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斎宮とは何だったのか(1)…飛鳥時代からの古代勢力の巨大王宮。『壬申の乱』に見る大海人皇子との密約と皇女の人質

 皆さんは三重県多気郡明和町にある斎宮遺跡をご存知だろうと思います。
 現地にある斎宮歴史博物館によれば、
『国史跡「斎宮跡」は、古代から中世にかけて設置された斎宮(斎王の居住した宮殿と、役所・斎宮寮)を中心とする遺跡です。松阪市と伊勢市にはさまれた多気郡明和町に所在し、その規模は、東西約2キロメートル、南北約700メートルに及び、約137ヘクタールもの広大な面積を有します。』
とされています。
 ここでこの【斎宮(さいくう)】と呼ばれる宮跡について考えてみましょう。この巨大な宮跡は藤原京の建設と同じ頃に造営されています。同博物館のHPから写真を見てみましょう。

斎宮跡

その遺跡の様子は、下の地図から知ることが出来ます。

斎宮跡保存地域

 その宮の想像図は、「観光三重」より転載します。

斎宮跡

 以上のように巨大な規模を持つ宮殿であったことが知られます。
 まず、現代説明されている「斎宮」の内容は以下のようなものです。
『斎宮は「いつきのみや」とも呼ばれ、斎王の宮殿と斎宮寮(さいくうりょう)という役所のあったところです。斎王は、天皇に代わって伊勢神宮に仕えるため、天皇の代替りごとに皇族女性の中から選ばれて、都から伊勢に派遣されました。
  古くは、伊勢神宮起源伝承で知られる倭姫命(やまとひめのみこと)など伝承的な斎王もいますが、その実態はよくわかっていません。
  制度上最初の斎王は、天武天皇(670年頃)の娘・大来皇女(おおくのこうじょ)で、制度が廃絶する後醍醐天皇の時代(1330年頃)まで約660年間続き、その間記録には60人余りの斎王の名が残されています。』
 しかしこの『斎王』についての制度が明らかなのは平安時代であり、
『斎王制度の概要は、平安時代に編纂された法令集『延喜式』により知ることができます。これによれば、斎王は、天皇が即位すると未婚の内親王(または女王)の中から、卜定(ぼくじょう)と呼ばれる占いの儀式で選ばれました』
 これは実は、天武天皇による『伊勢神宮』との関係が述べられていますが、これはあくまで伊勢神宮が整備された後という事になります。
 しかし『斎宮』が歴史上でどのような意味合いを持っていたのかを明らかには出来ません。
 そこで次回(2)以降で説明をして行くための準備として以下にこれまで知られている事項を整理しておきます。
 ①斎宮近くには飛鳥時代もしくはそれ以前から居住勢力があり、飛鳥時代
  には『宮』
が築かれていた。
 ②研究者達によれば、この地域の活動は『継体天皇』の頃からがあきらか
  になっている(継体天皇:450年 ? - 531年)
 ➂斎宮地域に隣接する場所には、5世紀末~6世紀前半の築造された群集
  墳
があり、円墳と方墳が42基確認されている。出土品は、埴輪、土師
  器、須恵器など。
 ⑥『斎宮』は、東西2km南北700mにあり137万平方メートルの広
  さを持つ
 ⑦制度上最初の『斎王』は、『天武天皇』の皇女(後には内親王)多来皇
  女である。
 ⑧『斎宮』跡からの出土品は、下の様です。

斎宮跡出土品

 以上からもう少し詳細に『斎宮』とは何だったのか、なぜ天皇の皇女が『斎王』として居住していたのかの『斎宮の謎』に迫ります。
 


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