山田宏一と観る林摶秋映画(第一回)

『阿三哥出馬』スチル写真。今回のDVD版『阿三哥出馬』は残された不完全なフィルムを修復したものだが、冒頭には林摶秋の「玉峯影業公司」「湖山スタジオ」を紹介しつつ創業第一作となる『阿三哥出馬』を宣伝する予告編が含まれている。所蔵:林嘉義、デジタルデータ所蔵:國家電影及視聽文化中心CC BY-NC-ND 3.0 TW)、公開:臺灣影視聽數位博物館

林摶秋(りん・でんしゅう)監督作品DVD-BOX

-- 今回、ぜひとも山田さんにお話をうかがいたいのは、台湾映画人・林摶秋(りん・でんしゅう、1920-1998年)の台湾語映画について、です。林摶秋は戦前の日本の舞台芸能集団というか、軽演劇の活動の場だったムーランルージュ新宿座の仕事にかかわった人で(日本では通りやすさから「林博秋 りん・はくしゅう」と名乗っていた時期もあります)、1942年には東宝という映画会社に貸し出されてマキノ正博監督の『待って居た男』(1942年)や阿部豊監督の『南海の花束』(1942年)の助監督としても働いていた、とのことです。この林摶秋の戦後の台湾語映画4作品が修復されてDVD化されました。修復といっても、1作品は不完全版で40分程度。他の3作品は90〜100分くらい。台湾語映画は当時、政府や大資本の援助も受けられず、公開後も使い回されては廃棄された(ネクタイやシャツの芯にされたと聞きます)ので、いま閲覧可能な作品は限られています。ですから、このDVDはとても貴重なものです。

台湾 国家電影中心発行DVD-BOX『台灣電影的先行者――林摶秋』カバー

 それで、このDVDが出た時に、台湾の知り合いから、「日本映画をよく知っている人の目から観ると、林摶秋の作品はどのように見えるのか」と聞かれたのですが、私は「日本映画のことをよく知っている人」ではないので(笑)、まったく答えられませんでした。それで、これはもう日本映画はもちろん、古今東西の映画をご覧になっている山田さんのお力を借りるしかない! ということで、無理を言ってご協力をお願いしました。お引き受けいただけて、本当にありがたいです。なにしろ、山田宏一さんといえば、「映画の魅力を、映画のように物語る」名手であり、初めて山田さんの『美女と犯罪――映画的な、あまりに映画的な』(早川書房、1984年)を読んだ時の興奮は、いまだに忘れられません。台湾の関係者も「あの山田宏一さんが林摶秋映画を観て語る」という吉報を聞き、お話を心待ちにしています。

「台湾語」の位置


山田 映画のことにはなんでも興味があるという程度で「よく知っている」というのはおこがましいのですが、いいチャンスなので勉強させていただくつもりで(笑)。まずは「台湾語」の映画というのが重要なのですね。台湾語映画というのは、中国語映画圏のなかでは、どんな位置にあったのですか? 戦前に上海で作られていたのは標準語の北京語による中国映画ですね? 有名な、というのも、ウォルト・ディズニーのアニメにまでなった伝説的女戦士ムーラン(木蘭)をヒロインにした『木蘭従軍』(1939年)とか、東京のフィルムセンターで催された中国映画特集で観たことがあります。戦後の香港映画は広東語ですね? などといっても、私には北京語も広東語もちんぷんかんぷん(笑)。中国語圏の人びとには、画面に漢字の字幕で字幕台詞やナレーションなどの説明字幕が出るので意味が読めるわけですが……。

―― そうですね。香港の場合は、抗戦・内戦を逃れた上海映画人が流入したこともあって、戦後は上海に代わって中国語圏映画の拠点になるのですが、1950-60年代は上海映画人が中心になって大資本で製作する北京語映画のほうが主流で、地元の香港映画人が製作する広東語映画は、むしろ細々と作られていたようです。香港で広東語映画がメジャーになるのは1970年代に広東語コメディ(『Mr.Boo!ミスター・ブー』や『林亜珍』のシリーズ)が大人気を博して以後とのことです。

