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駆け抜けた4years.、そして4years.のつづき

2月末をもって朝日新聞社を退社して、3月1日よりフリーとして踏み出しました。2018年3月に入社してから4年間、本当にいろいろな経験をさせてもらって、大きく成長できました。今回、新たなスタートを切るにあたって(もう切ってるけど)、いままでの4年間を振り返ってみようと思います。自分なりの「駆け抜けた4years.」です。

もっと「編集」「執筆」を極めたかった

「よし、朝日新聞紹介する」。年上の友人のそんな一言から、思わぬ縁がつながりました。

前職ではWebメディアを立ち上げて、とにかく手探りで運用して、SEOで狙って1位を取れるようになったり……と、今思ってもけっこう必死にやっていました。もともと編集者になりたいと思っていた私にとって、やっとある程度形にできてきたなと思えていました。と同時に、もっと編集者として、ライターとして力をつけていきたい、という気持ちが大きくなってきました。

会社を辞めることを決めたものの、次が決まっていたわけではありません。とりあえず退社日を11月末と決めて、11月の有休消化中は世界一周に行きたいから、12月から働けるところ…と考えながら転職活動をしてましたが、全然ピンとこない。メディアを立ち上げた経験のある私には、「弊社でもメディア立ち上げをしたいんです」というオファーをけっこういただきました。でもだいたいベンチャーの1人部署とか、これから作るとか……いやそうじゃないんだって。私より経験のある人がいるところに行きたいと思ったから辞めたんやないかい。

とりあえずいいや。と思ってビジネスクラスで世界一周に行って(めっちゃ金使った)、12月から無職に。友達の会社をバイト的に手伝いつつ、引き続き活動。どうしようかなと思っているところに、冒頭の友人の一言でした。

聞けば、新聞以外の事業でもマネタイズをするために、新しいWEBメディアを立ち上げると。それで絶賛人材募集中だと。しかもずっと100年以上、コンテンツを作り続けてきた会社が、というのでこれだ!と思いました。面接に行くと「とにかくWebメディア経験者大歓迎」という雰囲気もあり、とんとん拍子に入社まで。ということで2018年の3月に入社しました。4月ではなく中途半端な3月なのは、「できるだけ早く来てほしい」と言われたからです。

紙とWebの大いなるギャップ

入社初日にいろいろ教えてもらって(といっても、当時ほとんど整っておらず研修とかもなし)、午後に直属の上司となる人に言われたのは「とりあえずお茶飲みに行こうか」。ゴリゴリのベンチャー、働け働けみたいなところから来た私は「え? 勤務中にいいの?」と思いながら喫茶店へ。そこで雑談。いいものを作るのには余白も大事だよ、みたいな話をされて目を白黒させるのでした。

ただ上司の言っていることは本当に正しかったな、というのは今となって思う。一見余計なことに思えることでもインプットしておかないと、自分の中から出てくるものがなくなっちゃうんですよね。まあ、上司はゆうてもサボりすぎて怒られてばかりだとは言っていました(笑)。彼との出会いはすごく大切だったなと今でも思います。

それで話を戻すと、当時は部署もできたばかりで、広い部屋の半分ぐらいに席が並んでいる感じ。月末に新サイト「telling,」がリリースされるというので、その準備。といっても、最初に載せるという記事を5人ぐらいで回し読みして赤を入れて…とやっていたので、ぶっ飛びました。いや、そんなことやってたら立ち行かなくなりますよ。新聞ではそうかもだけどwebは違うんすよ。そんなことを言って「そうなの?」と言われたりしながらサイトリリース。

案の定サイトが開いたら大忙しとなり、Webメディアのサイクルに巻き込まれていくのでした。

夢中で駆け抜けた1年目

「コンフィデンスマンJP」の放送に合わせて、長澤まさみさんの取材をさせてもらったのもいい思い出です。私にとって初めての、テレビの中で見ている(しかも大活躍している!)方への個別取材。与えられた時間は15分。とにかく失敗してはいけない! 過去インタビューを調べまくって、読んで、質問を考えて編集長に見てもらって……と準備しまくりました。その甲斐あってか、いろんなことをお話ししてくださいました。でも事務所チェックで削られたところも多いのは残念だったけど。すごくしっかりと自分の考えを話してくださる方だったので、その部分を削ってしまうのはもったいないなあ、と思ったりしました。と同時に、芸能界って難しいんだろうなということも……。

私は当時「遊軍」という部署の所属だったので、telling,のほかDANRO、GLOBE+、好書好日といろいろな媒体で仕事をすることになりました。

母体が朝日新聞とはいえ、聞いたことのない媒体名。インタビューを申し込んでも一蹴されること(断りの連絡がくるのはいい方で、華麗にスルーもしばしば)もありましたが、受けてくれる方は受けてくれる。毎日誰にインタビューすればいいか考え、テーマを考え、自分でもコラムを書き、とやってました。あと、ノーザンテリトリー観光局の仕事でオーストラリアに出張に行かせてもらったのも、めちゃありがたい経験でした。米派の私にとって、パンしかないのが辛すぎてめちゃ痩せましたけど。笑

