電話は鳴る。
「お客様の設備状況ですと30アンペア以上の増設は工事が必要となります。」
「はい、その料金は燃料費調整額の差額でございます。」
「そのプランはオール電化に対応したお部屋の為のプランとなりまして……」
「インボイス対応の支払い証明書は有料での発送となりますがよろしいですか?」
「新規でのご契約でございますね、ありがとうございます。」
電話は鳴る。それにわたしたちは出る。わたし平沢あゆみは東都エナジー株式会社のカスタマーセンターで電話を取る派遣社員オペレーターだ。一日25本前後。多い時には40人程のお客様と会話をする。要件は様々。引っ越しの事、料金の事、プランの変更、書類の注文etc…
様々な電話を取るがハズレの電話を取る時もある。
「ですから、2月分の料金をお支払いいただかないと電気の再開はできません。いえ、お客様に……はい、はい。仰る通りでございます。先ほども申し上げました通り……いえ、上席に代わっても回答は同じでございます。ですので、2月分を……いえ、すべてのお客様に同じ対応をさせて頂いております。ですから……はい、お客様落ち着いてください。ですから……はい、はい、いいえ馬鹿にしているつもりなどは……いえ……」
電気料金を払っていないお客様からの電話だ。電気代6,308円が支払えない。払える時に払うから止まっている電気の再開をしろと言っている。金を払ってもいないのにお客様と言っていいのかもわからない。
「いえ、ですから上席に代わりましても……」
助けを求めるようにチームリーダーの席に目をやると手で小さくバツを作って自分の作業に戻った。助け船は出港しないらしい。もうかれこれ1時間以上支払いをお願いしている。電話を1本取ると時給の他にも20円のインセンティブが出るのにこう時間のかかるお客様は迷惑でしかない。
向こうは払えない。熱くなってきたのにエアコンも使えない、炊飯器もIHコンロも使えずに飯も食えないと喚いている。知らない、払わないお前が悪いんだ。たかだか6,000円そこらの電気料金が払えない大人にはなりたくないものだ。ああ、もう休憩に行く時間を30分も過ぎているのにな、社食が売り切れてしまう…と思っているとチャンスが訪れた。
「お客様、今の発言は脅迫でございます。その様なお話をされる方への対応はお断りさせていただいております。こちらから失礼します。」
そう言ってわたしは通話を強制切断した。
カスタマーセンターでは基本的にこちらから電話を切る事は禁止されている。ただ明確に「殺す」「火を点ける」「お前の所に今から行く」等と言った発言があると先ほどのように切る事は許されている。
「お疲れ様。さっきのお客さんなんだって?」
いつの間にかチームリーダーが後ろに立っていた。助け船を出さない癖に野次馬根性かとイラッとしたがただの仕事の確認だ、報告をする。
「なんでもここにガソリンを撒くそうですよ。」
「へぇ、そりゃ怖いな。申し送り書いといて。一応、上に投げとくわ。」
脅迫をすると上に回され警察に通報する事もあるそうだ。わたしは誰かが捕まったという話も聞いた事がないし形式的なものなのだろう。適当にシステムに申し送りを記入する。さぁ急いで食堂に行かないといよいよ社食が無くなる。
昨日献立を確認した時には今日はCセットが美味しそうな鶏のチーズステーキだった。
「お昼行ってきます。」
「あ、言い忘れてたけど13時からチームミーティングあるから休憩30分で。」
無慈悲だ。あれだけ対応したのにさっきのお疲れ様は嘘なのか。労いは態度で示せ!と思いながら笑顔で「わかりました。」と答え、食堂へ向かう。
Cセットは売り切れだ。AセットのハンバーグもBセットの焼き魚も売り切れだ。わたしは溜息をついてこの食堂で一番不味いきつねうどんと異様に固く握られているおにぎりの食券を買う。不愛想な食堂のおばちゃんからトレーを受け取ると窓際の席で早々に食事を流し込む。同じ年くらいのオペレーターがきゃぴきゃぴと客の悪口を言い合っている。わたしにはきゃぴきゃぴと話す同僚などいない。食事が終わると喫煙所でタバコを一本吸う。ストレスのたまる仕事だとタバコでも吸わないとやっていられない。ここでもタバコを吸いながら男性社員が客の悪口を言っている。みんな悪口が好きだな。そう思いながらチームミーティングに向かう。
しかし、受電室に戻るとチームリーダーがいない。
「あ、リーダーなら部長に呼び出されたんでミーティング15時からに変更らしいッス。」
隣の席に座った革ジャンを着こなし青髪でピアスをジャラジャラつけた35歳は言う。服装が自由なのはこの仕事のいい所だ。わたしはユニクロのTシャツにユニクロのスキニーパンツとユニクロの広告塔のような格好で来ている。ダイエーにちょっと買い物に行くような格好だ。しかし何のために休憩時間を削ったのだろう。無慈悲だ。
「いやぁー、マジさっきの客わけわかんなかったッスわー。テレビ壊れたってうちは電器屋じゃねーッスよねー。」
35歳はケラケラ笑いながらブラインドタッチで申し送りを残している。
どんな電話でも申し送りを書かないといけない。どんなくだらない内容でもだ。
「わたしも昨日くだらないのあったよ。お前の下着の色何色だって。切ったけど。」
「えーっ申し送り何て残したんスか?」
「下着の色をお尋ねの為、こちらより切断。とだけ。」
「まちげーねぇッス!おっと……電話電話……お電話ありがとうございます。東都エナジーカスタマーセンター竹内でございます。本日はどういったご要件でしょうか?はい、アンペア数の変更でございますね。かしこまりました。ではまずお客様のご契約を拝見させていただきたいのですが、カスタマーナンバーはお手元にございますでしょうか?」
ヘラヘラ、ケラケラしているわたしたちの雑談は電話が鳴れば声のトーンは変わりケラケラしている35歳フリーターも真面目な社員に擬態する。電話口の真面目そうな擬態社員が足を組み頬杖を突いてペンをくるくる回しながら真面目な会話をしているなんて微塵も思わないだろう。
わたしもミーティングまでは電話に出ておくか、と受電モードに電話を切り替え、電話を待つ。今は5月。ゴールデンウィークも終われば新社会人や新学生、転勤などの引っ越しも一通り終わり、問い合わせ電話も春よりもぐん減る。春は引っ越しにより解約や新規契約の電話がひっきりなしにかかってきてテンテコ舞いだった。一件の電話が終わっても、受電モードにした瞬間に電話がかかってくる。電話の待ち人数が可視化された電光掲示板は真っ赤な文字で100人以上待ちを示していた。
