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小説 - 金魚先生と黒猫ミミ 愛の話

『金魚先生、愛ってなあに』

黒猫のミミは金魚先生のいる金魚鉢が置かれた棚の下から見上げて聞きました。
ミミの後ろでは開け放たれた窓から夜風が吹いて、薄いレースのカーテンがゆらりゆらりと揺れています。
そこからミミはやってきました。
ミミは野良なので飼い主はいません。
時々外で気になることを見つけては、こうして金魚先生のところにお話を聞きにくる変わった子猫でした。

『どうしてそんなことを聞くんだい?』
『友達のチビが言ったんだ、お母さんは僕を愛してないから捨てたんだって。そしてチビは愛されているからチビのお母さんずっと一緒なんだって。先生、愛ってなに?愛があったら僕はお母さんと一緒にいれたの?』

ミミは少し俯いて、寂しそうにしています。
ミミは今よりもっと小さい時から1匹ぽっちで、親からの愛を受けたことがないのです。
その代わりに先輩野良猫たちがよくお世話をしてくれているのですが、それでも母の居ない生活は子猫のミミには寂しいものでした。
風に吹かれながら1匹で丸まって眠る夜、お母さんが側にいてくれたらと何度も思いました。

金魚先生は水の中でゆらりゆらりと綺麗なヒレを動かしながら、じっとミミの方を見て黙っています。
しばらく沈黙が続きましたが、ミミは不安にはなりませんでした。
何かを考えるとき、金魚先生はいつもこうして静かになる瞬間があるのです。
じっと待っていれば、何か自分では思いつかないような答えをくれるのをミミはわかっていました。

『そうとも限らないさ。愛はそれぞれなのだから。』

しばらくして、金魚先生は優しくぷくぷく答えました。

『それぞれ・・・僕よくわからない。愛は何種類もあるの?』
『そうさ。何種類もあるし相手によってそれぞれに違うんだ。そして必ずしも良いものでも無いんだよ。』
『やっぱりよくわからない。』
『本当を言うと、私もハッキリとした答えは持っていないんだ。そうだ、この棚の下に少し隠れて残っておいで、これから一つの愛が見れるよ。』
『人間の愛ってこと?金魚先生のお母さんの愛?』
『人間の愛のうちの一つだと思うが、ある人間の男のものだよ。』
『わかった。僕ここに隠れているからね。』

そう言ってミミは金魚鉢が置かれた棚の下に身を隠しました。
ミミは会ったことはないのですが、金魚先生には人間のお母さんがいます。
金魚先生の話では、先生が小さい頃から育ててくれている女性でこの部屋に一人で暮らしているとのことでした。
ミミは人間は少し苦手でしたので、いつも金魚先生のお母さんの気配が近づくとサッと逃げて顔を合わせないようにしていました。
今もミミが部屋に入ってきてからずっと人の気配はしてますが、どこか違う部屋にいるようでした。

ミミがしばらく棚の下でじっとしていると、玄関から誰かが入ってくる音がして、ミミの隠れている部屋に二人の人間が現れました。
一人は女性で金魚先生のお母さんです。
もう一人はスーツ姿の男性で、上着を脱ぎながら女性の後に続いて部屋に入ってきました。
二人は部屋のソファに座って何かを話していますが、猫のミミには何を言っているのかわかりません。

『あの男の手を見てごらん。金の輪っかがついているだろう。あれはね奥さんがいるってことなんだ。』

金魚先生がミミに話しました。
金魚先生は人間との生活を通して、すっかり人の言葉を覚えたので二人のことがよく分かるのです。
それはとてもすごいことなので、ミミは金魚を先生と呼ぶことにしていました。
ミミはじっと棚の下に隠れて静かにその話を聞いています。
金魚先生の言葉はミミにしかわかりません。
人間には金魚先生の声は届かず、口をぽっぽっと動かしているようにしか見えないのですが、ミミの声は鳴き声として聞こえてしまうので何も答えられないのでした。
ミミはそのことを考えると、いつも寂しい気持ちになります。

先生は先生のお母さんが大好きだし、お喋りしたくならないのだろうか。
僕ならすごく寂しい。

そうは思いましたが、そんなことを先生に聞くのは意地悪だと思ったので聞きたくありませんでした。
どうしても魚の言葉は人間には届きませんし、猫の言葉だって人間にはただの鳴き声にしか聞こえないことに変わりはありません。
ミミは胸の中にあふれたモヤモヤとした感情を、そっと胸の奥に閉じ込めて黙りました。

『でもね、その奥さんは母じゃ無いんだ。他に奥さんがいて、私の母は愛人ってわけさ。二番目の相手だ。』

金魚先生は棚の上から話続けています。
その声色は暗く悲しそうです。

つまり、愛するものがたくさんあるってこと?
それって悪いことなのかな?
いろんな奥さんや子どもがいる猫はいるけど、人間は違うの?
どうして金魚先生は悲しそうなの?

