「誰か俺の存在を肯定してくれ」と願うとき、その誰かとは自分自身なのではないだろうか。
ハロー皆さんこんばんは。
お越しくださりありがとう。本日は、自己肯定について。
つらつらと取り留めもないことを綴ってまいります。どうぞお手隙であらばお付き合いくださいな。
三連休も終盤ですね。3日間、皆さんはどう過ごされたのかなぁ。
俺は、ずっと家に籠って布団にくるまながらゴロゴロとしていました。日光不足が心配なので明日は陽をたっぷりと浴びて帳尻合わせを試みようかと思います。
ずっとゴロゴロしているのはとても楽しいし、癒されているのかもしれないけれど、それでも何もできなかった。為せなかった。ただ無為に時間を浪費しただけだ…。という自己嫌悪に襲われるのもまた事実。
かといって、じゃあ朝から、もしくは昼間から意欲的に威勢よく何かを為すため動けたかと考えれど、うーん。だめですね。時間を巻き戻せたとて、有意義に過ごせただろう自信もビジョンもさっぱりだ。何とも、ままならない。
休養と怠けは、本当によく似ていると思う。
本人にとっては必要な休養であっても、他者から見れば「いやいやそれは怠けだろう」と映るかもしれないし、本人にとっては怠けに感じても、他者から見れば「それは必要な休養に他ならないだろう」と映るかもしれない。
時折、布団にくるまりながら希う。
「誰か俺のことを肯定してくれ」と。
誰でも良い。誰か、誰か誰か俺のことを肯定してほしい。そのままの俺を。ありのままの俺を。
もちろん、叶うことのない願いです。分かっています。分かっていますとも。理解しています。ありのままの自分を愛してくれる他人なんていやしません。いくら広いネットの海や人口70億の星といえども土台、無理な願いです。
だって何故なら、人は自分を表現しなければ人に自分を伝えられないのですから。
なんとか表現した自分を、愛してくれる人はきっともしかしたらいるでしょう。いてほしい、と、それは純粋に願います。それくらいは夢見ても許されるでしょう。
表現しなければ、伝わらない。それは真実です。表現したとて全てが伝わるわけではないけれど、それはきっと抗えぬ真実です。
「ありのままの自分を肯定してほしい。」
これはきっと、土台無理な願いでしょう。他者の見つめている、みているこちらがありのままの自分であることは、あるのでしょうか。その人のフィルターを通した俺ではないと、言いきれるのでしょうか。
きっと、ありのままの、そのままに、それごと愛するという宣言はできるでしょう。
その全貌を捉えた肯定は、全貌を捉えられないという点で不可能だとしても、見えぬ全貌ごと愛するということはきっと可能でしょう。
だから、俺の求める、芯からの俺への肯定は、きっと俺自身にしかできないのだ。と、そういうこと。それだけのことなのだと思います。
「誰か、ありのままの俺を、ありのままごと、そのままの俺を肯定してくれ」と。
きっと、俺の求める肯定は、俺自身にしかできないものなのではないか。
他者も知らぬ、…否。"他者へ知らせることの叶わぬ"ありのままの俺。
それを肯定することは、俺にしかできないのではないか。
ずっと、ぐるぐるぐると思考が廻っていた折、ふと何故、他者に自己の肯定を拘るのか。考えてみれば不自然な苦悩の点に、気がつきました。だって、自己を真に肯定できるのは自分しかいないではないか。
苦しい。酷く苦しい。
ああ、肯定されたい。ありのままの俺を、何も生み出せず、布団の中で踞って泣くしかない俺を。飾ることすらできていない俺を、存在を肯定されたい。
しかし。なぁ、しかし、その求める肯定は、本当は他者からのみ求めているのか。
自分から自分への肯定ではいけないのか。ならないのか。
そもそも真に求めているのは、他者からの肯定ではなく、自分から肯定なのではないか。と。
拘るのは、他者から俺への肯定ではなく、誰か…俺が、俺を肯定することでないか。俺が肯定しなければならないのではないか。俺自身の肯定を、求めているのではないか。
いつのまにか、求めていた願望が、自分の身の内から漏れ出して外へ侵食していたことに、そこで初めて思い至りました。
どうだろう。他者に依存することなく、肯定するその主導が自分自身に委ねられているというのは、もしかしたら、もしかしたらほんの少しだけ前向きになれる、良いことなのではないだろうか。
他者に左右されることなく、自己の肯定を満たせるのであれば、それはきっと幸福に違いないのではないか。
自分で自分を、心から。心の底から肯定できたら、とても素敵だと思う。なによりの、自己の肯定、自己の保証に他ならないのではないかな。と、思う。そして、そう在れたら幸せだな。とも思う。そう、在りたい。
自己が、自己のその出来良いか悪いかは別として、それでも自分は、自分だけだとしても自分は、己を肯定できるようにいたい。多分それは、難しいこと限りないだろう。今の俺は肯定することおろか、自分を愛することもできていないから、なおのこと。
けれども、今すぐはもちろん、数年先でもできていないかもしれないけれど、それでも、そう在れるようにいたい。生きていたい。そうであってほしいと願う。
拝啓、お読みくださってる皆さん。
ごめんね、話があちらこちらへ往きつつ、繰り返しの多いような読みづらい文章だ。何度も何度も何回も、ずっと同じことを繰り返して話していた気がする。読み返していないけれど、多分きっとそうだろう。
皆さん、皆さん。いかがお過ごしでしょう。
皆さんは、どうでしょう。いかがですか、自分を自分で、肯定できていますか。
できている人がいたら、すごいなぁ…。どうしたら、なれますかねぇ。
きっと、きっとあなたは強いでしょう。芯があるってことには違いはないでしょう。きっと、嵐の中であっても大切なものを尊厳を、守れる人でしょう。大切を、抱えて生きていけるでしょう。多少は俺の期待や希望も混じってしまっているかもしれませんが、それでもきっと、あなたが核のような芯を心に抱けているのは違いないと思います。いえ、すみません。また、一種の祈りも混ぜてしまったかもしれません。失敬。
いくら強かろうとも、それでも傷は負うでしょう。強さゆえに苦しみや悲しみに袖を濡らす日もあるでしょう。俺はそれを肯定することも何をすることもできないけれど、少しでもあなたへ降る雨が和らぐことを願います。
ああ、俺にも、なれますかねぇ強い人。どうだろう。どうでしょう。中々、未だ先は遠そうです。
同志よ。俺の同志は、いますか。どうでしょう。なぁ、同志。強く生きましょう。強く生きような。他者になんか、自己の肯定だなんて、自身を左右させないでさ、自分で、自己の肯定って一等大事な、大切な部分を守ってさ、舵切りしてさ、なんとかひいこらひいこら言いながらもさ、生きていこうな。生きていこう。
世界はきっと明るいです。明るいはずです。そう信じてる。だって分厚いカーテンの隙間から気まぐれに射し込んだ陽は眩かったから。きっと世界は思わず目が眩むほどに明るく鮮やかなはずです。
拝啓皆さん。生きている皆さん。
どうか皆さまに良き日々が、幸せが。
拙い文章を読んでくれてありがとう。どうか優しいあなたへ、目が細まるくらいの眩い幸福が。溢れんばかりの幸福がありますように。どうぞ良き1日を。