そんな時期も過ぎ去った。5月も半ばの今日は閑散期と呼ばれる時期、暇だ。電光掲示板の示す待ち時間は0人。かけてくればすぐ繋がる時期だ。
メモ用紙にさらさらとこいのぼりの落書きをする。わたしはこいのぼりが好きだ。春が終わってしまうと風に乗ってそっとやって来て私を慰めてくれる存在、そう思っている。さっきも食堂の窓から遠くに出ている大きなこいのぼりが見えた。もうしまってもいい時期なのに大空を優雅に颯爽とと泳いでいた。ああ、また春が終わったな。わたしの春は働きづめで春なんて全然来なかったな。そもそも春なんて来た事はあったろうか。季節で春は何度でも来る。ただ女としての春、そう恋で言う所の春なんて来た事がないのではないだろうか。高校、大学時代には少しは浮いた話はあったけど、どうせ学生の恋愛だ。適当にデートをして適当にセックスして適当に別れて。就職活動をしている時には彼氏なんていなかったし大学を出て、就職をした頃にはもう恋なんてする暇はなかった。暇がなさ過ぎるし、就職先の上司のパワハラに耐えかねて正社員生活は2年弱で頓挫。すぐに派遣会社に登録しこの職場へやってきた。あれから2年弱。もう26歳。世間でいう所のアラサーになってしまっている。昔は25までに結婚してないと行き遅れって言われていたのよ、と言っていた母の話を思い出す。最後にデートをしたのもセックスをしたのもいつだったか忘れたな。職場と家の往復で出会いなんてないし、職場での出会いなんて隣の35歳みたいな奴しかいないしな……と思いながら真鯉を書き終えて赤ペンで緋鯉を描きはじめたころにやっと電話がなった。
「お電話ありがとうございます。東都エナジーカスタマーセンター担当の平沢でございます。」
「あ、引っ越しをするんで手続したいんですけど。」
当たりの電話だ。何が当たりってイケボの男性からの電話は当たりだ。いつもキイキイ言ってくるおばさんやモゴモゴしゃべるお爺さんばかり相手にしている。若い女も高慢ちきな女やこちらの話を理解しない女が多いので苦手だ。若い男は理解も早くて何を言ってるかわかりやすい。だから若い男の声と言うだけで安心する。しかし中には若い男のクレーマーもいるので慎重に相手をしないといけない。オラオラ系のイケボだって最初は丁寧に話をしてきて逆上したりするのだ。
「かしこまりました、お引越しのお手続きですね?現在お住いの所のご解約でしょうか?それともお引っ越しに伴う新規のご契約でしょうか?」
「あ、できれば両方ともお願いしたいんですけど。」
「かしこまりました。そうしましたら現在お住いの所のカスタマーナンバーはお判りでしょうか?」
「はい、97-2235-3511です。」
このお客様はクレームに発展しそうもないので安心して受けられる。気が楽だ。
素直に話を進行してくれるお客様は大体いいお客様が多い。「カスタマーナンバーなんかわからねぇよ!」と急にキレてくるおじさんなんかもいる。
「かしこまりました。97-2235-3511でございますね。」
わたしはパソコンのシステムにカスタマーナンバーを入力する。カスタマーナンバーを入力するとお客様の名前と住所が出る。わたしは少しおっ、と思った。出た名前は初恋の人と同じ名前だ。住所はわたしの実家の近くだ、もしかして思いドキッとする。しかし名前はカタカナ表記で出てくるし、年齢なんかもわからないので実際は別人の可能性が高いが。時々こんな風に「もしかして知り合いじゃないか?」なんて電話もあったりするがそんな奇跡みたいな事はない。聞いたところによると東都エナジーカスタマーセンターには毎年100万件以上の電話がかかってくるそうだ。100万分の1の確率で知り合いを引くなんて無理な話だ。
「では確認のためお客様のお名前とご住所をお願いいたします。」
「カガワ タクマ、S県S市N町2-17-8メゾンドミラー202号です。明日までで止めたいんですけど。」
わたしの住んでいたのはとなりのK町だったなと思いながら電話とパソコンのデータを照合し、間違いのない事を確認する。
「かしこまりました、只今ご連絡いただいている方は契約者様ご本人様でしょうか?」
「はい、そうです。」
「ではまずご解約のお手続きから進めさせていただきます。ご契約を拝見してまいりますので少々お待ちくださいませ。」
「はい、わかりました。」
電話を保留にすると契約詳細画面を開き契約を見る。
もし電気契約に動力設備という業務機器の電力や太陽光などの発電設備があるとめんどくさいのだ。しかしアパートならまずないのでざっと流し見をする。
次に料金の未収分について確認する。振込票払いで未収があれば新住所に再請求をかけないといけない。ただ、クレジットカードでちゃんと毎月払ってくれているようだ。
領収書や検針票等も作成していない事を確認する。もし作成していると検針日に合わせて配送が間に合わなかったりするので気を付けないといけない。今はペーパーレスの時代、インターネットで使用料の確認はしてもらっているので作成している若いお客様の方が少ない。お爺さんお婆さんは発行したりもしているのだが。
ここまでざっと見て「契約容量は20アンペアかあ、一人暮らしかな?」等と思いながら保留を解除する。
「お客様のご契約について確認が取れました。電気をお止めする場所の住所はS県S市N町2-4-8メゾンドミラー202号で御間違いないでしょうか?」
ここの確認を怠れば別の部屋を止めてしまったりしてクレーム案件だ。実際に社内では年に何件も間違った部屋を止めてしまってクレームになっている。
「はい、間違いありません。」
「ありがとうございます、それでは最終分の料金も日割りで計算いたしましてクレジットカードにてご請求させていただきます。そうしましたらお引越し先の住所をお聞かせ願いますか?」
「えーっと、ちょっと待ってください…おーい、カナエー!新しい住所の紙どこだっけー?」
電話口ではよくこんな家族間の話なんかも垣間見れる。家族のこういった会話は微笑ましい、いつもの事だがカガワ タクマがわたしの初恋の加賀和くんだったら恋人だか奥さんだかの存在は知りたくもないが。
