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Stress-Free Homeschooling 3

Chapter 4 現実的な期待


その素敵な白髪のご婦人はドアを開けて私を中へ招き入れた。玄関口を通り過ぎ、右手に垣間見えた塵一つないピカピカの応接間にピッタリな静寂が漂う家だった。このエレガントな部屋の中は何一つ歪んで置かれたものはない。私たちは廊下を下り、静かな整理整頓が行き届いた居心地の良い居間に通された。
いいえ、これは夢ではない。何年か前に同じ教会に通う年配の女性信者と一緒に祈りを捧げるために立ち寄ったお宅で実際に体験し、目にした光景だ。我が家とはかけ離れた対照的な住まいだった。その家には子どもは一緒に住んでおらす、当時半ダ―スほどの数の子どもと共に住む我が家とは大違い。経済環境も、性格も私とは違っていた。すなわち、万が一私がこのような豪奢な家具が収まった素敵な家に住むことがあっても同じ光景にはならないだろう。なぜなら私は…私だから。
ホームスクーリングをしている母親として一つ大きなストレスになることがあるとすれば、それは自分を、自分の子どもたちを、子どもの教育を、自分の家族を、自分の家を、友だちの(またはこのように本や雑誌で読んだり見たりした他人の)子どもたちと、家庭教育と、家族と、家とを比べてしまう時だ。

比べない!


