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「誰かにとって必要な存在になる」という闘いから降りてみる

誰かにとって必要な存在になる、という闘いから降りてみる。負けるのではなく、棄権する。必要な存在になれないと諦めるのではなく、必要な存在になることを前向きに拒否する。

誰かにとって必要な存在になる、という闘いをしている限り、心休まる暇がない。なぜなら、「自分を大事にする」という視点が欠けているから。常に誰かが決めたルールの上で、オーディションの参加者のような緊張した気持ちで生きなければならないから。

一度、「誰かにとって必要な存在になる」という闘いから降りてみたら、何を目的に生きていけばいいか分からなくて混乱する。きっと、小さな頃から親の顔色を伺って生きてきた人は、ずっと「誰かにとって必要な存在になる」という闘いに身を置いてきたし、それが生きていくための術だった。それを正義だと思って、必要のないものを悪だと叩き、精神を安定させてきたのではないか。弱いものを叩くと同時に「自分の中にいる弱い自分」をいじめて、見せ物にして、何とかして「強い自分」「誰かにとって必要な存在」になれるように、恐怖政治をしてきたのではないか。自虐性は加虐性を孕んでいる。自己否定しているつもりで、実は同じような弱さを持つ他人を叩いているのではないか。他人のことも必要か否かで判断してきたのではないか。

こと人生において、やらなければいけないことなど何もない。自分がやらなければ誰かがやる。それだけの話。代わりなんていくらでもいる。あくまで「必要な存在」というのは、役割の話だから。サッカーでも野球でも、どんなに優秀な選手が怪我で欠場したとしても、代わりの選手が出場して、活躍したりもする。そして、その役割を補給するのは、そのチームのオーナーの仕事である。だから、「お前がいなきゃ困る」なんて言われても「知らんがな」という話。それはオーナーであるあなた自身で解決してください、ということ。

だから、その「誰かにとって必要な存在」は、その誰か自身でその役割をこなすか、誰か他の人やサービスを勝手に探せばいいのであって、その役割を押し付けられる筋合いなんかないのである。自分のことは自分でやるのが当たり前。サバンナのシマウマだって、森に住むエゾリスだって、みんなそうやって生きている。

その「誰かにとって必要な存在になる」という責務から早いとこ退任して、生きる目的なんか何もないまっさらな状態になればいい。それでも、お腹が減るから渋々働くし、だんだんと欲が湧いてくる。もっと美味しいものが食べたいとか、もっと好きなことをしたいとか。「〜したい」という気持ちが湧いてきたら、あとは、その小さな火種を消さないようにして、毎日を生きていく。誰かにとって必要な人間になる努力よりも、自分を大事にする努力をした方がいい。自分を大事にするにもコツがいる。寝ている猫を撫でるように、優しく接した方がいい。無理にロープを付けて引っ張っても自分との信頼関係は崩れるし、それに従ったら、それは心を壊して洗脳しているだけ。決して元には戻らない。

誰かにとって必要な存在になんてならなくてもいい。それはそっちで勝手にやってくれ。自分はそんなことのために生まれてきたわけじゃない。何のために生まれてきたかは分からないけど、少なくとも自分を犠牲にするためではないことはわかる。それ以外のために生きたい。

そんなことを考えると、急にやることがなくなった。正確にいうと、やるべきことがなくなった。別にそんなことやらなくても生きていける。だって、「誰かにとって必要な存在になる」なんてゲームはもうプレイしていないから。何回死んでも永遠と復活してしまうデスゲームみたいな、そんな不快なゲームはもうプレイしたくない。

後の人生は好きなことをしよう。そのために、生きよう。







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