山田 ホイ三兄弟の『Mr.Boo! ミスター・ブー』シリーズは日本でも大ヒットしましたね。

―― はい。香港では、ほかに廈門語映画や潮州語映画も作られていました。このうち廈門語は台湾語と同じ閩南語(福建省南部の方言)系なので、台湾語を話す人には理解できるということで、1940年代後半から台湾でも相当の人気を博していたそうです。それが、1950年代半ばになってようやく、香港製の廈門語映画とは別に、「台湾で製作された台湾語の映画」が登場した、これがいま一般に「台湾語映画(台語片)」といわれるものです。じゃあ、なぜ台湾では1950年代半ばになるまで台湾語映画が登場しなかったのかといえば、日本の植民地統治下では「日本語」が公用語で、台湾語映画は(企画はあったものの)実現できずに終わってしまい、日本の敗戦後に中華民国に接収されたら、今度は公用語が「北京語」(台湾では「国語」とか、最近では「台湾華語」とも言います)になってしまった。「台湾語」は公用語の普及に迷惑な存在として邪魔者扱いされたわけです。しかも、映画製作のリソースが政府に集中していた時期でもあり、「台湾語映画」は民間でそのために私財を投じる人が出てくる1950年代半ばまで製作されなかった、という事情があります。

山田さんと華語圏映画の出会い


山田 私は、たまたま1970年代の初めにフランスのカンヌ国際映画祭に香港映画として出品されていたキン・フー(胡金銓、1931-1997年)監督の『侠女(A Touch of Zen)』(それも当時のカンヌ映画祭は2時間以上の作品は上映できないという規定があり、上集・下集の2部作3時間余を国際版として1本にまとめた短縮版でしたが)を観て、そのすばらしさに驚嘆し、それが実は台湾映画であることを知り(ブルース・リーが国際的なスターになって、クンフー武侠映画といえば香港映画としてひとまとめにされていた時代でした)、カンヌに来ていたキン・フー監督にお会いしてインタビューを申し込んだのですが、もう出発まぎわで時間がなく、次の年の香港映画祭で会う約束をしてくれて、私はいわばキン・フー監督の御声掛かりで香港映画祭に招待されることになり、その年の香港映画際が武侠電影の大特集で、キン・フー監督の『迎春閣之風波』(1973年)とか『忠烈圖』(1975年)とかも観ることができ、そしてもちろん『侠女』の上下集完全版も観られたし、約束通りキン・フー監督に再会してインタビューもできた。私はもちろん中国語はまったくわからず、英語も読むほうはともかく、話すのはおぼつかなく、それでもキン・フー監督にはどうしてもインタビューしたくて、それで通訳もキン・フー監督が連れてきてくれて(笑)。それが、当時ショウ・ブラザーズ(邵氏兄弟有限公司)の撮影部長だった旧知のチャイ・ラン(蔡瀾)さん。旧知というのは、むかしチャイ・ランさんは東京の日大に留学して、私は何度か東京で会ったことがありました。

『キン・フー武侠電影作法』(キン・フー、山田宏一・宇田川幸洋、草思社、1997年)



―― カンヌ映画祭から香港映画祭へ、運命的な出会いですね。しかも、チャイ・ランさん(映画プロデューサー、コラムニスト、テレビ司会者など多数の顔をもつ著名な文化人)が通訳とは実に贅沢です。

山田 まったく、申し訳ないくらい贅沢な通訳付きのインタビューでした。その後も機会を見てインタビューを続け、そのたびに小坂史子さんとか錢行さんとか、いろんな方に通訳をしていただいて、宇田川幸洋さん(映画評論家)も合流して、『キン・フー武侠電影作法』(キン・フー、山田宏一・宇田川幸洋、草思社、1997)という研究書にまとめたわけですが、それ以前の台湾の映画については、私はまったく何も知りませんでした。それに、キン・フーという監督は、そもそも台湾の人でなく、北京生まれで、戦後に香港に移り住み、香港・台湾を中心に北京語映画の黄金時代を築く名監督の一人になったわけですね。