ミミにはわかりませんでした。
たくさんの疑問がぐるぐると頭を巡ります。
じっと二人の様子を見ていると、男性の口からぶよんと不思議な形の泡が空中に浮かんではパチンと弾けて消えるのが見えました。

「愛してるよ。愛してる。」

ミミはその声にビクッと体を震わせ、危うく棚に背中ををぶつけてしまうところでした。
その男性の声を聞いていると、何だか背中がぞわぞわとして胸がムカムカとしてくるのを感じます。
ミミは心を落ち着かせるようにゆっくりたくさん息を吸って吐きました。
男性が愛を囁くその度に、その口からはぶよぶよと泡が浮かんではパチンパチンと空中で弾けて消えて、また口から吐き出されてと繰り返しています。

『あの泡があの男の愛なのさ。』

金魚先生は嘲るように、軽蔑するように言いました。
ミミは少し混乱しました。
自分の想像する愛とは随分かけ離れたものだったからです。
ミミは仲間の猫親子の様子から、愛とは陽だまりのように暖かいものなのだろうと予想していました。
どんなに冷たい風の吹く夜でも、親子の猫たちは身を寄せ合っていればぬくぬくとして幸せそうに見えましたし、そんな光景を少し離れた茂みから1匹で眺めていると、親子猫の周りには暖かな光が差しているように見えて来たものです。
反対に自分の周りの闇はより深く濃くなって、どんどん深く飲み込まれていくような寂しい気持ちになりました。
もし自分にも愛が与えられれば、この闇が晴れるのだろうと思っていました。
しかし目の前にある愛と呼ばれる泡は、到底陽だまりのように暖かなものには見えません。
その泡は弾けるたびにふわっと中から白い霧のようなものを溢れさせて消えていきます。
陽だまりどころか、冬の空気のように冷たそうに見えました。
あんなものを体に入れたら、内側から凍ってしまいそうだとミミは思いました。

しばらくすると、泡の一つが男性の口から女性の口へと吸い込まれていきました。

『うげぇっ』

ミミはあまりに気持ち悪くてつい声を出してしまいました。
女性にはミミの声が届いてしまったようで、パッとこちらを向いて、怪しそうにミミの隠れる棚のあたりをじっと見ています。

『ミミ、動かないように。』

金魚先生が上から落ち着いた様子でミミに話しかけました。
金魚先生は女性の位置からはミミが見えないことがわかっていたのです。
しかしもう一度声を出したり、何かを動かしたりしたら捕まる可能性がありました。
ミミはバレませんようにと祈りながら、ゆっくりと少しだけ身をかがめて息を止めました。

「どうした?」
「今、何か・・・猫の鳴き声がしたような・・・・」
「え?」
「最近何か怪しいのよね。時々鳴き声が聞こえたり、ベランダに足跡が残ってたりするの。どこからか猫が来てるみたいなのよ。」

男性はキョロキョロと辺りを見渡しましたが、黒猫のミミは棚の下の陰にすっかり紛れていて二人には見えません。

「何も居ないよ。俺、猫って嫌いなんだよなぁ。子どもの頃ひっかかれたことあってさ、せっかく俺が遊んでやろうと思ったのに。猫なんかうちに入れないでくれよ。」

女性はしばらく部屋を見渡しましたが、気のせいだと思ったのかまた男性と向き合って話し出しました。
ミミには二人が何を言っているのかわからなかったので、男性の猫嫌いも知る由もないのですがなんとなく嫌な感じだと思いました。
そういうカンが働くのです。

僕、あの男嫌いだな。
それにあの男の足の匂いは何だ?
ブッチが吐いたゲロみたいな匂いがするぞ。

ミミは漂ってきた臭いを追い払うように顔を振りました。
ブッチというのはミミの先輩猫のうちの1匹で、太っちょでよくご飯を分けてくれる優しいブチ柄の猫です。
ブッチは食い意地が張っているので食べれそうなものは少しくらい傷んでいても何でも食べてしまうのですが、よく失敗して吐いていました。
性懲りもなく何度もそんなことを繰り返すので、仲間の猫たちには陰でゲロ助と呼ばれています。