電話口でガサガサと書類を探しながら「これだよ!ここ!」等と言う女の声が聞こえる。
「すいません、引っ越し先はS県K市T町15-6パリヤード1号です。」
わたしの今住んでいる隣駅じゃないか。加賀和くんが隣町に引っ越してくるなら一度会いたいな。あの告白の時のことを謝りたい。
わたしが加賀和くんと出会ったのは中学校一年生の時。同学年で別クラス、サッカー部のエース加賀和くんはみんなの人気の的だった。一年生でレギュラーに抜擢されていたし顔もどことなく生田斗真に似ていてカッコよかった。キメていたベッカムヘアだと自負していたソフトモヒカンは流行ではなかったし少しダサくも感じるが毎日ちゃんとセットしていて清潔感があった。勉強だって学年10位前後に食い込むくらいできた。明るく誰とでも分け隔てなく接して加賀和くんの周りにはいつも誰かがいた。女子からも男子からも人気のあるいい男子だった。サッカー選手の香川真司にあやかって琢磨なのにみんなに「シンジ」と呼ばれそれは慕われていた。
わたしはその時、加賀和くんになんて興味は全然なかった。図書委員で文芸部だったわたしはサッカーなんて全然興味なかった。ワールドカップの勝敗よりも宮部みゆきの新刊発売日の方が気になっていたくらいだ。サッカーが上手い人より魅力的な詩なんかで告白でもされたらときめくだろうな、そんな恋なんてした事もない女子中学生で恋なんてものは小説の中の幻想だと思っていた。わたしが専ら好んでいたのは恋愛小説なんかではなくてミステリ小説だったが。
転機は中学校三年生の今くらい、ゴールデンウィーク明けの時期にやってきた。ずっと図書委員一筋で三年間通してきたわたしは雑務も喜んでこなしていた。その日も図書室で一人で図書カードの整理をしていた。ゴールデンウィーク前に本を借りて行った生徒の返却で図書カード整理も中々の仕事量だ。でも慣れているわたしは「この学校では宮部みゆきよりも綾辻行人の方が人気高いんだな……」なんて思いながら整理をしていた。すると図書室のドアが開き加賀和くんがやってきた。
まっすぐに図書カウンターに向かってきてカウンターに座るわたしを見下ろし、睨むような眼で話しかける。
「平沢、ちょっと話いい?」
「え?」
同じクラスになったのは三年生がはじめてで話しかけられるのもはじめてだった。睨むような顔に「何かしでかしたのだろうか」と少し怯えながら同級生らしく振舞おうと努力をする。
「加賀和くんだっけ、何か読みたい本でもあるの?」
「そうじゃなくてさ……ここじゃなんだから、ちょっと場所変えよう。」
そう言われて人気のない校舎の階段踊り場でついていく。窓の外にはまだしまわれていない隣家のこいのぼりが夕焼けをバックにはためいていた。わたしがこいのぼりを見つめてると小さな声で「おい」と加賀和くんが呟いた。振り向きざまに真面目な顔で加賀和くんはわたしを見つめる。あの睨んでいたような顔はただ真面目で真剣な眼差しだったのだ。飛び出てきた言葉は予想外な言葉だった。
「俺、平沢の事が好きだ。」
「えっ……」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔、と言うのを想像した事がなかったがきっと今そんな顔をしているのだろう。わたしのどこがいいのか全然わからなくて混乱した。ただ教室で本を読んでいるだけのガリ勉女だしスポーツも特技もないただの地味な女。こんな女のどこに魅力を抱くというのだ。しかし即座になんとなく断らなければと思って「ごめん、今年は受験だし……」と断ろうとした。
「ごめ……」言葉の途中で加賀和くんはわたしを抱きしめた。男の人に抱きしめられるなんて初めての経験だったから反射的にわたしは「やめて!」と言って加賀和くんを突き飛ばした。その拍子に加賀和くんは階段の下へと勢いよく転がり落ちて行った。ゴロゴロと嫌な音を立てて加賀和くんは転がっていき最後にゴンッ!と鈍い音が響く。加賀和くんは階段の下でうずくまる。階段の下で「ううっ……」と言葉のない声で痛そうにもだえる加賀和くんを見てわたしは怖くなってその場から走り去った。
生きているのだろうか、怪我をしているのだろうか。次の日、恐る恐る登校すると加賀和くんはちゃんと生きていた。人間は丈夫に出来ていて良かったと思ったのも束の間、よく見ると足にはギプスが巻かれていた。同級生の話だと自主トレで階段ダッシュをしていたら転んでしまった事になっているらしい。後々に加賀和くんは怪我が原因でスポーツ推薦で行くはずだったサッカー強豪校のU高校を諦めざるを得なくなった。
わたしは申し訳ない事をしたと思った。あの時は反射的に突き飛ばしてしまったが人気者の加賀和くんが告白してくれたこと。それは後々考えるととても素敵な事だったし、あの時受け入れていれば加賀和くんは怪我をせずにU高校に行っていたかもしれない。あの高校ならインターハイにも出れたかも知れない。わたしはそれからきっと気持ちが迷子だった。ずっと加賀和くんの事が気になっていた。恋なのか贖罪の気持ちなのかはわからないけど、とにかく加賀和くんの事が気になった。加賀和くんはあれからわたしに話しかけてはくれなかったし、きっと嫌われたんだと思った。それはとても悲しい事だった。わたしが加賀和くんの事を気にかけた瞬間、加賀和くんはわたしに興味がなくなったのだ。もしかするとギプスの事を恨んでいるのかもしれない。それで話しかけてくれないのかもしれない。
わたしは加賀和くんの事なんてなんとも思ってなかったというのは嘘なのかもしれない。ただみんなに好かれている加賀和くんが高嶺の花で届かない、そう思っていただけで本当は加賀和くんの事が好きだったのかもしれない。それは錯覚なのか本当の気持ちなのか本当に心は迷子だった。
その年の秋、みんなが志望校を決めるころに図書室で勉強する加賀和くんがいた。他の人はいない。わたしは図書カウンターを出て加賀和くんに話しかけた。これはとても勇気がいる事だった。もしかするともう返事すらしてもらえないかもしれない。
「加賀和くん、あの時はごめんね……志望校どうするの?」
「ん、お前と同じところ……」
「え、わたしY大付属だよ。」
「……」