そうこうしているうちに10月に「4years.」が立ち上がることになり、「藤井さん駅伝詳しかったよね?」と言われて首を突っ込むことに。サイトオープン前に出雲駅伝の取材に行ったのが、一番最初の陸上取材となりました。駅伝ファンの友達に聞いて、タクシーを手配して、選手を追っかけて写真を撮って……体力勝負だなというのも痛感しました(笑)。

そして箱根駅伝前の取材、箱根駅伝本戦の取材と関わらせてもらい、特に初めての中継所の撮影では襷渡しの瞬間をうまく撮れるかえらい緊張しましたが、なんとか撮れたので本当にホッとしました。

その時のことをtelling,で記事にしていた。初々しすぎる。今読むとちょっと恥ずかしいですね。でもこの気持ちは忘れずにいたいものです。

4years.編集部員に

私も2年目、組織も2年目となり、遊軍班はなくなりそれぞれが編集部員となるように! というお達しが出て、私は正式に4years.編集部員となりました。この年はとにかく取材に行った。

4月 兵庫リレーカーニバル
5月 関東インカレ
6月 日本選手権
7月 ホクレン網走
8月 駒澤大夏合宿
9月 日本インカレ
10月 出雲駅伝
11月 全日本大学駅伝、10000m記録挑戦競技会
12月 箱根駅伝事前取材
1月 箱根駅伝、都道府県駅伝
2月 福岡クロカン
3月 東京マラソン

もっと行ったかもしれない? ちなみに6月の全日本大学駅伝予選会は、1月に「ハワイ行きてー」と思って取ってた旅行がドンピシャでかぶってしまい、行けませんでした。ごめんなさい。ハワイから帰ってきて次の日に日本選手権に行ったよ。それ以来旅行の計画立てるときは、先に大会の日程を確認するようになりました。汗

しかし取材を始めた当初は、周りはみんな百戦錬磨の記者・カメラマンだし、自分は門外漢だし、本当にこれでいいのかな、という不安がありました。なんか「お作法」みたいなのがあって、それができてないんじゃないかとも。ですが、取材させてもらった選手がTwitterで「伝えたいことをそのまま書いてくれている」と発信してくれたこと、記事を読んでくれた方たちが「選手の想いや姿が伝わってくる」と声にしてくれたことが、すごく私の力になりました。私は私のやり方で、真摯に選手の思いに向き合っていけばいいのだと。本当にたくさんの方に感謝しています。

コロナ禍の苦悩

20年の2月ぐらいから新型コロナウイルスの影響があり、福岡クロカンが無観客になったり、東京マラソンがエリートのみになったりとじわりじわりと嫌な気配が忍び寄ってきていました。そして4月の緊急事態宣言、東京オリンピック1年延期。そもそも外に出られなくて、何もできることがない。苦しい時期が続きました。

なんとかその中でもできることをやろうと、zoomで取材をしたり、したり、というかそれしかできなくて、なかなか辛かった……。だからこそ7月に東京国際のキャンパスに取材させていただいたり、9月に東海大の合宿、日本インカレ、全日本大学駅伝関西予選(4枠目のみ)の取材にいけたときは、うれしかったなあ。やっぱりスポーツができる場所がある、そしてそれを伝えることができる、ということにこの上ない幸せを感じました。

一方で何もできない、オリンピックが延期になった夏に、けっこういろんなことを考えました。その時強く思ったのは、メディアの収益モデルの危うさ。ざっくりいうと無料でコンテンツを公開して、広告を獲得して稼ぐというのが一般的ですが、そうするとひたすらコンテンツを作り続ける、営業し続ける、というループから逃れられない。こういう状況でコンテンツが作れないと、サイトの力もどんどん落ちていってしまう。編集やライターの力を、もっと違う方向で活かせないか? 

そう思っている時に出会ったのが、WORDS株式会社の「顧問編集者」という取り組みでした。経営者の発信を助け、会社のブランド価値を上げて、社員にも還元する。おお、これはコンテンツを作る者にとって、新しい道となるかもしれない。やりたい! と思って社長の竹村さんに長文のDMを送りつけ、若干ビビられながらも参加させてもらうことになり、副業として関わることになりました。

9月はなので、日本インカレと予選会と、東海大の取材と合わせて顧問編集者の仕事もしたので、25本ぐらい原稿を書くことになって、死んでました……だいぶ鍛えられましたね……。