ミミがブッチを思い出して笑いを堪えながら眺めていると、また泡が口から口へ次から次に吸い込まれていきます。
その度に女性の胸あたりがふっと膨らんで、それが心地よいのか目尻を細めて微笑むのでした。
なんとも幸せそうな表情です。
ミミはまた不思議に思いました。

あんなに先生のお母さんは幸せそうなのに、金魚先生はあの愛の一体何が嫌なんだろう。
そして僕もどうしてこんなに気持ちが悪いんだろう。

『あの泡は、ああして口から母の体に入っていくんだが、どうも腹がふくれたり栄養になるものではないらしい。』

また金魚先生の声が棚の上からぷくぷく言いました。

『あの愛は永遠じゃないんだ。今から1〜2時間はああして幸せでいられるのだが、効果が切れると酷く苦しいようなんだ。いつも母はあの男が帰ってしまって愛が切れると苦しそうに泣くんだよ。』

金魚先生はやっぱり少し悲しそうな声をしています。
ミミはその声を聞きながら女性を眺めて考えました。

僕はずっと愛が欲しいと思っていたけど、あんな愛なら欲しくない。
僕のお母さんの愛はどんなものだったのだろう。
他のお母さん猫達のように暖かいものだったのか、もしあんな泡のように冷たそうなものだったなら・・・僕はそんなものを飲み込みたくないよ。
それに先生はずっと悲しそう。
心配なんだ、きっとこの後苦しむのがわかっているから。
もしかしていつか僕が苦しむってわかったから、お母さんは僕を置いていったんだろうか。
僕にはわからない、何もわからない。

次第に胸のムカムカが酷くなってきて、さらにずっと悲しい気持ちでモヤモヤと考えすぎたせいでミミはすっかり疲れてしまいました。
目がぼんやりして、もう何も考えられそうにありません。
床にぴったりお腹と顔をつけて、ただじっと二人の姿を眺めているうちに、ミミは眠ってしまいました。
そして二人の人間は、ミミが眠りに落ちるのとほぼ同時に違う部屋へといなくなりました。

カチャ、 パタン。
ドアが閉じる音でミミが目を覚ますと、隣の部屋から二人が出てきたところでした。
男性は耳に携帯電話を当てて、何か一生懸命に話しています。

「ごめん、すぐ帰るから。うん、今ちょうど会社を出たところだよ。」

女性は、去っていく男性を後ろからもの寂しそうに見送っていますが、男性は振り返りもせず、電話先の相手と話しながら部屋を出ていきました。
金魚先生はミミが少し心配になるほど静かにしています。

金魚先生大丈夫かな。
それとも先生も眠ったのかしら。

金魚先生は眠った訳ではありませんでした。
ただ静かに水槽から母の様子を眺めていたのです。

女性は一度部屋を出てからお椀を手に持って部屋に現れ、ソファにゆっくり腰掛けました。
お椀からは白い湯気が立ち上り、出汁の良い香りがしています。
棚の下に隠れているミミの元までその美味しそうな香りが流れてきて、やっぱりあの泡じゃお腹は膨れないんだなとミミは思いました。
幸せに膨らんでいた胸も、ペッタリとしぼんでしまっています。
愛が抜けてしまったのです。
女性は先ほどまで二人で座っていたソファーに一人腰掛け、お椀からスープをゆっくり口に運んでたくさん飲みました。
そして金魚先生のいう通り相当に苦しい様子で、ポロポロと涙をこぼしています。

ミミはしばらく不思議に思って女性を眺めました。
ミミの先輩野良猫達は相手の取り合いになって喧嘩をすることは時々ありましたが、あの女性のように涙を流して別れに苦しむ猫は見たことがありません。
大人の猫達の関係は身を撫でてさっぱりと去っていく春の風のようなものだと思っていました。
去った後はそれぞれにすぐまた違うことに夢中になったり、のんびりしたりするものだと。

人間の愛は何だか残酷だ。
猫のものとは全然違うみたいだ。

ミミがモヤモヤと考えていると、ふと棚の上から『お母さん』と辛そうに何度もつぶやく声が聞こえてきました。
金魚先生の声です。
起きていたのかとミミは思って、また金魚先生の気持ちを考えて辛くなりました。
どんなに声をかけても、金魚先生の言葉は人間には届きません。
こんなに近くで心配して、一番愛してくれているものの言葉が女性には聞こえないのです。
その届かない声を聞いていると、ミミはギュッと胸が締め付けられて苦しくなりました。
モヤモヤモヤモヤ胸の中でいろんなことが渦巻いて、もう我慢の限界です。
ミミは吐き出すように「わああ!」と大声を出して棚の陰から飛び出してしまいました。