わたしは図書室で暇な時はいつでも勉強できたし、それなりにいい塾にも通わせてもらっていた。だからいつも学年で3位くらいの成績だった。だからY大学付属高校なんて選ぶことが出来たし、加賀和くんはみんなが勉強に本腰を入れはじめていた頃には学年30位くらいに成績は落ちていた。きっと加賀和くんには無理だろう。
会話はそこで終わってしまった。でも、まだわたしの事は好きだったんだな。そう確認できただけでも嬉しかった。しばらくの沈黙のあと、わたしは図書カウンターに戻って新刊にカバーを掛ける作業に戻った。
それ以降、卒業まで二人の間に会話はなかった。しかし加賀和くんは無事にY大学付属高校に受かった。恋のパワーというのはすごいものだ。ただ、恋をしているのかわからないわたしは落ちてしまったのだが……そうして加賀和くんとは別々の高校へ行きもう会えなくなった。
それがやはり恋だと気づいたのは高校二年生の終わり頃だった。滑り止めで受けていた中の上の公立高校。大して盛り上がらなかった学園祭の打ち上げの成り行きで初めてできた三年生の彼氏とはじめてセックスをした。ずっと脳内では加賀和くんが抱きしめた時の感覚を思い出していた。あの時、抱き返していたらこの相手は加賀和くんだったんだな。あぁ、わたしは加賀和くんが好きだったんだな。そう思って泣きながら処女を失った。セックスのあと、すぐにその彼とは別れた。彼はきっと自分のセックスが下手だったんだと嘆いていた、高校生らしい嘆き方だ。わたしはわたしで加賀和くんに再び思いを馳せながら大学では数人のボーイフレンドと付き合ったがすべてに加賀和くんの影を重ねていた。
甘酸っぱかったなあ、あの頃は……
「もしもし?聞こえますか?」
はっと我に返ったわたしは仕事モードに戻る。
「すいません、S県K市T町のあともう一度お願いいたします。」
話の途中から考え事をしていたわたしはパソコンにデータを打つのも疎かになっていた。
「S県K市T町15-6パリヤード1号です。」
「ありがとうございます。電気はいつからお使いですか?」
「今日からってお願いできますか?」
「はい、少々お時間いただきますが可能です。契約場所を確認いたしますのでお待ちください。」
パソコンに住所を打ち込むと送配電事業者の登録していたデータから部屋の情報が出てくる。契約容量は50アンペア。これはもう家族で住むアンペア数だ。加賀和くんはきっと恋人と同居、いや結婚するのかもしれない。……わたしはそれ以降は何も考えないでおこうと淡々とパソコンにデータを打ち込みながら事務的に会話を続けた。
「……それでは以上でご契約締結となります。何かご不明な点はございますか?」
「いえ、大丈夫です。」
「はい、それではお電話ありがとうございました。平沢が担当させていただきました。お気をつけてお越しくださいませ。」
「はい、ありがとうございました。」
電話が切れると安堵した。カガワ タクマが加賀和くんなのかドキドキする時間が終わったのだ。それと同時に悪い気持ちが心に走る。カガワ タクマが加賀和くんだったら隣駅だな……会いに行けるな……あの時の事も謝れるな……
どこのコールセンターのルールでは個人情報の持ち出しは禁止されている。もちろんの事、その住所に押し掛けるなんて事がバレたら首が飛ぶだろう。いや、持ち出しただけでも首は飛ぶ。個人情報の取り扱いはそれくらい大事な事なのだ。
ただわたしは加賀和くんに一言謝りたかった。そうして好きだったという事を話したかった。押し掛けたのがバレなければいいんだ。カガワ タクマは加賀和くんなのか確かめよう。そう思いわたしは緋鯉の落書きの下に「T町15-6-パリヤード1」とメモをするとそれを誰にも見られないようにポケットに隠した。
「平沢さん!」
35歳が急に声を上げてドキリとする。バレたのか?
「アンペア変更立ち合い日の変更ってどの画面でやるんスか?」
こうしてわたしの企みは誰にもバレる事はなくポケットの中に忍び込ませる事が出来た。
その日のチームミーティングはシステムの改修とスクリプトの改修、個人情報漏洩の事案についてだった。システムの改修は契約ボタンにマウスカーソルを合わせると簡単な契約内容がポップアップで出るようになるというのが来週実装されるというものだった。こういった便利な改修は役に立つがたまにくだらない改修で逆にシステムが使いづらくなることがある。この間の改修では新規契約を作る際の画面に移るまでの順番が変わってこれは誰が得するのだろうと思いながら慣れている操作が変わってしまった事で煩わしさを感じた。
スクリプトというのはトークスクリプトと言って、会話するときのの台本だ。大体の案件はスクリプト通りに喋っていれば終わるし多少脱線してもスクリプトに戻れば話は出来る。ただ、今日の改修は来週からスクリプトについている契約説明の一文が一行増えるというだけだ。この一行は「赤線」だから気をつけろと言われた。赤線というのはトークスクリプトの中に赤色で表記されている所は説明しないと特定商取引法で法令違反になってしまうという物だ。我々の会話は時々チームリーダーにより録音を聞かれ法令に違反していないかを確認される。某大手電力会社ははここを怠り行政から指導が入った事があるのだ。うちの会社だってそれはヒヤヒヤするだろう。
最後の個人情報漏洩事案は契約者や関係者ではない第三者の不動産会社に契約者の使用料金について答えてしまったという事案の報告だった。うちのチーム内で新人がうっかり教えてしまった事案で新人はバツが悪そうな顔をしていた。申し送りに書いた内容でバレてしまったらしい。申し送りは上でチェックされていて誤案内をしていないか、法令違反やルール違反をしていないかをチェックされる。東都エナジーは他のカスタマーセンター同様に個人情報を大事にしていて住所や電話番号などはもとより契約内容や料金の事は契約者本人や同意を得た家族、相続人やまた委任状を提出したような人や団体にしか提示する事が出来ない。
今回は不動産会社から退去者が電気代を滞納して出て行ったようだがいくら滞納しているのか、という問い合わせにバカ正直に答えてしまったという案件だ。問い合わせる不動産会社も放っておけば勝手に料金未収で解約になるのになぜ確認をしたのだろう。ただ、こんな教えても屁でもない案件でも個人情報として大事にされるのだ。滞納料金を悪用する人なんているのだろうか?
