第九話 『愛と秩序の四時間目 小学六年生への社会学講義』
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「はぁ〜笑った…。いやいや、笑ってる場合じゃなかったわ!そう。博郷さんや栄名さん、田中さんが話してくれた通り、自然状態を脱して秩序を形成する方法があったとしても、実際に人々がどういう行動に出るかまではわからないわよね」
愛は黒板消しで板書の一部を手早く消し去った。チョークの粉が舞い、愛の指が白に覆われていく。が、汚れなんか気にしていられない。残り時間、XX分○○秒。
白っぽい消し跡が残った黒板に愛は勢いよく「行為」とチョークを滑らせた。
「社会学では、社会とは何か?を考えようとする際の基本的な視点のひとつに、『行為』があるの。社会を観察するときの基本的な視点、といってもいいかな。つまり、人々の『行為』に注目して社会をみたり、考えたりするのね」
「『行動』じゃなくて、『行為』なんですね。僕たちが普段使っている辞書アプリだと、どちらの項目にも同じような意味が書かれているので、違いがあまりわからないんですが、何か特別な意味があるんでしょうか?」
信が質問を投げかけた。
言葉に対する勘が鋭い。日頃から辞書に親しんでいるからこその発想だろうか。
何人かの生徒が各自のタブレットを指でなぞりながら「本当だ」「気づかなかった」と声を漏らした。それぞれ言葉の意味を確認しているのだろう。
的確な信の指摘に、顔を綻ばせずにはいられなくなる。愛は肯き、答えた。
「袋井さん、すごい!いいところに気がついたわね!」
信は「いえ、たまたまです」と謙遜しているのに対し、どういうわけか翔吾の方がドヤ顔で「そうなんだよ、信はすごいんだよ!」と胸を張っている。得意げに笑って心の底から嬉しそうに言うものだからどうも憎めない。
行為とは、常に主観的意味が含まれた人間行動だ。
人は自らの行いに何かしらの意味を込めている。他者もまた、そうした意味を了解してさらなる行為を重ねていく。つまり、行為とは他者に向けられ、関係づけられている。これらの点からは、行為が他者の存在を前提としていることがわかる。
対する行動とは、条件反射や無自覚なものをいう。
社会学が扱うのはあくまで他者存在を前提とし、人と人との関係の間に生じる「行為」なのだ。
「まず先に、行動から説明するわね。行動っていうのは、条件反射的なものや無自覚に行われるものをいうの。たとえば、歩いていて誰かとぶつかりそうになったとき、みんなとっさに避けるわよね?雨が降ってきたら傘をさすわよね?こういうのは『行動』」
そして、と区切り次の説明に入る。
「それに対して『行為』は、自覚ありきの行動になる。言い換えると、何らかの意味や意図を込めて行われるものが『行為』になるわ。そうね、たとえば…私が今こうして授業をしているのは『行為』よ。みんなが聴いてくれていること、質問がくるかもしれないこと、そういう相手の反応も考慮に入れて行(おこな)っているから条件反射的な『行動』ではなく、意味や意図を込めた『行為』ね。もう一つ、『行為』が成立するには他者がいてこそ、なのよ。たとえ私的な行為であっても、それはあくまで他者の存在を前提としているのよ」
話す傍ら、愛は黒板に要点を書き出していった。生徒らも愛の板書に続いて手を動かしている。
はたと気づいて、ちなみに、と愛は注意を促す。
「社会学でいう『他者』は普段みんなが使っている『他人』と同じ意味ではないから注意してね。他者っていうのは、自分以外の人っていう意味もあるんだけど、その対象はとても広いの。そうね…たとえば、親とか兄弟はふつう他人ではなく身内と表現するよね。でも、社会学でいう『他者』では親や兄弟も含まれるし、身近な例で言えば友達や先生もそう。さらには地域や国家、国際社会の人々も『他者』に含まれるわ」
――社会学が扱う基本的なテーマの一つに「他者理解」がある。
他者を理解する、という場合、まず他者の行為の意味を理解しようとする試みが挙げられるだろう。
また、「他者」とは、「自己」を考えるにあたり用いられる重要な概念でもある。
「(自己と)他者」というテーマは、哲学や心理学などの分野でも研究されているが、社会学における「自己」…すなわち「私」とは、外界から切断された個ではなく、社会現象――「私という社会現象」――として捉えられる。そこに社会学ならではの特徴があるといえる。
社会現象として「私」を捉える視点には、「私」という自我――自己意識や自己イメージは、社会の中において他者とのかかわりの中で形成され、また、他者とのかかわりの中で変化していくという相互作用が想定されている。
そのような観点から見ると、「私/自己」と「他者」は容易に切り離せるものではないのだ。
重要な概念ではあるものの、ここに時間を割けるほどの余裕はない。
