自己表現と自己表出は違うと是枝監督は言ったけど【映画おちをつけなんせ】
のん初監督映画「おちをつけなんせ」の撮影前。のんは是枝監督から「自己表現は自己表出は違う」という話をされます。表出は感情のたれ流し、だから表現に転換しないといけない。でも、作り手が感情を「垂れ流した」ものは本当に聞き手に届かないのでしょうか?そして、私が書くこの文章も、自己表出に過ぎないのか。考えてみました。
私は女優ののんが好きです。
私とのんは同い年。まっすぐな表現、彼女の言葉と姿を見てると、もうひとりの自分が異世界で頑張ってるような気持ちになれます。
昨日のよる、のんちゃんの初監督作品「おちをつけなんせ」を観ました。
詳しい感想はまた今度にして、実は映画自体より惹きつけられたのは、メイキング映像でした。その名も「のんたれ」
私は映画を見る前にのんたれEP1を観たのですが、その中で是枝監督がある話をします。
それは「自己表現と自己表出」について。
自分の感情を吐露したものは感情の「垂れ流し」だと、是枝監督は言います。垂れ流すと本人はすっきりするだけ。それは、表現じゃなくて、自己表出なんだと。
一方、自己表現は、受け取る人がいて初めて成立するもの。商業映画は、商品だから、多くに人にお金を払って観てもらわなければいけない。作り手が作りたいものを作るだけでは、商業映画として成り立たない、と。
是枝監督はのんが映画で表現したいこと、つまり「その土地に行ってそこで感じたものをそのまま出す」のを暗に批判しているように見えました。
もちろん商業映画としてヒットするためには、ビジネスとしての側面は無視できません。旬の俳優を起用したり、わかりやすさを重視したり。
不特定多数の人が安くない映画代を懐から出すような工夫をしなきゃいけないことは想像できます。
でも、私はそんな感情の原液みたいな作品があったら、ぜひ観たいと思います。そして、そう思うのは決して私一人だけじゃないんじゃないか、とも。
わたしたちはNoteで色んなことが書けます。楽しかったこと、辛かったこと、ムカついたこと、もやもやしたこと。そういう感情の生々しい起伏がある事自体、私はすごく大切なことだと思っていて。
それを表現に落とし込まなくても、そのまま表したり書いたりすることにもちゃんと意味があるはずです。お金を払ってそれを見たい人がいるかもしれない。
私がある場所で感じたある感情、それは世界で一つだけのもの。他の誰も、そのまま経験することはできません。
私もまだまだ表現の形を模索中ですが、常に自分自身が一番満足できるものを書いていきたい。そう思いました。
読んでくれてありがとう。Love!
Photo Art by Peter Fischli/David Weiss
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