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ヘーゲル『法哲学』【ミネルヴァの梟】

Wenn die Philosophie ihr Grau in Grau malt, dann ist eine Gestalt des Lebens alt geworden, und mit Grau in Grau läßt sie sich nicht verjüngen, sondern nur erkennen; die Eule der Minerva beginnt erst mit der einbrechenden Dämmerung ihren Flug. [XXIV]

「哲学が灰色の中にその灰色を重ねて描くとき、生の一つの形態は古くなっている。灰色の中に灰色でもってしては生の形態を若返らせられうることはなく、ただ認識されうるだけなのである。ミネルヴァのフクロウはたそがれどきに飛び立つのだ。」

『法哲学』序文のほとんど終わりでのところである。哲学とは世界の思考[Gedanke]である以上、世界の形成過程を終えたところに哲学は現れる。だから哲学は世界の出来事をそのまま記述するにはあまりに遅すぎるのだ。それゆえ、ミネルヴァのフクロウ(=哲学)は黄昏時(=世界の形成過程が完了したとき)に飛び立つのである。かといって、哲学がいつも遅れていることに対してヘーゲルは悲観しているわけではない。というのも、哲学というのはそういうものだからだ。この名言が生まれたのも、哲学の思弁を肯定的に捉えたヘーゲルの理性主義の結果なのである。
 wenn ~, so ~. は英語のif ~, ~. に相当する。ドイツ語の場合、過去のことは完了形で表すのだが、haben(英:have)+過去分詞とsein(英:be)+過去分詞の二パターンある。前者は一般的なパターンで、後者は過去分詞が移動や移行の動詞の場合にそうなる。この文の動詞はwerden(geworden)で意味は「なる」。ゆえに後者のパターンである。lassen sich 不定詞で「・・・されうる」。erkennenも不定形なのは、この文章ではlassen sichが省略されているということである。最後の文章、beginnenは「始める」、Flugは「飛行」なので、「飛び始める」となる。
 『法哲学』の序文はほとんど意気込みが書かれており、当時のフリースなどに代表される直感主義哲学への批判や飾り立てた名言などで埋め尽くされていて面白い。さらに当時の哲学の置かれた状況も垣間見える。直感主義なんてものは、直感でなんとでも言えてしまうことになる。大学当局は彼らを役に立たないものとしてのさばらせておいたのだが、大学が国家と関係する以上、ついに干渉してくることになった。しかし私は違う。哲学は理性の王国を土台とするのであり、概念の中で普遍的な法則を示すのだ!とヘーゲルは言う。哲学は国家の学問としての哲学であり、単なる知的欲求ではなく、国家、国民、教養といったところに関わってくる。いかに国家、政治、教養、愛知、といった人間の制度と調和を保っていくか。哲学が大学における学問の一部門となった以上、現代にまで続いている問題である。ヘーゲルも現代人と同じようにどうやら苦心していたようである。
 なお「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」
Was vernünftig ist, das ist wirklich ; und was wirklich ist, das ist vernünftig. という有名な文章もこの序文に書かれている。


Georg Wilhelm Friedrich Hegel, Grundlinien der Philosophie des Rechts, Hamburg, Felix Meiner, 1955.

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