-- キン・フーはリー・ハンシャン(李翰祥)監督に次いで香港から台湾に来て、映画界など存在しないも同然だった台湾で、武侠映画の黄金時代をつくりだしたんですから驚きです。これを評して、「彼らが台湾映画を変えた」という人もいますね(台湾の映画研究者・焦雄屏の言葉)。そして、このキン・フーの映画作法(目が眩むようなアクション・シーンの撮影や編集の秘密)を明らかにしたのが、山田さんたちの『キン・フー武侠電影作法』で、これはもうトリュフォーによるヒッチコックへのインタビュー『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』(山田宏一・蓮實重彦訳、晶文社、1990)と並ぶ名著です。 『キン・フー武侠電影作法』は、何年か後に中国語版も出て、キン・フー監督自身が語る生前唯一の自伝(オーラル・ヒストリー)として、香港・台湾はもちろん、中国大陸でも高く評価されています。キン・フー監督の生まれ故郷である北京の書店で実際にこの本を目にした時は感無量でした。 山田さんには、キン・フー監督についてのご著書の前に、マキノ正博(のち雅弘)監督に関する『マキノ雅弘自伝 映画渡世(天の巻・地の巻)』(平凡社、1977。以下、『映画渡世』)もありますね。

林摶秋が助監督についたマキノ雅弘監督


山田 『映画渡世』は山根貞男さん(映画評論家)と共同編集で、これが私の映画研究の出発点になったとすらいえます。キン・フー監督にインタビューをしたように、マキノ監督にも徹底的にインタビューをして、まあ徹底的というより、根掘り葉掘り何でも、女性関係やら何やら聞き出して(笑)、マキノ監督の「自伝」の形にまとめたものですが、残念ながら観ていない作品もたくさんあって(なにしろマキノ監督が撮った作品は250本以上もあるし、特に戦前の作品やサイレント時代の作品はほとんど残ってませんから)、林摶秋がムーランルージュ新宿座から東宝に貸し出されて助監督についたという『待って居た男』も戦後は失われていて観られなかったので、インタビューをするにもディテールはまったく聞くことができませんでした。

マキノ雅広『映画渡世 天の巻』(ちくま文庫、1995年)
マキノ雅広『映画渡世 地の巻』(ちくま文庫、1995年)


-- 『映画渡世』は、まるでマキノ監督その人が、すぐ目の前で喋っているかのような見事な「マキノ節」にぐいぐい引き込まれます。ただ、『映画渡世』では、当然のことかもしれませんが、林摶秋の「林」の字も出てきませんね(苦笑)。

スタジオや俳優学校まで


山田 そうなんですよ、残念ながら。こっちが何か知っていて質問できたらよかったのですが。林摶秋の「林」の字どころか、何も知りませんでしたからね。マキノさんは助監督に脚本の一部を書き直させたり、主役の出ないシーンなどよく助監督に代わりに撮らせたりしたらしいので、助監督にとってはすごくいい勉強になったようです。それに、戦時中で人手が足りなかったとはいえ、林摶秋が東宝に貸し出されたというのはそれなりに相当の才能と実力が見込まれて招かれたということなんだろうと思いますね。ムーランルージュ新宿座では脚本を書いたり演出を手伝ったりしていたわけですよね。林摶秋が日本での修行(⁉︎)を経て台湾に戻って、ほとんど存在していなかった(らしい)台湾映画、少なくとも「台湾語による台湾映画」の確立をめざして孤軍奮闘というか、さまざまな抑圧と戦いながら、日本映画に負けない規模の新しい映画システムを築こうとしてきたことが、送っていただいた国家電影及視聴文化中心TFAI「開放博物館」の資料をざっと読んだだけでも、たぶん石婉舜さんという人の克明な研究や分析もあって、よくわかります。家財を投げ打ってまで、独立プロ「玉峯影業公司」をおこしてがんばって、個人による大事業といった感じですものね、孤軍奮闘で。