神様はあなたを唯一の存在として誕生させた。あなたにはあなたに与えられた恵み、強み、弱み、そして性格があって、他の人が与えられた恵み、強み、弱み、そして性格とは違う。あなたの夫にもそれぞれが与えられている。あなたの子どもたちも同じように唯一無二の存在だ。夫の仕事はそれぞれ違うし、親戚も違う。このような例は腑に落ちるまで際限なく出せる。一人ひとり皆違う個体であり、個性があり、決して比べられるものではない。
女性はとかく瞬時に比べてしまう習性があるが、それはもう手放そう。比べてしまっていることに気づいたら、確固たる意志を持って「私は○○ではない。○○も私ではない。○○の子どもたちもそうであるように、私の子どもたちも唯一無二の存在。」
私にはAnnieという名の友だちがいる(私が彼女の話をホームスクーリングをするお母さんたちのグループにしていることはその場にいて知っている)。彼女は幼児20人分のエネルギーがあり、やる気が無限にほとばしっている人だ。彼女は二人の子どもたちと望遠鏡を作ったり、昆虫の変態を観察するために特別な餌付きのヒメアカタテハの幼虫(青虫)を注文し(リビングに設置したカゴに入れ)、蝶に羽化する姿を観察した。一方私は…そのようなことはしていない。
もし彼女に出会う前に何人かの子どもをホームスクーリングで育てた経験がなければ、きっと彼女を見てとてつもないプレッシャーを感じたことだろうと彼女に言ったことがある。家の中に案内されて、お子さんたちと一緒に作った望遠鏡を見せられた時のことを覚えている。私の最初の反応は「これはやらなきゃ!」だった。それから「私に子どもが二人しかいなければできるだろう。」でも瞬時に、例え子どもが二人だけだったとしても自分はしないだろうと気づいた。自分が望遠鏡を手作りするような柄ではないと悟り、それで良いと思った。子どもたちのことは大好きだ。本を読み聞かせるのも大好きだ。声が枯れるまで読んであげられる。Annieのしていることは素晴らしい。でも私はAnnieではないし、彼女も私ではない。
このように比較の罠にはまりそうになったのは一度だけではない。別の友人が自分の子どもたちのホームスクーリングをはじめようとしていて、その第一子は12歳だった。彼女は私に、私の12歳児に使用しているのと同じ教育過程のテキストを注文してほしいと依頼され、二人は同じ教科書を使っていた。
ある日この友人の家に行った時、彼女は歴史のテキスト用に各章を学んだ後にする確認テストを手作りしていた。それらをコピーさせてもらえないか彼女に頼み、最初の確認テストをコピーした。娘が最初の章を学習した後、確認テストのための勉強を始めさせていた。そして気づいたことがあった。私がその時点で娘に求めていたのは普通に歴史に親しんでほしいということであって、日付を覚えたりその他の事実を暗記してほしいとは思ってはいなかった。でも友人の取り組みを目にして、「彼女がしているのなら自分もそうするべき」という考えに動かされ、(当初は)深く考えもせずに友人の真似をしてしまっていた。それは我が子にテストを受けさせる正当な理由ではなかった。
もし誰かの取り組みが自分の目標としているものと同じならばそこから学べば良い。アイデアを拝借するのもアリだ。しかし、私がしてしまったように、よく考えもせずだた焦燥感から誰かの真似をするのはいかがなものか。
この「比べない」というアドバイスは人生のあらゆる場面にも適応する。
自身の夫と他の家の旦那さんやその人の家族との関わり方を比較しない。神様はあなたにこの夫を与え給うたのである。彼に感謝して、彼のために祈り、彼の良き妻であることを祈る。彼が良き夫、良き父親となるように祈る。彼を自分に与え給うた神様に感謝する。
人は誰しも良い顔を見せたがるのは自然で普通のことだと気づいているだろうか。他の人が完璧に見えて、旦那さんも非の打ち所がなく、結婚生活も円満に見えて、子どもたちも良い子に見えていても実際はそうではないものだ。相手もあなたや私と同じだ。隣の芝生の方が青いと思わないことだ。そんなことはないのだから。どんな庭にも青々とした部分と枯れて茶色になった部分がある。もし比べているとするならば、それは相手の青い芝生と自分の枯れた芝生を比べていて、相手の枯れた芝生の部分が見えていないのだろう。
他の人の子どもと自分の子どもを比較しないこと。また、自分の子ども同士も比べないこと。あなたや私のように子どもはそれぞれ違う個性を持ち、それぞれに強み、弱み、恵まれているところ、頑張りどころ、性格等がある。子どもはそれぞれのタイミングで肉体、感情、社会性、霊性、精神性、知性が発達する。我が家の10人の子どもたちの内、早くから読むようになった子もいれば平均的な時期に読みはじめた子もいたし、かなり遅くまで読めなかった子もいる。遅かった子も一旦読み始めるとあっという間に他の子たちに追いついていた。
何人かの子どもたちは勉強が良くできた。一般的な学校の教科への理解が早い子たちだ。他の子たちは机上での勉強は苦手だったが音楽、ダンス、人との交流といった分野が得意だった。子どもたちを互いに比較することは、子どもたちにとって不利益であり、何の役にも立たない。比較するよりもこれらの個性ある強みを与え給う神様に感謝する。
生きる環境は人それぞれ違う。子どもの人数、何歳離れているか、それぞれの気性、どこに住んでいるか、自分にどれくらいのエネルギーがあるか(私の友だちのAnnieは幼児20人分のエネルギーがある!)、自分の経歴、何を優先するか、夫の職業、夫の気性と夫への期待…書き出したらキリがない。全く同じ人は一人としていないし、同じ環境に居る人もいない。だから比較してはいけない。
ホームスクーリングはあなたとあなたの配偶者が家族と子どもたちは何を優先させるべきかーその年に何をどのように学ばせれば良いかーを神様に助言を求める素晴らしい機会だ。毎年ホームスクーリングを始める際には途中で予定を変更することに抵抗感を持たないように。計画したカリキュラムが思うように進まなかった時、(ある教科で自分が選んだカリキュラムが子どもに合わなかった場合や、スケジュールに変更が必要な場合など)夫と相談して見直す。その自由がある。ありがたいことだと思うこと。つまり、あなたは縛られることはないということ。素敵なことだ!