ミミはしばらく、女性と見つめ合いました。
急にミミが鳴き声をあげて棚の下から飛び出してきたので、それに驚いた女性の涙はすっかり止まっています。
今は目をまん丸にしてミミを見つめていました。

「君、ずっとそこにいたの?」

女性はゆっくりと近づいてきました。
ミミは驚いて一瞬後ろに身じろぎましたが、後ろの金魚先生を見てぐっと足に力を入れてもう一度向かい合いました。

金魚先生の言葉は届かないけれど、僕の鳴き声は届くんだ。
僕が先生の代わりにこんなことやめさせるんだ。

『僕ずっといたよ。』

ミミはミーと答えました。
すると女性はミミをゆっくり抱き上げて膝に抱え、床の上に座りました。
ミミはびっくりして固まっています。

「恥ずかしいところ見られちゃったな。」

女性は独り言をつぶやくように、ポツリと言いました。
指だけをゆっくりミミの背中の毛並みに這わせて撫でながら、ぽかんと床をじっと眺めています。
ミミはそんな女性が少し怖かったのですが、思い切って話しかけてみることにしました。

『ねえ、先生が心配してるよ。泡なんて食べちゃダメだよ。それに僕たちあの男嫌いだよ。』

ミミは言葉が伝わらないとは分かっていましたが、一生懸命に話しました。

『あんな泡を食べてもお腹も膨れないし栄養にもならないって聞いたよ。そんなの食べちゃダメ。ブッチみたいになるよ。ブッチはねなんでも食べちゃってよく吐くんだ、だからみんなにゲロ助って呼ばれてからかわれているんだよ。それにあの男の足、ブッチのゲロみたいな臭いだ!』

女性はあまりにもミミが必死にミーミーと鳴くので、不思議そうに眺めています。

『金魚先生を見てよ!ずっとあそこからあなたを見て、あなたが苦しむと同じように苦しむんだ!きっとあなたが嬉しいと・・・一緒に嬉しくなる
。だからあなたにはずっと幸せでいて欲しいんだ。金魚先生はあなたを一番に知ろうとしてきた。きっと、それが金魚先生の愛なんだ。』

ミミは話しながら少しだけ愛が何かを感じられた気がしました。
それは金魚先生の中にある愛です。
金魚先生はお母さんとお喋りはできませんし、思いを伝えることもできません。
ただ見守るしかできない相手を、いつでも誰よりも理解するように努力して受け止めてきたのです。
そして今では思いを重ねて悲しんだり喜んだりできる。
伝えきれない寂しさや孤独を超えて相手を思いやれる愛です。
それが金魚先生の愛なのだとミミは思いました。

女性にはミミが何を言っているのかさっぱりわかりませんでしたが、その必死な鳴き声を聞いているとペタンコだった胸が温まってふっと少し膨らむのを感じました。
そして話終えたのを見るとクスッと笑いました。

そして今度は静かに金魚先生の方を見上げて微笑みました。
金魚先生も女性に向き合ってゆっくりとヒレを動かし、何も言わずにしばらく見つめあっています。
そして小さな声で呟きました。

『ミミ、ありがとう。』

金魚先生の表情はいつもほとんどわからないのですが、ぷくぷくと小さな泡を吐きながら少しだけ笑っているようです。
その泡は金色に光りながら水面にプカリプカリと浮いて、キラキラと輝いていました。
ミミはあれが金魚先生の愛の形なのだと思いました。
あの男性のものとは違う、暖かな光を持った泡です。
その泡は水面でいつまでもコロコロと動きながら輝いています。
ミミが泡に見とれていると、不意に女性がミミを自分の顔あたりまで持ち上げ、いたずらっぽく笑って言いました。

「あいつ。猫嫌いって言ってたな。」


それから、ミミは金魚先生と一緒に飼われることになりました。
名前は『ミミ』です。
ミミは金魚先生の分もたくさんお喋りをして、しょちゅうミーミーと鳴くので偶然にもまた同じ名前をつけられました。

そして今では、あの不気味な泡を吐きブッチのゲロ臭をさせる足を持った男性はこの部屋には来なくなりました。
ミミが飼われるようになった翌日の晩に、また男性が現れたのですがミミが派手に威嚇し追い払ったのです。