-- 孤軍奮闘! まさにその通りです。政府も大企業も支援しない「台湾語映画」の製作のために、独立プロ「玉峯影業公司」をおこし、当時の公営映画スタジオに比肩する規模の「湖山スタジオ」を私費を投じて設立したのですから! 大資本のほうから近寄って行って争奪戦を繰り広げて投資したというキン・フーや李翰祥のような大監督と比べると、いかにも気の毒な境遇です。林摶秋について、こうしたことがわかってきたのも、石婉舜さんが、林摶秋監督がご存命の時からインタビューを続け、直筆原稿など資料の保存や復刻にも尽力されたおかげです。一時はまったく忘れられた存在だったそうですから。

『阿三哥出馬』(1959年)予告編

台湾 国家電影中心発行『阿三哥出馬』(1959年)DVDカバー

山田 DVD-BOXの一枚は、不完全版でボロボロのプリントの『阿三哥出馬』(英語題:Vote for San)でしたが、断片をつないだような感じで字幕もなく、話はまったくわかりませんでした。でも、予告編のアタマには山々に囲まれた撮影所の風景やら録音スタジオのなかで小オーケストラの演奏中のところや化粧室(?)でメイクする女性たちの姿やら中庭のセット(?)や俳優学校の教室で演技の訓練をしているらしい若い俳優たちやらが紹介され、セットで照明や撮影の準備の光景やらも見せ、「巨片問世!!」「玉峯影業公司 第一部喜劇片」と銘打って威勢のいい音楽とコーラスも声高らかに予告編が始まります。心ときめく撮影風景ですね。

――脚立にのったスタッフや木製のクレーンに乗ったキャメラマンなど、手作り感満載の撮影現場の内幕を見せる演出に引き込まれますね。

山田 「抱腹絶倒的選挙演説」といった惹句が字幕で画面に踊り、林摶秋がドタバタ調のコメディーに挑戦したことがわかります。

――この『阿三哥出馬』は宝くじに当たった道士が選挙に出る、というか巻き込まれるスラップスティック・コメディですね。林摶秋の知恵袋的な存在で資金援助もしていた楊肇嘉(よう・ちょうか、1892-1976年、政治家・社会運動家)は、植民地期に自治運動を展開した人ですから、地方公職選挙ができるようになった戦後のこの時期に、コメディ映画を通じて「選挙とは何か」を伝えようという思惑があったのかもしれません。うがった見方かもしれませんが…。

『阿三哥出馬』スチル写真。典藏者:國家電影及視聽文化中心。(CC BY-NC-ND 3.0 TW)。「臺灣影視聽數位博物館」より。
『阿三哥出馬』ロケ撮影の様子。所蔵:林嘉義、デジタルデータ所蔵:國家電影及視聽文化中心(CC BY-NC-ND 3.0 TW)、公開;臺灣影視聽數位博物館。


『阿三哥出馬』セット内で撮影の様子。所蔵:國家電影及視聽文化中心(CC BY-NC-ND 3.0 TW)、公開:臺灣影視聽數位博物館。



山田 コメディには政治的風刺が付き物ですから(笑)。画面には踊り子たちが踊るナンバーがあり、天井からの俯瞰ショットで、ハリウッドのトーキー初期のバスビー・バークレイの華麗なミュージカルを想わせるところもあって楽しそうです。マキノ正博も『ハナ子さん』(1943年)でバスビー・バークレイ調のナンバーを楽しく撮っていましたね。

――戦時中とは思えないミュージカルで、轟夕起子が「♪おつかいは自転車に乗って」と歌う主題歌がついて。

山田 楽しかったですね。階段がピアノの鍵盤になっていて、上り下りするとメロディになるとか。林摶秋の映画も楽しそうです。旗一兵の『喜劇人間回り舞台–––笑ふスタア五十年史』(学風書房)なんかを読むと、お笑いは浅草オペレッタに引き続いてムーランルージュ新宿座のレパートリーのメイン・メニュー(たぶん歌と踊りとともに)で、林摶秋もその手の脚本をたくさん書いて演出にもかかわっていたのでしょうから、喜劇は挑戦というより手慣れたものだったのかもしれませんね。
――予告篇に出てくるダンサーの踊りや、舞台中央からヒロインがセリで上がってくる感じとかも、ひょっとするとムーランルージュ新宿座譲りなのかもしれませんね。

台湾語映画事始め


山田 1955年に、台湾初の16㎜台湾語映画(邵羅輝監督『六才子西廂記』)、翌56年に、台湾最初の35㎜台湾語映画(何基明監督『薛平貴與王寶釧』)がやっと製作されるところから始まるということですから、私財を投げ打った林摶秋の孤軍奮闘の冒険もそりゃ大変でしたでしょうね。しかし、林摶秋以前にすでに台湾語映画をまがりなりにもつくった人がいた、ということでもありますね?