晒し上げられた新人はチームリーダーから教育を受ける事になった。10分ほど社内ルールの確認と注意事項の確認をされるのだ。簡単に言えばお説教だ。可哀想に。
チームミーティングが終わると唱和をする。チームリーダーの発声の後に続けて「お客様に言って印象の良い言葉」を言うのだ。1番から30番迄準備されている唱和の一つを唱和する。今日は9番を言ってミーティングは終わりだ。
「わたくし、喜納と申します。何かありましたらお気軽にお問い合わせください!」
そんな事はいつも言っている。と思いながら
「わたくし、平沢と申します。何かありましたらお気軽にお問い合わせください……」とハキハキというチームリーダーとは対称的にぼそぼそ言ってミーティングは終わりった。
そうしてミーティングは終わり、業務に戻る。
受電モードにして電話を待ちながら「料金を教えただけであれだけ絞られるならわたしが家に押し掛けたら大問題になるな……」なんて考えていた。でもわたしはこんなチャンスはないもしかするとカガワ タクマは加賀和くんでわたしはあの時の事は謝れるし、もしかすると初恋の事も叶うかもしれない。電話口の女の陰が気になる所ではあるが……
そうしていると電話が鳴った。
「English.OK?」
時々かかってくる外国人からの電話だ。新人はこれで大体狼狽えてしまうのだがわたしは落ちついて
「Sorry, I do not speak English. But we have an interpreter on staff. May I speak with an interpreter?」
と答える。英語は出来ないので通訳を交えていいかとわたしなりに聞いている。英語は文法が間違っていても単語で大体通じるから適当でいいよと大学時代の留学生はよく言っていた。それなりの大学は出たし、もちろん適当な英語で対応する事もできるのだろうけど誤案内をしてしまったり、難しい専門用語の英語などはわからないので通訳に繋ぐのが最善策なのだ。
「OK,thank you.」
もちろん外国人には断る理由などないから了承される。
「Sorry, please just a moment.」
と、保留にしてから通訳に繋ぎ三人で通話をする。カスタマーセンターに通訳がいる事に最初は驚いた。しかし電気を使っているのは日本人だけではない。一日数回は日本人以外から電話がかかってくる。大体はたどたどしくも日本語が出来るが話が通じず通訳と繋ぐことは多い。アジア圏の人は頑張って日本語で話をしようとするが通じず、通訳と繋ぐことが多いのだが英語圏の人は今日のようにゴリ押しで「英語でいいか?」と言ってくる。わたしは適当な英語で通訳に繋げばいいのだ。
「英語担当をお願いします。要件からわかりませんので用件から聞いていただけますか?」
通訳は英語だけではない、中国語、韓国語、スペイン語、タイ語、ベトナム語etc……様々な言語に対応した通訳がいる。
通訳と繋がると通訳とお客様の会話がはじまる。通訳とお客様との会話は理解する気もないので聞いている間はボーっとしている。薄っすら内容はわかった。間違い電話だな。その答えを通訳はわかりやすく伝えてくれる。
「どうやらお客さまこちらをサンパートナー電気だと思われてお電話されているようです。」
時々こういった事はある。電力自由化後に電気小売事業者が沢山出来たので東都エナジーに間違えて電話をしてくるお客様もいるのだ。丁寧にここは違う事を説明してもらい、その電話は終わった。
東都エナジーはあくまで小売事業者。大元は送配電事業者が作った電気を各小売事業者が売っているというのが電気事業のシステムだ。わたしたちは送配電事業者とお客様を繋げる橋渡しの役目しかしていない。震災で最大手電力会社が原発事故を起こした時、それが原因で最大手との小売契約を辞めた人も多いと聞くが結局は最大手電力会社の作った電気を小売事業者を通して買っているのだ。
その日、その後は別段、変わった電話やめんどくさい電話はかかってこなかった。
そんなこんなで業務を終えて退勤を押す。帰り、駅まで帰る道でポケットのメモを取り出した。わたしは迷っていた。「T町15-6-パリヤード1」ここに行くべきか否か。毎日、仕事が終わると18時を回っているので行くとしたら週末の休みだろう。わたしは個人情報を持ち出したことにドキドキしていた。悪い事をしている、と言う気持ち。そして大人になった加賀和くんに会えるかもしれないという二つの気持ちが相成って胸がドキドキしていた。気持ちを落ち着けようと遠回りして家に帰った。わたしはどうするかを決めるために。もちろん遠回りをしただけでは答えなんて出なかったので気持ちを落ち着けようと何を考えたのかすき家で1000円分も外食をして帰った。
それから数日はドキドキしながらすごした。個人情報を持ち出したことがバレてしまったら、加賀和くんのことが、あの時の告白の事が、全てがドキドキしてしまい仕事に身が入らなかった。処理ミスや誤案内をいくつもしてしまいチームリーダーにも絞られた。送配電事業者の出向日を多重登録するという些細なミスや(これはエラーで返ってくるので返ってきた時に直せばいい)未収料金の支払いを確認し、送電再開の手配をしようとしたら解約になっていることに気づかなかったり(この場合は折り返し電話をして再契約手続きをしていただかないといけない)同じ請求書を複数枚再発行してしまったり(取り消しが出来なかったので折り返しをして多重支払いをしないようにご案内しないといけない)をこういったミスが積み重なると評価に響く。派遣社員のわたしは会社の評価で給料が変わってくるのだ、生活に関わってくる。わたしは迷わない事にした。週末、わたしはカガワ タクマの家に行く。東都エナジーカスタマーセンターで個人情報を手に入れた、とバレなければ大丈夫だ。カガワ タクマが加賀和くんなのか、確かめるだけ。あわよくば謝るだけ謝って帰る。そう決めたのだ。