しかし、コロナになってからは取材制限に苦しみました。1社◯名(だいたい1ないし2名)という超少人数しか行けないため、弾かれることも多々。4years.は朝日新聞社の媒体なので、紙面のスポーツ部とバッティングすると、譲らざるを得ない。「大学スポーツ」専門サイトとして、歯がゆい思いをすることも多々ありました。特に日本選手権に行けなくなったりしたのが辛かった…。箱根駅伝も囲み取材の場には行けず、ぐぬぬと思っていました。

独立してやっていけるのか

そんな、ままならないこともある中で、副業をしながら「会社員じゃなくてフリーになった方が、もっと自由に動けるのではないか?」という気持ちが大きくなってきました。

もともと私は朝日新聞社に中途採用で入りましたが、5年満期の契約社員という形。どちらにせよ丸5年勤めたらその次を考えなきゃいけない状態だったので、3年目が終わるというタイミングでそう考え始めたのも自然な流れだったかもしれません。

といっても、フリーになってやっていけるのか? そもそもフリーの人ってどういう働き方してるの? というのがまったくわからず……。Twitterやネットを徘徊していたところ、スラッシュワーカーズというコミュニティを見つけました。

一つの職種だけではなく、複数のスキルを身につけ、収入の柱をたくさん作る。おお、なるほど……! と思わされました。コミュニティに入る前に主催するルイスさんと面談があるのですが、「みささんのスキルなら独立しても全然やっていけるんじゃないですか」と言われて、え? そうなの? と目から鱗の気分でした。

とはいえいきなり独立というのもな。なんてことを思っているうちに、本業がめちゃ忙しくなり、独立どうしようというのは一旦棚上げに。取材に行けるのはありがたいですが、今まで複数人で分けていた仕事を全部やることになり、かなり毎回大変でした。何記事書くねん? 的なところもあり、大会で会う人会う人に「すごいたくさん記事書いてますよね」と言われる始末。とにかくやれる範囲で、ひたすら頑張りました……。

数えたら2021年100記事書いてたんですけど。白目です。書いてるだけじゃなくて写真も撮って他の記事の編集もしてるし。白目です。

私がなかなかフリーになるということに踏ん切りをつけられなかったのは、自分がやっていけるのかという不安もありましたが、それ以上に、会社員でいることで「いつでも話せる人がそこにいる」というのが大きかったように思います。会社に行けば誰かいて、雑談ができる。その時間は私にとってかなり大切でした。しかしコロナになり、リモートワークになり、人と会えない。逆にコミュニティに入ることで、スラック上などでも誰かと「繋がっている感」を見出せて、もしかしたらこれが「雑談」に変わるものとなるのかもしれない。とも感じました。だれかと話せる場所があるのなら、なんとかやっていけるのかもしれない。その気持ちはだんだん大きくなっていきました。

新しい一歩

秋になり全日本大学駅伝が終わったタイミングで、やはり4年間で区切りをつけて独立しよう、と決めて会社に伝えました。そして箱根駅伝取材までフルスロットル。1月は全日本大学駅伝のイベントもしたり、引き継ぎもあれこれ。としている間にあっという間に1月末に。2月は有休消化の期間としていただいていたので、バタバタと最終出社日を迎えました。

コロナのせいもあって直接会えた方は少なかったのですが、本当にたくさんの方から寄せ書きをいただき、感謝と感動でじーんとなりました。4年しかいなかったのに、会社の方とこんなに関われたんだなと思うと感慨深かったです。編集長が金メダルを授与してくれたりと、思い出深い1日になりました。笑

そして、退職してフリーになりますとSNSで報告したら、驚くほどたくさんの方から反響をいただきました。そして、月間陸上競技さんやその他の媒体からもお声がけいただきました。正直なところ、ここまで自分が「駅伝を書ける人」だと見られているのは、驚きでもありました。前述の通り、やっぱりどうしても、昔からやっている人とはキャリアが違うしな、という負い目? みたいなのが抜けなかったこともあり……。自分が思った以上に陸上のことを求められているんだなというのは、私にとって新鮮な驚きでした。やっぱり自分のことは自分ではわからないものです。

3月になり、所属する組織がなくなったので、なんとなくまだふわふわしているところはあります。でもせっかくなのでと思って、早速ワーケーションに行ってみたりもしました(半分ぐらい遊んでたけど)。ポツポツとご依頼もいただき、大変ありがたい限りです。

まだ仕事のペースがつかめていませんが、好きな旅行に行きつつ、できるだけ「人の面白いところ」を伝える仕事に関わっていけたらなと思っています。そしてやっぱり陸上の取材ももっとやっていきたいな、と改めて思っています。今まではある程度「大学スポーツ」という制約がありましたが、今後はそれもなくなるので、もっと幅を広げたいなとも。

こうやってお声がけいただけるのも、踏み出そうと思えたのも、朝日新聞社での4年間があったからこそだなあと思っています。まさに、駆け抜けた4年間、駆け抜けた4years.でした。そしてこれからは4years.のつづき。みなさま、引き続きよろしくお願いいたします。


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