男性が現れた晩、ミミは先輩野良猫のボスに教わったように大きく背中を丸くし、毛を逆立て目を見開いて威嚇しました。
ボスは大きな体の白猫で、顔の中心に引っかき傷がある野良猫たちの親分です。
喧嘩の強いボスはよく子猫たちを集めて、強い野良猫になれるように戦い方を訓練していました。
ミミはあまり喧嘩は強くありませんでしたが、今回は絶対に引き下がれません。
金魚先生のために、この男性は絶対にもう部屋に入れないと決めたのです。
男性はなんとか部屋に入ろうと、腰をかがめてミミのいる場所のわきを通ろうとしてきましたが、ミミはギャーギャーと声を上げながら無茶苦茶に爪をむき出した前足を振り回し、床の上で暴れまわって男性の行く手を阻みました。

「おい!この猫なんとかしろよ!俺猫は嫌いだって言っただろ!」
「飼うことにしたの。」
「はぁ?ふざけんなよ!勝手に何してんだよ!」
「ふざけてない。ここは私のうちだし、あなたに口出しされることじゃないわ!今はもう私とこの子と金魚の家なの、出てって!もう二度と会いたくない!」

ミミには二人の口論の内容はわかりませんでしたが、女性が戦っているのは分かりましたから、加勢するつもりで大きな声を出して爪を振り回しました。
ミミの爪はまだ小さなものでしたが、野良で磨いたとても鋭利な自慢の爪です。
爪は振り回すたびに恐ろしく白くキッと光り、その光を見ているとムクムクとさらに勇気が湧いてくるのを感じました。
右に左に走り回り飛び跳ねたりかがんで回り込んだり、男性の足元で大暴れです。
必死でミミの爪を避け続けよろめいた男性がドテン!と大きな音を立てて尻餅をついたので、ミミはすかさずその足に詰め寄って、シュっと爪をかすめました。
男性がとっさに足を引っ込めたので狙いは外れましたが、小指の先あたりの靴下が少し破けました。
そしてもう一度爪でひっかこうとした時、その殺気に気づいた男性は急いで立ち上がり、振り返りもせずに壁に体をぶつけながらドテドテと走って部屋を出て行きました。
子猫のミミが自分よりずっと大きな人間を追い払ったのです。
ミミはその去っていく後ろ姿を見て、足元からぐっと熱が上がってくるのを感じて胸を張りました。
胸は誇りでいっぱいです。
そしてミミはいつかボスが喧嘩相手のイタチ(という名前の野良猫)に叫んだかっこいい言葉を思い出して男に向かって叫びました。

『おとといきやがれ!』

ミミが高らかに鳴き声をあげると、女性は大きな声を張り上げて笑いました。
それ以来男性の姿は見ていませんし、女性ももう会っていないようです。


『金魚先生、愛ってなんだろうね。』

ミミは金魚先生のいる金魚鉢の隣に座って言いました。
レースのカーテンの向こうからは、少しずつ登る朝日が暖かなオレンジ色の光を部屋に届け始めています。

『愛はそれぞれに違うのさ。』

金魚先生は朝の光を受けながら、ぷくぷく言いました。
吐き出された小さな泡は、光を受けてキラキラと輝いています。

結局ミミには、いくら考えてもミミのお母さんに愛があったのか、どのようなものだったのかはわかりませんでした。
それでも今はあまり悲しくはありません。
毎日金魚先生とはたくさんお喋りできましたし、女性から優しく育ててもらってとても幸せだったからです。
どんなに寒い夜でも女性の膝の上で丸くなって、手で背中を撫でてもらえば、まるで日向ぼっこをしているようにポカポカと暖かでした。

『僕にはわからないことが沢山あるけど、分かることもあるんだ。僕は先生も先生のお母さんも大好き。先輩猫たちも、友達も、僕のお母さんも。みんなに出来ないことは代わりにするし、寂しくなる事があっても、やっぱりいつだって味方でいたいと思うんだ。みんなを思うと勇気が湧いてくるんだよ。』
『そうか、それが君の愛なんだね。』
『うん。そう思う。』

ミミは金魚先生の隣で丸くなって、水面に浮かぶ小さな光る泡を見つめながらうとうととしました。

夜の陰は部屋からすっかり消え去って、今はもう暖かな朝の光で満ちています。
金魚先生は隣で眠るミミを眺め、またぷくぷくと金色に光る小さな泡を吐きました。

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