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滋賀に住みたい夫と、京都での暮らしを捨てきれない私
暮らし、というものは、実に難しい。
「どのように」暮らすか、という中身の部分もだし、
「どこで」暮らすか、場所の問題もある。
私たち夫婦がいま対立(といっても、別に喧嘩をしているわけではない)しているのは、「どこで」暮らすかの問題だ。
滋賀に住みたい夫。
京都を捨てきれない私。
そんな構図がいま出来上がっている。
事の発端は、4月から住居手当がなくなることだ。
夫の会社が住居手当を出してくれているおかげで、いま私たちは京都に2万円ほどの破格の安さで住めている。
そんな住居手当が4月よりなくなることで、毎月の家賃の支出が5倍以上になるというわけだ。
そこで、私たちの間に出てきた考えは、「家賃が安い滋賀に引っ越そう」ということだった。
将来家を建てるかもしれなくて、それならいまのうちにお金を貯めておいた方がいいよね、京都は家賃が高いしね、というわけだ。
けど、いざ「京都に住まなくなるのか…」と思ったら、とてつもなく寂しく、未練が残っていることに気づいた。
「京都暮らしをこのまま捨ててしまったら、この先必ず後悔する」という気持ちが真っ先に浮かんだのだった。
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別に、滋賀で暮らすのが嫌なわけではない。
むしろ、いつか穏やかな海の近くで暮らしたいと思っていたから、瀬戸内海のように穏やかな琵琶湖がすぐ近くにある暮らしは、願ったり叶ったりの環境だ(海じゃなくて湖だけど)。
私も夫も大学時代を滋賀で過ごしたので、(思い出補正もありつつ)滋賀の暮らしやすさは既に知っている。
夫婦ともに大好きなUVERworldは滋賀出身だし。
「滋賀で暮らす」の選択をしたいのは夫だけでなく、私だって同じだ。本当に、心からそう思う。滋賀での新しい暮らしを想像する(例えば、朝早くに琵琶湖のそばを散歩したり)と、ワクワクな気持ちが芽生えるのも確かだ。
これは、私の心の問題でしかない。
「滋賀で暮らすのが嫌」ではなく、ただ単に「京都での暮らしが捨てきれない」のだ、きっと。京都での暮らしを捨てきるのは、いまじゃない、という気持ちが拭いきれない。
ここで手放すと、もう一生京都で暮らすことはないだろうという予感が頭をよぎる。
おそらく家を買うなら土地の安い滋賀になるだろう。
そうしたら、一度滋賀に引っ越したら、もう京都に住むことは一生ないかもしれない。
大学受験のときも就職活動のときも、京都の大学や企業を受けていたのに失敗した。
私が10年以上叶えられなかった暮らしを、やっと手に入れたというのに。こんなにやすやすと手放してしまっていいものなのか。
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そんな風にうじうじと決め切れない私を見るに見かねて、夫は「滋賀に住んでも電車ですぐだし、いままでとそこまで暮らしは変わらなくない?」と言った。
あぁ、やっとわかった。私と夫の暮らしの解像度の違い。
この問いかけにより、私は何でこんなにも京都暮らしを捨てきれないのか、ということを悟ったのだった。
確かに夫の言う通り、「滋賀に住んでも電車ですぐ」なのは、揺らぐことない事実だ。実際、大津から京都は15分・240円で行ける。何ならいまの家からバスに乗って中心部へ行くよりも格段に近い。
だけど、「いままでとそこまで暮らしは変わらない」とは、私は思えない。「訪れる」と「暮らす」は天と地の差があるということを私は身をもって知っているから。
日々の途切れ途切れで京都に訪れるのと、日々の地続きで京都の地で暮らしていること。
例えば、近所のお気に入りの散歩コースを巡ること、好きなお店でコーヒー豆を買うこと、自転車でお気に入りの図書館に行くこと、朝ふと思い立ってお寺に立ち寄ること。
これはきっと、「訪れる」だけじゃ、感じ得ないことなのだ。
私はきっと、そんな半径3kmにあるお気に入りを手放すのが怖いのだと思う。
この気持ちを消化しきれないまま滋賀に住んでしまったら、きっと選ばなかった方(京都で暮らし続けること)をいつまでも羨み続けてしまうだろう。
もしかしたら結論を急がせたと夫を恨んでしまうかもしれない。
そうは、なりたくない。
ここ数年、住む場所も仕事も自分で選択してきた。自分の選択に自信があるわけではないけれど、「これが最善だ」という気持ちで選び取った日々の先にいまの私が存在していると思っている。
だからこそ、ちゃんと自分で選び取った感覚を得たいのだ。
住む場所だって、仕事だって、どんな暮らしがしたいかだって、これまでちゃんと向き合いながら決めてきた。
流されるのではなく、自分で決める。決めたことに責任を持つ。選ばなかった方を羨むのではなく、選んだ方を最善にしていく。
いつまでも主体性のある暮らし、を守り抜きたい。
その理念はどこで暮らそうとも変わらない。
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ここ数日モヤモヤしていたことを書き出してみたら、たんに「滋賀に住みたくない」「京都がいい」ということではなく、「自分の暮らしは自分で納得感を持って決めたい」という部分に引っかかっていたことに気づけた。
自分が思っている以上に暮らしに対して我儘であることに呆れるけれど、同時に、暮らしの主体性に関しては誰にも渡したくない譲れないものであるということにも気づけたのでよかった。
京都暮らしに未練を持ちながらも、滋賀暮らしへのワクワクも膨らむ。
そんな矛盾する日々だからこそ、目の前の一瞬一瞬の景色が愛おしく感じてくるのです。
さて、どちらを選ぶのか、私自身でさえも全然分からないけれど、そんな状況に悩みながらもワクワクしている自分もいる。
どちらを選んでも、正解にしていく気持ちはあるのか。
自分の選択に納得感と自信をもって決めたいものです。
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