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「見守る」がわからない

ぜんぶ月曜日のせい。
そうひとくくりにして片づけてしまいたい。
そうでもしないと、自分の中の嫌な部分がこれでもかとクローズアップされてしまって、顔を背けたくなってしまうから。

私には小学3年生の息子がいます。
不登校になって1年とすこし。
試行錯誤を経て、現在は「付き添い+五月雨登校」をしています。

これまで一緒に過ごしてきた中で、
・不登校ならではの「あるある」や、親としての心がまえ。
・息子に気分の波があること。
・私自身の気持ちの整え方。
そういったことはだいたい分かってきたし、この生活にももう慣れた。

そう思うことが増えてきたけど、些細なことに振り回されて感情的になってしまうこともまだまだあります。
今日がまさにそんな日でした。


授業に行く予定だった

息子は今日、出席できそうな授業があったのに、些細なことがきっかけでタイミングを逃してしまい、土壇場で「やっぱり今日は行かない」と気持ちが変わってしまいました。
その理由が私には理解しづらいものだったから、「行かない」と決めた息子に対して、私はものすごくイライラして、腹が立ってしまった。

不登校の子が授業に行ってみようと思うことは、それだけでエネルギーを使い消耗するものだ、と頭では分かっています。
それに、今日は月曜日で、楽しく過ごした週末からの切り替えがまだうまくいってなかったのかもしれません。

でも、行くと思っていて、私もそのつもりで気持ちを作っていたから、ほんの些細なこと(に思えること)で気持ちが変わったことに、私自身がついていけなかったのです。

奥底にある気持ち

不登校とはいえ、家では元気に機嫌よく過ごせるようになってきて、好きなゲームをしている息子の姿を見ていると、どうしても「もう行けるんじゃないか」って思ってしまいます。

ひとつ参加できる授業ができたら、あれも、これも、って思ってしまって、続けて参加できるようになってきたら、無意識に「継続しないといけない」って思ってしまう。

行けなかったら、「私がもっと声掛けを工夫できたんじゃないか」って思ってしまうし、「来てくれるかな」と楽しみに待ってくれていたであろう先生やクラスのお友達に、申し訳ないと思ってしまう。

今日も行けたかな、と楽しみにしている夫がどう思うだろうと気になってしまう。

私は予定の時間を空けてスタンバイしていたのに。
行けなかったらまた私が連絡して謝らないといけない。

行くって言ったのに。

ーーこういう対応のために、私は仕事を辞めたのに。

そういう思いから、不機嫌になって息子に気持ちをぶつけてしまいます。

結局のところ、いろんな思いの根底にはまだ、「不登校のせいで私が振り回される」という思いが消えていないんだな、ということに嫌でも気づかされてしまって、凹んでしまうのです。

「見守る」とは

よく、「不登校の子は頑張るエネルギーが切れてしまった状態だから、まずはおうちでゆっくり休んで、また頑張れるエネルギーを回復できるまで、おうちでは見守りましょう」と聞きます。
でも、見守るってどういうことか、いまだによくわからない。

親の考えを一方的に押し付けるのはダメだと分かるけど、だからといって何でも子どもの言うことを通していていいのかな。

今は「ちょっと背中を押してきっかけを作ってあげるところ」なのか、「行きたくない、やりたくない気持ちを受け止めてあげるところ」なのか、見極めるラインが分からない。

声掛けをして横についていれば宿題ができるというのも、無理にやらせていることになるのだろうか。

午後になって少し気持ちが落ち着いて冷静に考えられるようになったら、こんなこともあるよね~と切り替えられたけど、「行くと思ってたところからの行かない」に直面した時の、あの瞬間的にカッとなってしまうところをどうにかしたい。
結局は、そういう私の対応が、息子を追い詰めて縛ってしまっているような気がしているからーーー。

穏やかな気持ちを保ちつつ、息子を見守ること。
まだまだ先は長い、私の課題です。


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