とりあえず、「他人」との違いが明確に伝わればひとまず良しとしよう。
愛は「他者は他人とイコールではない!」と黒板に書き付け、「ここ、テストに出るわよ」と冗談めいた前置きをして、要点を付け加えた。
「他者にはね、自分以外の人ってだけでなく、『未知なる何か』といった意味も含まれているの。『他者』の対象は『他人』のように必ずしも人に限定されないから、しっかり区別してね」
「要するに『他者』も専門用語ってことですね。用法・用量には注意!」
「薬とちゃうから!それ、用法・用量って言いたいだけやん!」
とぼける翔吾にすかさず反応を示す緋沙子。
冗談めかしたやりとりも、愛にとってはしっかり話についてきてくれている証に他ならない。言葉少ない他の生徒らも、相槌をうったり笑みを浮かべている様子を見れば、関心が失せているわけではないようだ。
愛が思っている以上に、彼らの知的好奇心、そして順応性は高いのかもしれない。
「これらを踏まえた上で、パーソンズが一体どんなことを考えていたか、なんだけど…」
パーソンズの社会理論および社会に対する把握の背景には、功利主義的思想への批判があった。
ここで、「功利主義」をどう扱うかは迷いどころである。
「功利主義」については、小学生用国語辞典にも記載があり、端的かつわかりやすい説明がなされている。が、パーソンズの議論に引き付けた場合、やはり充分な説明とは言い難い。
功利主義への批判は割愛して、パーソンズの秩序問題に対する「解答」を解説しても成立はするが、それでは物足りなさが残る。なぜなら、これから言及する「解答」に、パーソンズがどのようにしてたどり着いたのか――、つまり、彼が一体何に違和や疑問を感じ、どのような点に注目したのか、などの思考の過程や発想、着眼点などが少なからず抜け落ちてしまうからだ。
――どうしてこんな発想ができるんだろう?こういうモノの見方や考え方ってどうすればできるの?
初めて社会学特有の思考法や方法論に接した愛が、当時抱いた疑問である。
社会学では、暗黙のうちに受け入れられている前提を疑い、一般的に当たり前だとされている「事実」を鵜呑みにせず問い直す姿勢が求められる。
得てして人は、見たり聞いたりしたことをそのまま「事実」として受け止めてしまいがちだ。偉い人が言っていたから、たくさんの人がそう信じているからといって、正しい事実であるとも限らない。「事実」と一口に言っても、立場が変われば、見方が変われば、その解釈や受け取る印象は随分と異なってくる。このことを念頭に置いた上で、対象にアプローチすることが重要なのだ。
したがって、社会学は、物事を様々な角度から捉えること――たとえば、丹念な観察や地道な調査、比較、分析、考察などを通して、見えにくくなっている社会の構造や仕組みに言葉を与えて人々に気づきを促したり、見過ごされてきた社会的な問題を発見したりする。
自分たちが身を置いている社会のことを深く知り、根底から考え、理解するためには、「当たり前を問い直す」姿勢が欠かせない。それは、人々――もちろん、自身も含め――が日頃どっぷりと浸かりきっている世の中の常識、価値観、考え方などから距離を置き、新たな視点から考え直すことによって可能となる。そうして導き出された問いや発想、研究結果は意外性に溢れていたり、とてもユニークな視点をもつものが多い。
このような社会学特有のモノの見方・考え方を侑から教えられた愛は、知れば知るほど、新しい景色が見えそうな気がして、心惹かれていった。
しかしその一方で、「当たり前を疑う/問い直す」と言っても、具体的にどうすればいいのか戸惑いもした。
そんな愛に対して侑は、「社会学者が何に対して関心や疑問を抱いていたのか、そもそもどんなことを考えていたのか、にも目を向けてみるといい」とアドバイスし、
「彼らはすぐれて立派な学者であることに違いはないけれど、彼ら自身はきっと、人々をあっと言わせるような特別な理論を打ち出してやろうとか、そういうことを目指していたわけではないんじゃないかな。彼らはただ…人と人との間で生きていく中で出合った切実な『問い』に、ひたむきに、根気よく向き合い続けただけだと思うんだ。
彼らが人生を賭してまで向き合った『問い』や、導き出された『解答』の背景に何があったかって、気にならない?時代は違えど、同じ人と人との集まりの中を――『社会』を生きる僕らにとっても、彼らの問いの背景は決して無関係ではないはずだよ」と目を輝かせたのだった。
――気がつけば、私も侑に負けず劣らず社会学の面白さに取り憑かれているってわけね。
きっと小学生の彼らにも、社会学の思考法は、今後大いに役に立ってくれるはずだ。
愛は両手をぱんと打ちつけ、「みんな、あともう少しついてきてね」と笑いかけ、ラストスパートに向かって語り始めた。