週末の土曜日、天気はあいにくの雨だった。もし加賀和くんと会ったらと思いわたしはいつものユニクロの広告塔の格好ではなく一張羅のワンピースに身を纏った。普段はファンデーションとリップしかしないメイクも今日は念入りだ。傘もビニール傘ではなく失くしたら嘆いてしまいそうな水色のジルスチュアートの傘にした。W駅からK駅まで一駅の電車を定期で乗り、K市へ向かう。と言っても私の住んでいるW市H町からK市T町までなんて晴れていたら自転車で行ける距離なのだが。
Google Mapで見るとカガワ タクマの家は住宅街のど真ん中にあった。ストリートビューで見ると真新しい家の立ち並ぶいかにも新婚カップルの住みそうな住宅街だった。しかもカガワ タクマの家はメゾネットタイプ。あからさまに新婚の匂いがする。わたしは初恋の事は忘れてただ加賀和くんが住んでいたら謝ろう、そう思ってカガワ タクマの住んでいるメゾネットタイプの家へと向かった。駅から歩いて15分。もし加賀和くんにあったらなんて言おう。そうだ、友達に近くに引っ越してきたって聞いたから会いに来たって言ってみよう。それなら不自然じゃない。いい言い訳が出来た。それならば手土産をと思い、途中にあった街のお菓子屋さんでマドレーヌを買った。これならば自然な引っ越しの挨拶だ。
カガワ タクマの家に着く。家の直前で立ち尽くしてしまった。もしチャイムを鳴らして加賀和くんじゃないカガワ タクマが出たらとても気まずい。昔、テレビで見た「お前誰だよロックンロール」が脳内に流れてしまう。それではマズい。しばらく家の前で張る事にした。今思えば雨の中、傘を差して住宅街に佇む女は不審者だろう、だがそんな事は気にならなかった。通報されても構わない。わたしは今ただ、加賀和くんに会いたかった。通報されたらそれも叶わないのだが。
30分ほどするとカガワ タクマの家の玄関が開いた。誰か出てくる。
わたしは反射的に電柱の後ろに隠れる。そーっと覗いてみると女性だ。ショートカットで少し大きめのベージュのサロペットを着ている。主婦と言う感じはしなかったが新妻と言う感じは醸し出していた。女性がビニール傘を差しドアを閉めて歩き出すと男が出てきて「おーい、忘れもんー!」と言って傘も差さずに駆け寄って青いポーチを女性に渡した。ああ、この感じ。もうこの二人は夫婦なんだな。そう確信した。そしてその男性、カガワ タクマが加賀和琢磨くんである事も確信した。
わたしは女性が立ち去るのを見送ると加賀和くんの家のチャイムを鳴らした。
「はーい。」とインターフォン越しに声がする。心臓がバクバクした。
「あ、あの中学校で同級生だった……近くに引っ越してきたって聞いて……」
「え?ちょっと待ってて。」
そういうと玄関がガチャガチャと鳴りドアが開いた。出てきたのはまごう事なき加賀和くんだった。中学生の時よりも背は大きくなっていたがあの時よりも生田斗真に似た顔になっていた。髪型も相変わらず短髪のソフトモヒカンだ。
「あの、平沢です…覚えてますか?」
少しいぶかしげな困った顔をした加賀和くんの顔を見てドキドキした。そうだよな、急に告白をして断ってきた相手なんかが訪ねてきたら困ってしまうよな。
「あの、わたし今隣町に住んでて…これ、良かったら…」
今日はマドレーヌを渡して帰ろうと思った。謝罪もしたかった。でも言葉が出てこない。
「あの時、怪我をさせてしまってごめんなさい。わたしあれから加賀和くんの事が好きだって気づいたんです。それだけ伝えに来ました。奥さんとお幸せに。」
そう言いたかった。でもいくら言葉を整理しても言葉はまとまらなかった。喋る事を仕事にしていても所詮マニュアル通りの会話しか出来ないのだ。
マドレーヌを受け取った加賀和くんは困った顔のままだった。
「今日は挨拶だけ…それじゃ…」
わたしが立ち去ろうとすると加賀和くんが引き留める。
「待って、懐かしいじゃん。良かったら中で話しようよ。引っ越して来たばっかで散らかってるけどさ。」
わたしは驚いてしまった。そんなに急に受け入れられる加賀和くん。サッカーの夢を奪ったわたしをこんな簡単に受け入れてくれるんだ。わたしは怯えながら加賀和くんの家に入っていった。
加賀和くんの家は新婚家庭と言う感じだった。まだ荷解きをしていない段ボールがいくつか積んである部屋には三人掛けのソファーがあって、その前には大きなテレビがあった。その間にあったガラステーブルにはさっきまで二人で飲んでいたであろう色違いのコーヒーカップが並んでいる。テレビ台には奥さんの趣味だろうか様々なポーズの陶器で出来た猫の置物が飾ってある。写真立てに入ったタキシードとウェディングドレスの二人の写真には眩暈がした。
「ごめんごめん、今片すよ。適当にソファー座ってて。」
そう言いながら加賀和くんはコーヒーカップを台所に持って行った。
わたしがドギマギしていると台所から加賀和くんの声がする。
「紅茶でいいー?マドレーヌ一緒に食おうぜ。」
わたしは少しどもりながら「お、おかまいなく!」と少し大きな声を出してしまった。
見るからにお客様用と言った感じの陶磁器のカップで紅茶を運んできた加賀和くんはニコニコしている。あんなひどい事をしたわたしに何でそんな顔が出来るんだろう。わたしも引き攣った笑顔を返した。
加賀和くんは少し距離を置いて三人かけソファの端に座った。私も少し座り直して距離を置いた。
「懐かしいな―、俺あれからY付属からY大行って今はサッカーの審判やってるんだ。社会人リーグだけどな、あと子供相手にサッカー教えたりもしてるんだけど、平沢さんは今何やってるの?」
加賀和くんは今サッカーに携わる仕事をしている。それだけで少し安堵をした。コールセンターで派遣社員をしているとも言えない私は少しきょどってしまった。
「普通の会社員だよ。それなりに順調にやってる。」
と答えるのが精いっぱいだった。
「誰に引っ越してきたなんて聞いたの?」
わたしは誰にも聞いていないので回答に困っていると加賀和くんは別の話をはじめる。
