大学生は学問を学ぶ、修得することが本分であるから、忙しい中でも授業に出席するのは当たり前のことである。
では、母国を脱出するための口実として日本の大学や大学院へ留学なり、社会人になりたくないから大学への進学なりを選択し、在籍するための学費は納めているのだから当然に単位は付与されるべきだと主張する人たちに対してはどのように説明すべきだろうか。この問題の根深いところは、学問を学ぶ気のない人間であっても定員を充足するために受け入れるべきであるとか、ブローカーから袖の下をもらって見ぬふりを決め込む受入側の要因との間でマッチングしやすい環境が広がっているところにある。要するに、正しいことだけでは世の中を渡り歩くことはできないというのである。
課題
事実から見れば、大学は大卒資格を学生へ付与して社会人として人材を社会へ送り出す<派遣業>的な役割も担うし、一人の人間として自ら考えて行動できる人を育て上げる<教育業>的な役割も担うし、現在の社会を分析して将来のあるべき社会へ何が必要かを研究する<政策業>的な役割も担うというふうに広範な責務を有する。そのため、大学が有する様々な責務の一部を取り上げるならば、大学生という顧客や投資家からの要求に応えなければならないと言えないこともない。しかし、それでは学問と離れて独立してそれぞれの責務を果たしている業界や業種との区別ができない。あくまで大学という空間は<学問の学び>を媒介にしてそれぞれの責務を果たすべきであるから、大学や大学院へ進学したいどんな理由を抱いたとしても、その第1に置くべき理由は、学問を学びたいからという理由にして置いて欲しい。