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言葉のTPOと自己中心的心理。

こんにちは、こんばんは。あやです。

たまに、そうたまに。
時々ふと頭の上に何かが落ちてくるんです。
【ヒラメキ】でもなく、【目的】でもない。
色んな経験や体験、環境下の因子が入り組んだ
心理方程式のようなもの。
自分の頭の中の整理用に綴ろうかな。



感情とは”っていう倫理について
方程式のようなものがどすんっと。


感情論との対話ってやつです。
自分と心と他人との空想と現実の狭間での
異空間対話。

そもそもその時のその瞬間の 感情全て
物事が決まってくる。不甲斐なく。
言葉のTPOって必要不可欠なものではある。
生きていく手段として。調和の手段として。
社会人になればなるほど。
大人の階段を登れば登るほど。

ただしそれは受け取る側の感情の波によっては
意味が無くなるわけです。ええ、全く。

すきま風しか通らないような気持ちの
キャパライン状態でド正論をあれこれ
並べられても頭痛の抑揚にしかならないし、
感情の津波が襲ってくる5秒前に
なってしまうわけで。
それ以上言うと飲み込まれちゃうわってね。

かといって、エネルギッシュな状態で
両耳ダンボで待ちわびているタイミングで
海の波打ち際ラインギリギリのような物言いを
されるとこれまた物足りなかったりするわけで。
期待が外れたなんて言葉が浮かんでくる。

そう、結局は受け取る側の心理状態によっての
TPOスキルが必要になる現代社会。

その中で生き続けている私もそのうちの一人。

「今それ言う必要性があったのか」と思う
フレーズに怒り心頭する日もあれば、

「そんな事言うってことはきっと相手も
余裕が無いんだろうなきっと。」と
ちょっとばかし思える日もある訳で。 

ああ、何て自己中心的なんだろうと
自己嫌悪に無駄に陥る瞬間に、

そうだ、人の感情ほど自己中心的なものは
ないじゃないか!って回答が落ちてきた。


キングコングの西野さんの著書にもある
ワンフレーズが未だに頭から離れない。

おかげですっかり正解が溢れ出した世界が
こんなにも息苦しいことを知ります。

中途半端な立ち位置だと決定事項として
提示しろと言う瞬間もあれば、
決定事項として掲げれば
文句の嵐に見舞われる瞬間もある。

正解の定義を掲げれば掲げるほど、
喉の奥がつっかえるような、そんな息苦しさを
時間の狭間に感じてしまう。

その感覚に似ているんじゃないかって
思ったのです。

言葉の重みも輝き方もひとそれぞれで
言葉の伝達の難しさを噛み締めながら
今日もこうして生きていく。

そのうちの一人である私も
言葉のTPOと紡ぎ取るスキルがあったなら、
と想像してみる。

時と、場合と、時間によって心理状態の波は
違うわけで掴みどころがないのが人の心で。
そうそう服装のように決まったラインがない。

何だかコインゲームのように博打じみた所が
否めないなと。裏も表も抗するものだから。

人が人の心を汲み取り、紡ぎ取るスキルが
あったなら。

それもひとつの正解を生み出した世界であり、
生きにくい世界の1歩なのかなと。

言葉を視る角度の調節を1人1人が行うだけで
見える世界も何百度も変わっていって、
その視え方を受け止める感受のスキルが
今必要なものなんじゃないかなと。

正解の裏を返せば不正解。

発した言葉には責任を持ち、
受けた側では視る力を養いなさい。


私の教訓の最初の1ページに閉じよう。




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