「いやぁ懐かしいなぁ、告白の時のこと覚えてる?急に抱きついたりしてごめんな。俺、ずっと謝りたくてさ。」
「そんな、わたしこそ怪我をさせちゃって本当にごめんなさい……」
「いいの、いいの、どうせ俺が悪いんだし。え、このマドレーヌ中にクリーム入ってる。めずらしっ。」
こんな平和に話が出来るとは思っていなかった。もしかしたらすごく怒鳴られたり酷い言葉を投げつけられるかもしれない、そんな恐怖がどこかにあった。でも加賀和くんは相変わらず人当たりが良くて全然変わってなかった。すごく安心した。
「わたしさ……」
「ん?」
「加賀和くんの事好きだったのかもしれない……」
そんな素直な気持ちがすっと言葉に出た。急にそんな事を言われても加賀和くんは困るだろう。案の定、加賀和くんは黙ってしまった。
沈黙が数秒流れると加賀和くんはわたしを抱き寄せてキスをした。
「俺、平沢のこと忘れてないよ。」
そういってわたしをソファーに押し倒すとワンピース越しに前戯をはじめた。
わたしは「奥さんに悪いよ!」と言いたかった。でも受け入れたかった。あの時、怪我をさせてごめんなさい、でもわたしはあなたが好きだったんです。あの時は上手く応えられなくてごめんなさい。そんな気持ちが身体中を駆け巡った。その気持ちは私をすごく熱くした。欲望のままに私からもキスをした。そして体を委ねて、加賀和くんに抱かれた。加賀和くんのセックスは乱暴だった。野獣の様なセックスはさらにわたしを熱くさせて幸せの感覚が何度も体を走り絶頂をした。加賀和くんはわたしの顔を見つめながら小さな声で唸ると果てた。
二人は息を切らしてしばらく会話が出来なかった。先に息が整った加賀和くんはソファ座り直してタバコに火を点けた。
「……タバコ嫌じゃない?」
「……わたしも吸っていい?」
「タバコ吸うんだ、意外だね。」
数分前の情事が無かったかのように会話がはじまりわたしは加賀和くんのラッキーストライクを1本貰い火を点けた。煙を吐き出しながら加賀谷君は気を使ってくれる。
「……シャワー使う?」
加賀和くんはあんなにも激しく抱いてくれた。あれは好きな人にするセックスだ。わたしは嬉しい気持ちと悪い事をしてしまったという気持ちが折り重なって少し涙目だった。
「……ごめん、嫌だった?」
そう囁いてくる加賀和くんの優しさが嬉しいし怖かった。
「奥さんに悪いよ……」
加賀和くんは少し黙ってしまった。タバコを灰皿に乱暴に推し消すと最初のあっけらかんな感じに戻る。
「大丈夫、大丈夫。あいつなら今産婦人科だししばらく帰ってこないよ。わざわざY市の産婦人科まで行ってんだぜ。評判がいいんだって。」
産婦人科と言う言葉を聞いて体がざっと冷める感じがした。
「妊娠してからご無沙汰でさ、平沢さんと久々に出来て良かったよ……もしよかったらこれからたまに会わない?」
わたしは嫌な事を思い返した。さっき加賀和くんは避妊具を使わなかった。わたしの中に果てた。勢いに任せて何も言えなかったわたしが悪い。でももしわたしに子供が出来たらどうするんだろう。わたしに罪を負わせるのだろうか。そしてこれかたたまに会うようになったらまた同じように奥さんを傷つける形でわたしを抱くのだろうか…?
わたしはタバコを押し消す。
「ごめん、今日は帰るね。」
「どうしたんだよ、急に。」
「なんか嬉しくなっちゃって。早く帰りたいんだ。」
わたしは心にもない事を言って早くここから立ち去ろうとした。
「じゃこれ、LINEのID。」
マドレーヌの包み紙を千切りIDをメモするとわたしに渡す。
「今日はありがとうな、駅まで送ろうか?」
「ううん、大丈夫。またね。」
そういって加賀和くんの家を出るとわたしは傘も差さずに走って駅まで向かった。そもそも大事にしていたジルスチュアートの傘は置いてきてしまった。もうわたしなんて濡れて帰ればいいんだ。わたしみたいな罪な女は濡れるだけ濡れればいい。LINEのIDは丸めてドブに投げ捨てた。
それからしばらくは気が気じゃなかった。妊娠をしていたらどうしよう。そう思いながら1週間経つと妊娠検査薬を毎日買っては試していたが2週間目でも線は出ないので妊娠は免れたようだ。なぜ急に訪ねて来た女に、好きだった女だったとしてもわたしを抱いて、しかも奥さんがいるのに、わたしの中で果てたのだろう。しかもまた、と言ってその過ちを繰り返そうと提案してきたのだろう。
そう思うと加賀和くんが馬鹿で最低な人に思えてきた。いや、実際そうなのかもしれない。あの告白の時に抱きついてきたのだって中学生が出来る精一杯の「レイプ」だったのかもしれない。それにわたしは騙されてしまっていたのだ。
そんな男の事をずっと思っていた私がすごく憎らしくなった。同時に職場の個人情報を使って抱かれに行ったわたしが情けなく辛くなった。わたしは彼に仕返しをしたい、そう思うようになってきた。そしてそれはすぐに実行に移されることになった。
わたしは手紙をしたためた。話は盛りに盛った。わたしは酷い事をされた。加賀和くんは酷い男だ。私は悪くない被害者だ。そんな手紙をしたためた。
「加賀和くんの奥さまへ
先日加賀和くんが近所へ引っ越してきたと聞いて加賀和くんの家に挨拶に来ました。留守の間に家に上がってしまいすいません。わたしはその日、加賀和くんに乱暴に無理矢理レイプをされました。避妊具も使わずにです。それから数週間はわたしは妊娠の恐怖に怯えていました。奥さんがいると知ったのは事後の事です。妊娠してから奥さんがやらせてくれないからこれからたまに会おうと強要され私は逃げました。妊娠はしていなかったので訴えたりそんな気持ちはありません。そういった事実があった、と言う事だけ奥さまに伝えたかったのです。簡単にですが報告をさせていただきます。
平沢あゆみ」
そして加賀和くんの家へ奥さんに会いに行った。この間とは色の違うサロペットを着た彼女は玄関前でプランターのハーブに水を上げていた。
「あの。」
「はい?」
急に話しかけたからだろう、素っ頓狂な顔をして彼女は振り向く。