関わらない夫

この本を読んでいる全ての人に夫がいるとは限らない。その場合、あなたはよりあなたらしく自由だ。同じような考えを持つホームスクーリングをしている人を探してアイデアをぶつけ合うのは有益なことだ。でも最初に出会った人で落ち着いてしまわないこと。他のホームスクーラーにも出会おう。本当にいろんなタイプのホームスクーラーがいる。そしてホームスクーリングの旅路を勇気づけてくれそうな人との交流して人間関係を構築してほしい。
また、夫がいてホームスクーリングは理解しているが関わりたくないと思っている場合、あなたが全て決定していることに不服はなく、あなたに委ねることを望んでいる。それがあなたの家庭の場合だとしたら、さらによく祈ろう。ホームスクーリングに当たっての質問・疑問を神に尋ね、話したがらない夫を巻き込まないようにする。そしていつか夫が興味関心を持って関わろうとするように祈り、夫が少しでも興味を持ったり、方向性を示唆した場合は喜んでその言葉や考えを受け入れよう。

関わってくれる夫

多くの人(私も含め)は自分の考えが一番だと思う。実は何年も前のことだが、私は自分のホームスクーリングに関する判断に夫が口を挟むことを拒んだ。私が新しい本や教材を購入したいと思った場合、夫にいちいちお伺いを立ててなぜその本が欲しいのか、なぜ教材を変更しなければならないのかを説明する必要があった。(我が家ではこの何年間、私がフランス語学習の教材をどれだけ購入したかがいつも笑いの種になる)他のホームスクーリング家庭のママたちは自分で決めて購入し、夫もそれでいいと納得している家庭ばかりだった。我が家では夫がもし私が実施・購入・変更したいことを拒否した場合、私はそれを認めなかった。ホームスクーリングを実際に手掛けているのは私な訳だし、私が一番分かっているのだから。でも次第に夫は違った角度から物事を見ていたことに気づいた。彼はもっと大きな視野で大きな絵を見ていて、見識があった(彼が世帯主として神から与えられた役割を持っているという事実に加えて [エフィソの信徒への手紙第5章22~33節])。
なので、夫が関わることを拒否するよりもありがたく受け入れる。そしてもし夫が関わっていない場合、文句を言わないで少しでも興味関心を示したなら参加を促すようにする。

あなたの家庭

家庭は現実的な期待をするのに重要な場所であるもう一つの領域だ。小さな汚しの天才たちと一日中過ごす場所だ。夜に掃除して、朝ごはんの頃から少し整理整頓して、それから家族が仕事や学校に行ってくれるという訳にはいかない。あなたも子どもたちも一日中居て、本棚から本を引っ張り出し、おもちゃで遊び、とめどなく家を汚す。この世の中には出したものを一つ一つ使い終わったら元の場所に戻す類の人間が存在することは知っている(聞いたことがある)。でもこれを我が家の家族の精神に植え付けようとしたが、未だにそのような奇跡は起こっていない。
ある日、ハイチで伝道活動をしていた娘で、汚れが気になるその娘が家を訪ねてきた時のこと。歓迎の意味も込めて私はいつもより家中を整え綺麗にした。ある朝、子どもたちは勉強をせず、お姉ちゃんと一緒に挨拶回りをしていた。私は午前中のほとんどを子どもたちが散らかしたものを拾って、掃除して、片づけていたが、そこで気がついた。もし子どもたちが丸一日学校に行っていたら、完璧に綺麗に清掃された家にできる!
そこで“現実的な期待“が登場する。自分たちに見合う基準が必要だ。もし赤ちゃんを含む小さい子どもが三人いるなら、大きい子どもが三人いる家と同じくらい家が綺麗で整っていることを期待していはいけないし、期待されてもいけない。またもし大きい子どもが三人いるなら、子どものいない家と同じくらい綺麗であることを期待しない。
それは優先順位にも関連する。時々私は掃除するよりも子どもたちと一緒に過ごす時間を優先したい。
ここに見られるように、それぞれの人、夫婦、家族は違う。そしてそれぞれの状況で何が現実的か、何を優先するべきかを見つける必要がある。

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