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「読みやすい」という褒め言葉。

ハロー皆様ごきげんよう。
 どうも皆様こんばんは。お元気でしたか。俺は先日少し発熱しまして、やはり季節の変わり目冬も本番が近づく頃には無理はいけないなぁも実感した次第であります。
 今回は「読みやすい」という感想について書かせていただこうかと思います。
さて、ただいまの時刻は2:12。この通り書き始めは2時ですが、一体何時に書き終わるか。
どうぞ温かくお見守りください。


 「読みやすい」という言葉がある。大抵、何かしらの文章を読んだときに出る感想の一つだ。
 どうやら世の中には、この「読みやすい」という言葉を、良い意味と捉える人間と悪い意味と捉える人間の二つがあるらしい。先ほどに申し上げた通り、今回はこれについて書きたい。
 俺の意見を表明したいのだというよりかは、「なんとなく考えていたら、いつの間にやらなんだか頭に占領してずっといるので、適当に言葉に書きながら整理しつつ、まとめて吐き出してしまいたい。」という気持ちだ。
正否などではなく、ただ俺の主観と気持ちをただ綴らせていただく。
ちなみにだが、俺の文章は「読みにくい」と自認している。改善していきたいものだ。この事を念頭に語る「読みやすさ」についてだが、どうぞお手柔らかに頼む。

 まずこれは前提だが、俺は「読みやすい」という言葉は褒め言葉である。と思っている。このnoteの表紙においたツイートの通り、それも至高の褒め言葉だと。
 いや、確かに褒めるときに「読みやすい」のただ一言だけであったら、そこしか褒めるところ無かったか…と思うかもしれないが、それ以上に多分俺は嬉しく思うだろう。
 なぜならば、俺の書いた文章を読んでくださった貴方へ、「読みにくい」という内容に関係しない部分での不快やストレスを与えることなく、ただ真っ直ぐに俺の言葉を届けることができたのだ。と感じるからだ。

 「読みやすい」ということは前提である。だから当然のことを褒められても、そこしか褒めるところが無かったのかと思う。
と、いう言葉を見た。俺がこの、「読みやすい」という言葉に対して考えることになったきっかけであり、元凶だ。

 まず、確かに「読みやすい」ということは、確かに、前提だかもしれない。が、しかし。「読みやすい」ということはひどく難しいのだということを、どうだろう。何かを書く皆さんであれば身に沁みてご存じではないだろうか。
 「読みやすい」、の他、似たものに「面白い」や「分かりやすい」がある。それぞれやはり、「面白い」ことを書くのは本当にとても難しいし、「分かりやすい」ものを書くことも本当に難しい。
 それと同様、当たり前の前提であったとしても、「読みやすい」を為せている文章は、その時点で「読みやすい」ということを褒められて然るべき。というか、褒める一つの良点にあげて良いだろう。と思うのだ。
前提である。当たり前のことだ。と言ったとて、その前提を達成することはひどく難しく、大変だ。

「毎日コツコツ夏休みの宿題をやっていれば最終日にこんなに焦ることはないのに、なぜコツコツできないの。」「日々努力を重ねればいつか実る。」「毎日の生活習慣を少し見直して、おやつを半分で良いから減らそう。」「毎日少しずつテスト勉強していたら一夜漬けなんて無謀をしなくて済むのに。」
どれもこれも、それが出来てたら苦労しねぇ!!というものはなんでも皆なんかしらはあるだろう。そう言ってくれ。
 当たり前でも達成が難しいことはこの世に有り余るくらいに溢れ返っている。俺の今の現状もそうだ。生活リズムを整えなければならないのに、なんだこのナリは。今もう2時40分。書き始めて30分が経って、お陰で3時も遠くない時間だ。

 逸れきってしまう前に話を戻そう。
俺は、「読みやすい」ということが、一番重要で大切だと思っているのだ。
先ほども書いた、
"なぜならば、俺の書いた文章を読んでくださった貴方へ、「読みにくい」という内容に関係しない部分での不快やストレスを与えることなく、ただ真っ直ぐに俺の言葉を届けることができたのだ。と感じるからだ。"
この部分。
 読みにくいというのは、それだけで不快だ。いや、確かにクソつまんねぇ文章を読んだ時とかも不快に感じられるが、それは内容を理解した上で面白くないのだ。と、伝わっている。ということだと思うのだ。
 読みにくければ、どんな作品であれど、どんな内容であれども伝わらないし、よっぽどの面白さがない限り、中々面白いとは思いづらいだろう。

 俺は、心の叫びとかを吐瀉のように吐き出して楽になりたいと思い、書き綴ることも多いが、俺の書いた文章がどこかの誰かの元へ行き、届き、どなかのボルト一本にでもなれたら嬉しいなぁと思いながら書くことが多い。
だから、なるべく姿見えぬ誰かへも伝わる文章が書けたらなぁと願っているのだ。
 これは、俺が自分の書く文章に対して「読みにくいな」と思っていることにも関係しているかもしれぬが、「読みやすい」というのは、それだけで素晴らしいことなのだと、心から思っている。
読みにくければ、どんな面白いストーリーであれど、素晴らしい内容であれど、読み手には伝わらない。

 この世には、内容が難しくとも、正確に理解ができずとも、面白い文章がある。なんとなく伝わる文章がある。それが、「読みやすい文章」なのだと思っている。
読みやすい文章は、それだけで面白さが伝わりやすいのだ、と。
 書いていて思ったが、もしかしたら俺は「読みやすい」という言葉を「ページをめくる手が止まらない」と似た位置で捉えているのかもしれない。

 「読みやすい」というのは、真っ直ぐに俺の書いた文章が(それが面白かったか、面白くなかったか。を問わず)伝わった。ということだと思うので、俺が文章を書いている気持ちの上、一番大切に思う部分の達成が為されているのだ。となり、至高の喜びになるのだろう。

以上。こんなところだろうか。「なるほどな~」と考えながら打っていたが、言語化して吐き出したらなんかすっきりした気がする。
 さて、ただいまの時刻は3:05。50分ほどで2400字ほど。前より進歩を感じる。少し嬉しいかもしれない。
なんだか眠気か瞼がそろそろ限界を迎えつつある。重い。誤字脱字や、内容を繰り返していないかの確認も兼ねて読み返したいが、見返す気力も湧かない。寝落ちしてしまう前に締めさせていただこう。歯磨きをせねばならぬのだ。あとお風呂も。
 最後まで読んでくださった皆様、お付き合いくださりどうもありがとう。
どうか皆さん良い夢を。おやすみなさい。


noteの表紙のツイ、実は途中で切れてしまっているから、最後にここに全文を置かせていただく。特に必要性は感じられないが、俺の気持ちの問題だ。ていやっ。

読みやすい文章は、それだけで面白さが伝わりやすいのだ。と俺は思う。

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緑雷ヶ丘
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