童顔のわたしとは正反対の女優の様な顔をした人だ。わたしたちはこの人を裏切ったのだ。そしてわたしは加賀和くんを罪人にするためにこの人を使う。
「わたし、加賀和くんの同級生です。」
「あら、どうしたんですか…?」
急な来客でさらに素っ頓狂な顔になる。なぜ同級生が訪れたのか。
彼女は加賀和くんがどれだけ酷い人か、わたしがどれだけ酷い人かを知らない。
「これ読んでください。」
手紙を押し付けると頭にクエッションマークを浮かべた彼女は手紙を開こうとする。手紙を開く前にわたしは言う。
「あの水色の傘はあげますから。」
わたしは以前、ここに来たという証拠を言い放って足早に立ち去った。きっと後ろでは手紙を開いた奥さんが青ざめているに違いない。ざまあみろ。そう思いながら駅までの道を走った。今日は晴れている。傘なんて必要ない。雨が降っても濡れるのがお似合いなんだ。そう思っていると不思議と空は曇ってきた。
わたしは会社には真面目に行っていた。加賀和くんに抱かれた後日も妊娠にびくびくしていた時も会社に行って仕事はしていた。それが個人情報を持ち出して情事をしていた事への罪滅ぼしだと思ったのだ。いつもより多く電話に出たし、いつもより丁寧に対応をして、ミスの無いよう念入りにチェックをしてパソコンで処理をしたし、いつもの何となくの仕事はやらなくなっていた。真面目にカスタマーセンターの為に。そう思って仕事をした。
加賀和くんにする事はし返した。会社へは勤務で返す。これでお相子だ。しかし奥さんに悪い事をした。そういう気持ちだけが残っていた。
数日後、仕事を終えて家に帰るとポストに手紙が入っていた。加賀和くんの奥さんからだった。宛名はなく、直接ポストに投函したもののようだ。どうやって家を調べたのかはわからない。もしかすると彼女もどこかのカスタマーセンターに勤めているのかもしれないなと思った。手紙を開くと震えた文字が書かれていて30万円が同封されていた。内容は酷い物だった。
「平沢様からの手紙拝読いたしました。この度は琢磨が酷い事をして申し訳ありませんでした。どのように謝罪をしていいかわかりません。先日、この事を夫婦で話し合う事にしました。私が手紙の事を琢磨に告げると琢磨はあの女から誘ってきたんだ、と逆上をしました。もしそれが事実だとしても手を出したあなたに非があるのではないか?と私が問い詰めると琢磨は怒りながら私を何度も蹴り飛ばしました。元はと言えばお前が悪い、お前が悪い、と何度も言いながら私の事を蹴り飛ばしました。私は泣きながら耐えるしかありませんでした。私たちはその喧嘩が元でせっかく宿した命も流してしまいました。琢磨と話し合って私たちは別れる事になりました。これは琢磨とあなたとの手切れ金です。私がいうのも忍びないですが、琢磨とはもう関わらないでください。 旧姓:加賀和香奈枝」
加賀和くんは本当に酷い男だった。妊婦、しかも自分の奥さんに暴力をふるうような男だったのだ。酷い男にはそれなりの、それなりの罰を与えないといけない。
それからわたしは考えた。彼に与える罰というのはどういうものがいいだろうか?法的に訴えればいいだろうか?刑事事件として強姦罪として訴えてもいい。民事事件として弁護士に頼んでもいい。いや民事事件はきっと離婚の裁判をしている。離婚の裁判でもう加賀和くんには罰がくだっているのではないだろうか?刑事事件だとしても証拠がないし、わたしが加賀和くんの家を突き止めたのがカスタマーセンターの個人情報だとバレたらわたしは生活が出来なくなってしまう……
わたしはそこで気づいてしまった。
「わたしは酷い女なのにわたしに罰が与えられていないのではないか?」
一番酷いのはホイホイ好きだった男の家を会社のルールに反して調べて勝手に抱かれて勝手に被害者ぶって結果、新婚生活までめちゃくちゃにして子どもの命まで落とさせたわたしなのだ。気付いたわたしは愕然としてしまった。でも悪いのは加賀和くんだ、加賀和くんが手さえださなければ、そう自分に言い聞かせた。でも自分への罪悪感は拭い去れなかった。わたしは勝手に行動して勝手に傷ついて勝手に傷つけた。そう考えると頭がおかしくなりそうだった。
わたしはわたしにしか出来ない方法で加賀和くんにもわたしにも罰を与えようと思った。それが一番いいと思ったのだ。
翌日、出社をすると通話の録音データを聞く。加賀和くんとの契約をした時の電話だ。
「97-2235-3511」加賀和くんのカスタマーナンバーを控える。カスタマーナンバーは引っ越しをしても引き継がれる。今のS県K市T町15-6パリヤード1号の住所のカスタマーナンバーも同じだ。
わたしはパソコンに向かうとカスタマーナンバーを打ち込む。加賀和くんは離婚をするというのにまだ引っ越していないようで契約はまだあった。わたしはパソコンを操作し契約を選択すると解約手続きをする。もちろんこんな事をしてバレたらクビだろう。そしてこんな事をしたら100%会社にバレてしまうだろう。わたしはこれをわたしへの罰とした。わたしなんて職を失って路頭に迷えばいい。そう思いながら「解約処理しますか?」のボタンに無表情で「はい」を選択した。
加賀和くんの家の電気は今日止まるだろう。加賀和くんはきっと電気が止まったらカスタマーセンターへ電話をしてくるだろう、どういうことだ、どうなっている、困った、困ったと狼狽えながら電話をしてくるに違いない。わたしは確信があった。1年間に100万件鳴る電話。そのうちの1本。加賀和くんからの電話をきっとまたわたしは取る。わたしはそれを待つ。電話よ、鳴れ、電話よ、鳴れ。もし鳴ったら今まで言った事のないような酷い言葉で罵倒をしてやるんだ。それが加賀和くんへの罰だ。隣の席で、その隣の席で、その隣の席でも電話は鳴る。そしてついに、わたしの席でも、電話は鳴る。電話は鳴る。電話は鳴り続ける。
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