――はい。『六才子西廂記』の邵羅輝監督は植民地期に日本で映画を学び、台湾で劇団をやっていた人ですが、機材も十分でなく、『六才子西廂記』は画面も不鮮明だったようで、興行的にはふるわなかったということです。その後に続く台湾語映画ブームのきっかけになったのが『薛平貴與王寶釧』です。監督の何基明は植民地期に日本の十字屋文化映画部に入社して現像技術などを学び、総督府の命令で台湾に戻って台中州の映画教育担当をしていたそうです。『薛平貴與王寶釧』は、何基明にとっては長編劇映画デビュー作であると同時に、初めて自分の母語である台湾語で撮った作品でもあり、封切り時の広告には「正宗台語」つまり「本物の台湾語」という惹句が付いていました。「香港製の廈門語映画やないで、チャキチャキの台湾語やで!」みたいな、台湾映画人・何基明の意気込みが伝わってきます(笑)。

山田 いよいよ地元の台湾語映画事始というわけで……。

―― 林摶秋も、そうした1950年代の台湾語映画勃興期の監督の一人、ということになります。

山田 TFAIの資料には、同じ頃、日本人監督を招いて撮った『紅塵三人娘』(1957)という台湾語映画も出てきますね。岩澤庸徳という日本人監督。のちに、新東宝から香港に行って賀蘭山の名で活躍したキャメラマン(1966年のキン・フー監督作『大酔侠』なども撮影している)西本正のような人だったのかとも思ったのですが……、いや、そうではなかったようですね(笑)。「台湾映画は日本から30年遅れている」と批判しただけだったみたいで(笑)。林摶秋は故国に帰って本気で台湾語映画を立ち上げようとしたのでしょうね、新しい撮影所を建設するときにも「東宝映画のかつての同僚を呼んで技術的なサポートを受けた」とのことですから。とにかく、林摶秋の勉強ぶりだけは、よく伝わってきますね。宿舎付きの俳優学校までつくっているんですから。根本からきちんとやっている感じ。

台湾語映画と日本の映画人

-- そうですね。林摶秋は「台湾語映画」以前に「台湾語演劇」にも取り組んでいますし、当時の観客のほとんどにとって最も身近な「台湾語」での製作にこだわりがあったのでしょう。ただ、脚本は日本語主体で書かれているものも多いそうですが。戦後の台湾語映画界では(台湾が1895−1945年にわたって日本の植民地支配を経験したことから)日本語が通じるということもあってか、湯浅浪男や小林悟など日本の映画人を招いて撮った作品もいくつかあります。

山田 小林悟はどこかで聞いたことのある名前だなあ。たしか……いや、「たしか」なんて不確かなことはやめときましょう。岩澤庸徳の作品は一本だけ観たことがあります。もちろん日本映画ですが、『シミキンの忍術凸凹道中』(1949)という喜劇。シミキンの愛称で人気絶頂のコメディアンがいて、それで観に行っただけで、監督のことなど当時はまったく気にせず、台湾でも映画を撮っているなんて全然知らなかった(笑)。

―― 岩澤監督は台湾に残りませんでしたが、『紅塵三人娘』のほかに『阿蘭』(1958)も監督していて、どちらもヒットしたそうです。それから、湯浅浪男と共に台湾に来たキャメラマンの中條伸太郎さんにはお話を聞かせていただいたことがあるのですが、テレビ界でも活躍し、台湾で100本以上の作品に関わったそうです。

