何事も慣れが必要らしい。
ハロー皆様ごきげんよう。
前回のnoteからどれくらいだろう。1ヶ月くらいだろうか。
あれから何度かnote書きたいな~と思ってはいたものの、何を書こうか迷っている内に中々筆を取り損ね10月に至った。ブログもやはり、書くには慣れとコツが必要そうだ。難しい。
にしたって、本当に一体何を書けば良いかね。日記を書けるほどに中身のある日々を送っていないし、書きたいことは大体Twitterに吐き出して満足している気がする。うん。大体ツイートして語って満足している。多分このせいだ。
FFへ。俺が過去にしたツイートでnoteで深掘りするのに良さそうな話題あったら教えてください。
これを書きながらハッと気が付いたが、テーマも何書くかも決めぬまま、気儘に筆を取っている理由などを綴るのもまた良いかもしれない。これは今までの俺はしなかった事柄であるから。
俺は前回のこのnoteで書いた通り、日記が続かない質である。
なぜ続かないのか。あの後色々と考えてみたのだが、純粋に日記帳のことなど影も形もすっかり忘れてしまう。…の他に、一瞬思い出したとて後回しにしている内に忘れてしまう、別パターンがあることに気が付いた。
ふと日記帳の存在を思い出したとして、書く労力を考えて、"後で時間があるとき"、"余裕があるときに書こう"。と後回しにしてしまう。これが長続きしない原因の1つではないか。
俺は面倒くさがりである。あと、変なところで完璧主義。読書感想文のノリで日記帳も1ページの内で8割ほどは最低でも埋めたくなってしまう。こういった簡易なブログ1つもそれなりの文量を書かなければ。という誰に強制されているでもない観念に囚われてしまう。
酷く不自由な生き方だなァと最近は客観視して考えられるようになってきたのでだいぶマシだが、未だちゃんとやらなければ。の念は根深い。
ここで漸く、じゃあ何故内容の見立てもなく俺が書き始めたのか。という本題だ。
なんとも簡単なことである。他者、特にそれなりに親しいFFのnoteを読んだからだ。1つの日付や文量に囚われぬ形に、1度に書くならばそれなりの文量が必要である。と無意識に自分を縛ってきた固い価値観をぶち壊された。
そうか、許されるのか。と、鎖が砕けるように思い至った。もう少し自分を許せる気がした。
そんなことで?と思われるかもしれないが、俺は確かに救われた。俺にとっては意外と大きな衝撃だった。そんな、人からすれば些細に思われるかもしれない出来事1つだが、今こうして筆を取れている。ありがとう。完璧の、その少し横にもまた道があるとこれを書きながらまた実感をできた気がする。
いやしかし、力を抜くのにも慣れが必要そうだ。力を抜くという道を知れた。そのことも成長の1つとさせていただきたい。
皆様も必要な余力を残したほどほどを。共に無理なく生きましょう。
それでは皆様良き日々を。