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【しかし拒みがたい形で存在しているこれらの物があり・・・】


Rien ne me détermine du dehors, non que rien ne me sollicite, mais au contraire parce que je suis d'emblée hors de moi et ouvert au monde. Nous sommes de part en part vrais, nous avons avec nous, du seul fait que nous sommes au monde, et non pas seulement dans le monde, comme des choses, tout ce qu'il faut pour nous dépasser. Nous n'avons pas à craindre que nos choix ou nos actions restreignent notre liberté, puisque le choix et l'action nous libèrent seuls de nos ancres. De même que la réflexion emprunte son vœu d'adéquation absolue à la perception qui fait paraître une chose, et qu'ainsi l'idéalisme utilise tacitement l’« opinion originaire » qu'il voudrait détruire comme opinion, de même la liberté s'embarrasse dans les contradictions de l'engagement et ne s'aperçoit pas qu'elle ne serait pas liberté sans les racines qu'elle pousse dans le monde. Ferai-je cette promesse ? Risquerai-je ma vie pour si peu ? Donnerai-je ma liberté pour sauver la liberté ? Il n'y a pas de réponse théorique à ces questions. Mais il y a ces choses qui se présentent, irrécusables, il y a cette personne aimée devant toi, il y a ces hommes qui existent esclaves autour de toi et ta liberté ne peut se vouloir sans sortir de sa singularité et sans vouloir la liberté. Qu'il s'agisse des choses ou des situations historiques, la philosophie n'a pas d'autre fonction que de nous rapprendre à les voir bien, et il est vrai de dire qu'elle se réalise en se détruisant comme philosophie séparée. Mais c'est ici qu'il faut se taire, car seul le héros vit jusqu'au bout sa relation aux hommes et au monde, et il ne convient pas qu'un autre parle en son nom. [p. 520]

私を外部から規定するものは何もないが、それは私を誘いだすものが何もないということではなく、逆に私は初めから私の外側におり、世界に開かれているからなのである。我々は端から端まで真であり、ただ物のように世界の中に〔dans〕いるのではなく、世界内に〔au〕存在しているというただその事実からして、自らとともに乗り越えなければならない全てのものを我々は持っているのである。我々は自分の選択や行為が自分の自由を制限しないかと恐れる必要はない。なぜなら選択と行動だけが我々を自由へと解き放ってくれるからだ。反省はその絶対的合致という誓いを物を現れさせる知覚から借りているのであり、そのようにして観念論も、それが臆見として破壊しようとしている「根源的臆見」を暗黙の内に利用しているのであるが、同様に自由も参加のもつ矛盾に溶け込んでおり、自由は、世界に根をおろしていなければ己は自由ではないだろう、ということに気付いていないのである。私はこんな約束をするのだろうか。これっぽっちのことに私は命を賭けるのだろうか。自由を救うために私は自らの自由を与えるのだろうか。この問いに対する理論的な回答はない。しかし拒みがたい形で存在しているこれらの物があり、君の前にはその愛する者がおり、君の周りには奴隷として生きる人々がおり、君の自由は、その単独性から出発して自由そのものを欲するのでなければ、自らを欲することもできないのだ。問題になっているのが物であれ、歴史的状況であれ、哲学は我々にもう一度それらをよく学び直させる以外のいかなる機能も持っていないし、哲学は、解離した哲学のようなものを破壊することで生き生きとしてくる、というのも正しい。しかしそこで口をつぐまねばならぬ。というのも、人間や世界と結んだ関係を最後まで生き抜くのは英雄だけであるし、他の者が英雄の名において語るなどというのはあって然るべきことではないからだ。
『知覚の現象学』


sommes au monde[être au monde 世界内存在。ハイデガーの in-der-Welt-seinの翻訳である]adéquation absolue[絶対的合致。フッサールのAdäquation(十全性)を念頭に置いている。絶対的合致というのは例えば思惟が対象を完全に構成してしまうような事態のこと。そのような事態は絶対的な観念論の復活となるので、メルロ=ポンティはそのような事態を拒絶する]opinion originaire[根原的臆見。これはフッサールのUrdoxaの翻訳だと翻訳者の宮本は見ている。フッサールはエポケーによって露わとなった意味(ノエマ)は臆見Doxa (δοχα)によって定立されているという。要するに実在がそこにあるのではなくて、あると思っているということを現象学的に言い換えた用語である。根源的臆見はその中でも最も基礎的な前述定的な臆見のことであり、メルロ=ポンティ的には世界との原的な交流のことを指す]

 無料版の方の続きである。ここまでを要約すると、メルロ=ポンティは『知覚の現象学』の最終章で「自由」を取り上げている。自由とは何なのか。決定論や絶対的決意として自由を主張する観念論は人間が世界と根本的に関わり合っている事態を言い表していない。彼らはマトを外しているのである。というのも自由が生じてくるのは自由を生きるからこそであって、自由を生きているということそのものから自由を記述し直さなければならないのに、観念論などは理論を押し込み、自由を生きるということはどういうことかを明らかにしていないからである。では結局メルロ=ポンティの主張は何なのだろうか。それはすなわち、まずもって我々は世界に開かれており、世界内で生きているということ、また「根源的臆見」や「世界に根を下ろす」といった状態で生きているということ、そしてそのような世界との交流の中においてこそ「自由」が生じているのであり、自由をその世界との関係の中で捉え直すべきだということ、である。最後に哲学に対する見解が登場する。哲学はその世界との生き生きとした関係の中で我々が生きているということ、それこそが始原的な経験であり、逆に観念論や実在論はその経験から生じくることを教えてくれるが、「そこで口をつぐまねばならない」。最後の他人というのは文脈上おそらく哲学者(現象学者)のことで、現象学者は英雄ではなく人間なのだから(英雄は一つの運命を生きる)、最終的に経験の謎が残される、ということであろう。謎は謎として生きるべきであって、理論やイデオロギーとして語るべきではない、ということである。
 この後に『戦う操縦士』からの引用が登場するのだが、すると、『戦う操縦士』からの引用の意味も明らかとなってくる。つまり我々人間が生じてくるのは、自由を生き、自由に従うというのは、物や愛する人、奴隷、そして息子との関係性の中でしかありえないということである。息子がそこにいてそして私はその中で行動を起こす。そこには憎しみや愛や義務や発明や自由がある。そしてそれで全てなのである。全てがその関係の中で営まれる。だからその関係から出発しなければならないのだ。『戦う操縦士』の含蓄は詰まるところそういうことである。

Maurice Merleau-Ponty, Phénoménologie de la perception, Gallimard, 1945.

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原文がある。無料版よりも原文増量、文法説明増量、解説増量というとにかく増量したバージョン。

哲学の名言、文章を原文から読んでみよう。基本的に無料版で取り上げた言葉をさらに詳しく解説します。さらに語の意味と文法に関しては全て説明。辞…

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