山田 湯浅浪男、小林悟、岩澤庸徳、中條伸太郎……、訳ありの日本映画人だったんでしょうね(笑)。単なる出稼ぎで台湾に行ったわけでもないかもしれない。中條伸太郎と共に台湾に行った湯浅浪男という監督など、日本と台湾との合作で『母ありて命ある日に』(1966年)という作品を撮っているようですね。

―― 武久康高さんや山﨑泉さんの研究によると、湯浅浪男はその後1971年に台湾(中華民国)に帰化して、湯慕華、湯淺、湯濳などの名前で10本以上の映画を監督したそうです。湯浅監督にお会いする機会はありませんでしたが、小林悟監督には一度だけお話をうかがったことがあります。日本ではピンク映画の監督として知られていますが、台湾では『月光大侠』(1968年)という台湾語SF映画などを撮っていて、小道具に使うために特注した台湾のミニチュアがすごくよく出来ていた、というような話を聞かせくれました。それにしても、当時は台湾語映画のVHSもDVDも容易に観られる状況ではなくて、台湾語映画の知識もまったくなくて…。せっかくお会いできたのに、中條伸太郎キャメラマンにも小林悟監督にも「根掘り葉掘り、何でも聞き出す」(笑)なんてことはできず……。まったくもって、本当に残念です。当時もっと台湾語映画のことを知っていたら、ぎりぎり林摶秋にお会いする機会もあったかもしれません。

山田 林摶秋は戦前日本に留学して、明治大学で学んで、新宿あたりでよく遊んで(笑)、いわば地方から東京へ出てきた日本人と同じようなものでしょう、それも優秀な。戦争の真っ最中で人手不足もあって、ムーランルージュ新宿座から東宝に助監督として、たぶん助っ人としてのかなりの実力を見込まれて抜擢され、それもマキノ正博(巨匠のわりには早撮りで知られた監督で、大スターでも無名の俳優でも見事に使いこなした娯楽映画の名匠)と阿部豊(アメリカで育ってハリウッドで監督としてデビューし、ジャック・アベのアメリカ名もあり、ジャッキー阿部とか阿部ジャッキーとかいった愛称でよばれた巨匠)という大巨匠の「組」(東宝では「マキノ組」とか「阿部組」とか呼んでいたようです)に入ったのは、先ほども申し上げたように、いろんな意味で幸運だったのではないでしょうか。阿部豊の『南海の花束』は、ハワード・ホークスの航空映画の傑作『コンドル』(1939)を巧妙にいただいて下敷きにした(脚本は八木保太郎)、なかなかの作品だったと思います。ケーリー・グラントの役を大日向傳、トマス・ミッチェルの役を田中春男が好演していたのが印象的でした……。

-- 石婉舜さんの聞き書きによる林摶秋の自伝を読むと、それまでは1本の映画に3人以上の助監督がついて撮影していたところが、1942年当時は戦況の影響で1本の映画に1人の助監督しか残っていなかった。だから、貸し出された林摶秋は「映画撮影、照明、セットデザイン、さらにはメイクアップや小道具についても学ばなければならなかった」ということです。林摶秋は学生時代に水泳の選手だった立派な体格の持ち主ですし、好きな映画の現場で、苦労はさせられたにせよ、学ぶところもあったのではないかと思います。

山田 マキノさんは特に、よきにつけ、あしきにつけ、助監督をこき使って、いろんな用を言いつけたとのことですから(笑)。
(第二回に続く)



構成:三澤真美恵、監修:山田宏一

イラスト:英 恵

山田宏一(やまだ こういち)プロフィール:1938年、ジャカルタ生まれ。東京外国語大学フランス語科卒業。映画評論家。『トリュフォー ある映画的人生』(平凡社ライブラリー 2002)、『美女と犯罪―― 映画的なあまりに映画的な』増補版(ワイズ出版、2001)、『映画的な、あまりに映画的な――日本映画について私が学んだ二、三の事柄(Ⅰ・Ⅱ)』(ワイズ出版、2015)『ヒッチコック 映画読本』(平凡社、2016)、『ハワード・ホークス 映画読本』(国書刊行会、2016)など、著書多数。


※ 本研究はJSPS科研費 JP20K12330の助成を受けた成果の一部である。


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