旅先を舞台に、暮らしを続ける。
2021年の8月、ちょうど3年前(もう3年前!)、ひとりで住んでいたアパートを解約して、スーツケースとリュックサックにすべてを詰め込んで旅をするように暮らし始めた。「家」という生活の基盤そのものを捨ててしまうのは不安だったし、本当にこのまま進んでしまっていいのか、とても悩んでいたものだ。ワクワク感よりも不安感が多い。そんな旅のスタートだった。
俗にいう旅暮らし、多拠点生活。名古屋から京都、神戸、尾道、愛媛、別府、福岡、唐津、武雄温泉、門司港、岡山、静岡、小田原、秦野、横浜、東京、須磨、大阪、大洗、仙台、須賀川、いわき、富士吉田。本当にいろんな街に足を運んだ。
1年をかけて、じっくりじっくり、それぞれの街での「暮らし」を味わう日々。そう、これは「旅」と一言では表せないほどに、あまりにも「生活」だった、と今になって思い出す。
旅先で、生活をする。だから、旅暮らし。
旅をしている感覚はあまりにも薄かった。もちろん、いままで踏み入れたことない場所へ行く高揚感や、そこでしか決して出会えない景色を見られるのはワクワクしたけれど。それ以上に、それぞれの旅先を舞台に「普通の生活」を淡々と過ごせたのが、この期間の何よりも尊い経験だったように思う。
朝起きたら、散歩へ出かける。朝日が見られる場所であれば、近くの海まで歩いてみる。近所のパン屋さんで買ったパンを食べたら、そのまま仕事をする。半日で切り上げて再び散歩に出かけることもあれば、10時間籠って仕事を続ける日もある。夕方にはスーパーへ行き食材を買い、夜は自炊をする。
こうやってあの日々のことを書き出してみると、あまりにも平凡だ。旅のキラキラ感とは程遠い、なんてことない日々。毎日の淡々と続く日常を、そのまま旅先で送っている、というだけ。ただ、それだけのことなのに、3年経っても鮮明に思い出されるのは何故なんだろうか。
旅先で日常を送る、それは、きっと何年も忘れられない経験を積み重ねることなのかもしれない。もちろん生活はいつまでも続く。けれど、淡々と続く毎日のなかに、初めて見た景色、例えばその街で見た夕日や静かな海沿い、なんてことない街並み、もしくは初めて話す人との出会いがある。
普通の観光地を1泊2泊巡るだけじゃ感じられない、1週間以上滞在してみるからこそ分かる街の空気や特徴。旅より一歩踏み込んだ先で出会う日常がいつまでも愛おしく思えるのだろう。
旅をするように暮らしていたあの1年間を忘れたくないなぁ、と純粋な気持ちで思う。旅と暮らしのグラデーションを楽しんでみる。自由に軽やかに、だけどごくごく普通に、暮らしを続けていく。暮らしの舞台がたまに旅先になる。その選択をしてみただけで、日々が少しだけ豊かになった。
好きな街やお気に入りの場所、忘れられない風景が増えていく。その幸福を噛みしめて、暮らしそのものをいつまでも慈しめるように、私はまた次の暮らしの舞台に思いを馳せてみるのである。