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絶世の美女・万葉歌人『額田王』は、ペルシャ系美人 貢物として日本に…哀しく切ない伽耶の聖女!

 額田王は歴史的にも謎の多い女性です。しかし伝わるのは、『絶世の美女』だったという事実だけです。
 生年も没年も不詳なのです…何故なのでしょうか?
 天智天皇と天武天皇との関係も取り沙汰されています。絶世の美女だったから・・では説明できません。
 実は、死後の墓についても何も分かっていません。噂のような場所もありますが、はっきりしたことは何も伝わっていません。
 実は、その頃、朝鮮半島には遠くオリエント地方からやって来た二つの民がいたのです。それは、『新羅』と『伽耶』の人達です。
 『新羅』の人達は、【羅=(中国表記)ローマ】であり、『伽耶』は、【耶=耶(蘇教)→キリスト教】の意味を持つ国々の人達です。
 『新羅』の人達は、ローマ帝国から迫害を受けて東、東と逃れ、秦(『大秦』は、(中国表記)ローマ帝国)からの迫害も受けた『ユダヤ教徒』であり、たどり着いたのが朝鮮半島でした。
 『伽耶』の人達は、『バビロンの中から逃げよ!』…東に新天地を求めて!で海路バビロン(ペルシャ)から遥々と逃れてきた『キリスト教徒』達だったのです。
 逃れて『新天地』にやって来た二つの民族でしたが、皮肉なことに隣り合わせに異教徒として存在することになりました。
 『伽耶』のキリスト教徒としてさらに新たな天地である東の端の『日本列島』に船団を組んで出雲や北陸地方、九州北部などに上陸して自分たちの棲む地域を求めました。
 しかし日本にはすでに稲作を行う『弥生人』達が先住しており、これは、海を渡って来た『キリスト教徒』達との間で、まさに【戦乱】を列島各地で引き起こしてしまいました。
 これこそ【倭国大乱】でした。何とか新たな天地を得た『キリスト教徒』たちでした。
 しかし一部『伽耶』の人達、取り分け中東ペルシャ系『有名な美女たち』は、新羅からの『貢物』として贈られることになりました。
 逸話が残っています。
 631年貢物として唐へ贈られてきた美女たちを前に、(美女なるがゆえに遠い異国の君主に貢物として送られてきた女性の心情には悲痛なものがあったであろう)と見て取った側近大臣の魏徴は、唐の太宗に「いかに貢物とは言え、心のある人間を受け取るべきではない」との進言をしました。太宗皇帝は彼女たちの心情を察して贈り返した…と伝えられています。
 日本に『額田王』が、歴史上に登場するのも、600年代後半、7世紀の事ですから丁度、唐の太宗の時代にも重なります。
 『美女の贈り物』として日本にやって来た『絶世の美女』(ペルシャ系)『額田王』は、心情を詠(うた)に込めて、哀愁漂う『万葉歌』を残したのかも知れません。
 実は、天智天皇の御世に近江京への遷都の際に、『額田王』が、近江に向かう道中で三輪山を眺めて詠んだ詩には、宗教的な色彩が感じられるものでした。
 次稿では、三輪山と『額田王』について詳しくお話しします。


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