我母故、諦める覚悟はござれども
ママは生きるのが下手だから
息子が保育園を休んで一週間。今、無性にスタバへ行きたくてたまらない。
熱は上がったり下がったりを繰り返し、病院へは二度行き、三度目は夜に在宅診療を呼ぶことになった。夜中に咳でむせ起きて、その度に泣いて暴れる。
週末、夫に世話を任せて久しぶりに出社したら、クーラーは効いてたのに人生初の熱中症になってしまった。どうやら寝不足が効いたらしい。
実母に伝えたら「頑張りすぎ!」と返ってきた。
頑張ったら昔は褒められたはずなのに、大人になると要領が悪い、生きるのが下手な人のように映ってしまうのはなぜだろうね。
愛とキャリアを天秤にかけまして
子どもを持つと時間的・経済的・精神的な自由を失う可能性をはらんでいる。子どもや母体の健康状態や性格、自治体や家族のサポートなど、かなり個人差はあるにしても大なり小なりリスクはある。
私の場合はそれらを覚悟できるくらい夫のことが好きだった。
ただ、逆に考えてみると、愛をもって手放せる程度のキャリアしかなかったとも言える。
例えばキングダムよろしく私が将軍で、一千人の部下の命を預かって来月は戦だぜ!魂燃やせよ野郎ども!という局面なら妊娠出産なんて選択しないだろう。そんなことしてる場合じゃない。
それに時々、本当に自分のことが大切な人は、妊娠出産なんてしないんじゃないか?なんて思ったりする。
実際私の周りの子どもを持たない・結婚しない選択をしている人はとにかく自由第一主義だ。自分以外の人間のために朝早起きしたり、着れる服が制限されたりなんて絶対に嫌だ、と。
人生を、時間を、お金を、世界で一番愛する自分のために使いたい。
それもまた健全だと思う。
だって私たち、そのためにここまで頑張ってきたんじゃない!
自分を後回しにするという生きやすさ
私も30歳を過ぎてから起業して、勤め先の倒産、離婚とそれなりにハードな道を歩んできた。
やっとこすっとこ積み上げてきた資産や経験が妊娠出産で止まってしまう、もしくは失う恐怖がゼロだったわけではない。
でも、私は正直なところ、もう自分のためだけに生きるのに飽きちゃったのよ。
大した趣味もなく、出不精で、友人も少ない。逆に夫や息子がいることで選択肢が増えてよかった〜と思っている。自分が食べたいメニューがわからなくても、息子のことはすんなり選べる。
生かされているのはきっと親の方なのだ。私のように自我の薄い人間にとっては、自分を後回しにする方がよっぽど生きやすい。
そう考えると私も愛だなんだと言っているけれど、結局は自分に自信がなかったのかもしれない。
何を差し置いても優先するほど自分に価値を見出せていない。時間も人生も家族に差し出すくらいでちょうどいいと思っているのは、他でもない私自身だから。
私の「生殺与奪の権」はすっかり小さな息子の手の中に収まってしまっている。
自分と向き合うのはそれなりにエネルギーを消費する。お肌の調子が悪い時ほど、鏡を見るのは苦痛ってもんでしょ?あれと一緒よね。
何を諦めるかが女の人生だとしても
さて、明日は保育園に行けるだろうか。いや、きっと無理だよね、と無駄な自問自答を繰り返しながら、日曜の夜は更けていく。
もしも私が3人いたら、何ひとつ諦めなくていいのかな。
誰にも遠慮せずにバリバリ仕事しながら、気兼ねなく妊娠出産して、後ろめたさを感じることなく子育てができたら。
何を選ぶかじゃなくて、何を諦めるかが女の人生だなんて、あまりにも酷じゃない?
でも我が身を犠牲にしないと妊娠出産はできないのだから、多分それが真実なのだ。もしくは代理出産で他人を犠牲にするか。
母性とは結局、自己犠牲の上にしか成り立たない。ただどうせ手放すから、と手を抜くのも違うと思うけど。
だから、自分や仕事を犠牲にすることに躊躇いがある、そこのあなた。不安があるのはきっとこれまで頑張ってきたからで、自分の価値をきちんと認められているからだよ。
母になる以上、諦める覚悟はできている。必要とあらば私の命だって諦められるよ。それでも今は精一杯足掻いて、この人生を自分のためにもしっかり使い切りたいな。
何の救いにもならないと思うけど、そんなことを思ったので書き残した次第です✍️