私が私を認める理由
これは私の個人的な感傷です。
誰かに強いるものでもなく、求めるものでもありません。加えまして答えは根性論になります。なにかご病気をお持ちの方、または疑われる方はお読みにならず当該機関のご指導に従ってください。
私の感情の成り立ち
自己否定や自己肯定という言葉が跋扈するようになり、早幾年。私自身も幼いころから趣味嗜好を否定され、学校においてもクラスメート、教師共に多くが私を否定し続けました。お陰様で私は私を認めるということができずに大人になりました。
細々とそしておどおどと好きなもの(とはっきり認識できるかも危うい中で)をすがるように触れて、なにかのご縁から同人誌を頒布したり、ネット上で二次創作を発表したりと「私」を表に出す機会に恵まれることが増えてまいりました。
自己否定というものは私にとって自動的な行為です。持て余した暇、あるいは間隙とも呼べる瞬間に自然にそれをするように脳が癖をつけたのです。幼いころよりのトラウマかもしれません。ですから、「否定することをしない」という作業が当面の私には必要でした。否定することの価値を問うことも、意味を模索することもなく漠然と「否定」することに終始するだけの行為が減っていくにはいくつかの段階がございました。順不同ですが、それらを紹介してまいります。
未熟など百も承知、ならば
私よりはるかに優れた方は大勢おります。あらゆる分野でです。その方々の多くはこうおっしゃるでしょう。
「私などまだまだ」
そのような方々が口にする未だ成らず、でしたら私は? 答えは「問う価値すらない」です。未熟と図るほども値しないのですから、自らの上手下手を考える余地などないでしょう。そのような姿は滑稽ですらありますね。するべきことは単純です。走るしかありません。今自分がいる場所はあらゆる分野の底辺。その門徒になるかならないか、その程度です。今更、ここで自己否定などお話にもなりませんよね。自己裁量の評価、否定など自惚れも甚だしい。退屈至極です。
私はそう自分に言い聞かせました。
認めてくださる方を、誇りに
友人がおります。似たような趣味と嗜好を持ち、共に語り合った大事な友人です。ある日、私は彼女に己の至らなさを愚痴をこぼしてしまいました。そこで彼女は不機嫌に私にこう言うのでした
「みさごはそれ以上なにを求めるの? 私からしたら嫌味にしか聞こえないんだけど」
彼女が私のことを高く評価してくださっていたことを、そのとき理解いたしました。同時に、私は羨まれるだけのことができているのだと。そのとき私は本当に恥ずかしい思いでいっぱいになりました。私は、彼女のその怒りを、悔しさを、羨望を、真摯に受け止める義務があるのだと感じ自己否定という甘えをやめることにいたしました。これは動画配信を行うVtuberとしても同じことです。登録者様、フォロワー様、いずれにしても私を見るに値すると信じてのことです。Twitter等で私がどれだけ自己憐憫、自己否定したところで誰も喜ぶものはおりません。いるのだとしたら私を嫌悪されている方でしょう。しかし喜ばせたりはしたくありません。そういえば「お前がオール(櫂)を捨てて喜ぶ奴がいる」そのような歌がございましたね。
自己肯定を、根性で
隙あらば湧き上がる自己否定ですが、前述のようなできごとがいくつか繰り返され気づけば「自己否定は理想の私ではない、ならばしない」と意志を持つようになりました。勿論、一朝一夕ではできません。湧き上がる否定に対して「えいやっ」と叩き伏せ……とはいえ簡単ではありません。雑草やなにかのように次から次へと私の頭を支配します。ですが私も負けたりはできません。負けるということは私を評価してくださる方々への裏切り、その顔に泥を塗ることになるのです。傷つくのが私だけならば簡単ですが、そうではありませんからね。必死にもなります。
ここは方法論などございません。そもそも「どうしたら自己肯定感を得られるか」「自己否定をしなくなるためにはなにをしたらいいか」そのような思考自体、私には甘え以外のなにものでもなかったのです。方法が、モノがないからこそ世に自己啓発本が氾濫しているのではないかと私は思っております。これは本当に、思慮の足りない女だからこそ行き着いた結論でしょう。筋肉で解決、という暴論にほど近いものです。「自己否定しないためにはどうしたらいいか→根性で突き抜ける」ですからね。レベルを上げて物理で殴れ、の方がまだ賢いものでしょう。
否定して良くなる事柄がない以上、否定すべきではないのです。私の場合に限ってのお話ですが、否定という時間、空間、思考ははちみつのように甘く、生クリームのように優しいのです。それに甘んじて、なにかよいことが見つかりましたか?
かっこいい、私に
漫画やアニメのヒーロー、ヒロインに憧れております。主人公でありたいからこそ、私は否定しないことを選びます。私の憧れるものは、かっこよくて、凛としていて、そして強いのです。繰り言になりますが、否定することが自然に湧くので戦うことになります。そのような自己感情と対決している際に、私はとても……なんと申し上げたらよいのでしょう、ハイになります。ハードなフィットネスで限界を感じているときもそうですが、楽しくなってくるのです。その気持ちを引き出し、弱い自分に抗います。負けた自分に甘んじることはとてもかっこ悪いですし、主人公らしくはありません。翻って抗う私はかっこいいのです。
過去を振り返れば地面を這いずり、泥を啜り、それでも今日まで生きてきたすべての私を認めて、信じるからこそ彼女たちを報われるようにするためにも私は凛と立っていなければならないのです。
いつになったら憧れる自分になるのか、なれるのか、または認められるようになるのか。その答えは、たった今からです。
苦難の道ですが、負けてもよいです、逃げることがあっても構いません。そうと決めてしまうことが肝要です。ですが、どうかその歩みを止めないでください。今のご自分を否定しそうになりましたら、そこまで歩いてきたすべてのあなたまでは否定しないであげてくださいね。あなたはあなたが信じてくださる瞬間をいつも待ち望んでおりますよ、きっと。私もあなたが目をきらきらと輝かせて、誇らしげに私にお話をされる日を待っております。
この拙い文章があなたのきっかけの一助になればと存じます。