誰かになりたくて
この投稿は以前の演劇の話の続きです!
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「同じ立場になってみないとわからない」
それが私の固定観念だった。
当たり前だけど、登場人物本人になることができない以上正解がなくて、役作りにいつも自信がなかった。それでもやるからにはできるだけリアルに想定して、その登場人物の背景、性格、そうして培われた感じ方を実際に演じながら試行錯誤していく。
次の公演の台本ができてきてくると、配役が決まるまで交代でいろんな役を演じる。とは言っても、私がいた劇団の台本は当て書きだったから半ばどの役になるか分かっていた。いろんな人がいろんな役を演じていく内に、脚本が変わることもあった。そう、脚本を手がける方も試行錯誤していたのだ。
私は笑った感じがぶりっ子らしく、そういうキャラとして描かれていた。もちろん自覚はない。むしろ自分の容姿が嫌すぎて、笑った顔も例外なく嫌いだった。
「役者」といえば、自分に自信があって、キラキラしているイメージを持っていた。それと真反対の私が役をもらって良いのかと何度考えたことか。しかし同時に、矛盾しているようだが、自分が嫌いで誰かになりたくて役者をしている節もあって、これは嫌いな自分を変える良い機会なんじゃないかとも思っていた。
配役の決定が近づくにつれて予想通り私はぶりっ子役を演じることが増えた。内心、抵抗を感じていたせいか存在感を出せなかった。
そんなある日ベテランの先輩が私のぶりっ子キャラを演じた時、目が釘付けになった。
面白いっ!!
同じシーン、同じセリフなのに、私とはまるで大違い。華やかな明るさを放ち、存在感があった。その時私の固定観念が変わった。
「同じ立場になっても人によって感じ方・解釈が違う」
それは人は絶対に完璧には分かりえないという意味を含んでいた。
同じ経験をしても感じたものは真逆かもしれないのだ。頭では"同じ人間はいない"と分かっていても、孤独を目の当たりにすると寂しさを感じずにはいられなかった。
一方で、私がどう解釈し、動いても良いのだという自由への許可と、個性への入口ともなった。
そうして演技を振り返ってみると、私は何も演じられていなかったことに気づいた。ただ覚えた台詞を発しているだけの、私自身のままだったのだ。先輩のような華のある演技ができるようになりたい…!
それからというもの、自分を忘れて役に没頭した。たまに自我が顔を出して「そりゃないだろ」と言うこともあったけど、見てる人が笑ってくれると背中を押された感じがしてどんどん調子が良くなった。
相変わらず公演後のアンケートに私についての感想は一つもなかったけれど、少し成長を感じられて前向きな気持ちだった。
次の公演は普段借りている施設で毎年行われる交流会。持ち時間は少なく、舞台もあまり設備が整ってない状況。公演内容は三人劇で、落語を少し改変したお話。ありがたいことに、私は役をもらえたのだけど、ぶりっ子役からうってかわって台詞がない役…動きもほぼない役…
死体役でした。
(つづく)
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前回、年内にまとめたいと言いながら全く進められていませんでした(^^;)
自分を追い込むつもりでゆるく宣言したのですが、すっかり忘れていました。。。
気を取り直してぼちぼち書いていくので気長によろしくお願いします。