見出し画像

「知らない」ということへの耐性

先週末、とある歴史関連のモニターツアーに招待していただき、九州へ行ってきました。

旅の疲れのせいか、気圧の影響のせいか…
帰宅してから3日間眠りこけてました(笑)

こんなんでよくメディア制作の激務をこなしていたな…と。

もともと体力がないのに激務をこなしていたため、心を病んでしまったのか…。
それとも心を病んでしまったために体力が落ちてしまったのか…。


それはさておき、
今回のツアーではとても貴重な経験をたくさんさせていただき、勉強になることが多かったです。

他の参加者の方もみな歴史好きの方で、ずーっと歴史の話ができたのもとても楽しかった…。

と同時に感じたのが、
みんな歴史に詳しすぎる……!!
という驚きです。

私もある程度は知識はある方だと思っていましたが、
私の知らない話がじゃんじゃん出てくる……!!

すごい…!みなさん本当にすごいんです。
そして私も新たな発見がたくさんあって楽しい…。

こんなふうに、
知らないことがたくさんあったときに、
「知ることができてうれしい」
と素直に感じることができるようになったのは、
実は私の中での1つの成長なんです。


自己紹介に書いた通り、
私は高校2年生まで歴史が大の苦手だったので、
大学で歴史専攻に進んだときには、
まだまだ基本的な知識が足りていなくて……

それがとてもコンプレックスでした。

今思えば、そのせいもあって、
レポートや論文でも自分の意見を堂々と述べることができていなかったように思います。

そのため、私は大学での研究生活に対しては未練タラタラです。

(そのコンプレックスや未練が、私が社会人になってからも勉強を続けている原動力でもあるのですが…。)


そんなわけで、
歴史という分野において、
私は「知らない」ということにとても敏感で、

「やばい」
「きっとみんなは知ってるんだ」
「知らないのは私だけ」
「やっぱりまだまだ知識が足りない」
「もっと勉強しなきゃ」

という焦りをいつも感じていたのです。
あるいは、自信をなくして落ち込んでしまったり…。

(このような心情を吐露すると、
「完璧主義だ」とか「自惚れるな」
などという声が聞こえてきそうな気もしますが…。
そうじゃないんです、劣等感コンプレックスなんです。
共感してくれる方いますよね…?笑)


当時、そのコンプレックスを大学院生の先輩に打ち明けてみたところ、
「まあ人間の脳には限界があるからね」
と一言だけ…。
正直その当時はその言葉にピンときていなかったのですが。

最近は、そのような「知らない」ということへの耐性がついてきたように思うのです。

「知識」というのは、知っていることもあれば知らないこともあるのが当たり前で、

たまたま私が知らなかったことを、たまたま相手が知っていただけ。

なので、
知らなかった私がヤバイのではなく、
知っていた相手がスゴイでいいのです。

そして、
教えてくれてありがとう
今知ることができてよかった
それでいいんですよね。


私が大尊敬している中国文学の権威・吉川幸次郎先生の本にもよく、
「この本は私はまだ読んでいない」
「この分野についてはわからない」
「専門家の意見を待ちたい」
などと書かれています。

吉川先生は中国文学の専門とはいえ、とても博学な方なのですが、それでもこの謙虚さ…。これが潔くてかっこいいんです。

それに比べて私ごときが「知らない」ことが多いのなんて…
まあ当たり前なんですよね(笑)

そんなこんなで、
"人間の脳には限界がある"
というのも本当にその通りで、
人によってその限界も違いますし、
なにも焦る必要はないのだ、と、今では思えます。


……なんてことを、
3日間の眠りから覚めて、ふと思ったのでした。


いいなと思ったら応援しよう!