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Movie 8 思春期は命がけだよおっかさん/『Everything Everywhere All At Once』
『Everything Everywhere All At Once (エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス)』は、映画の予告編を見たときから「これは絶対観る」と決めていた映画だったが、封切られてもなかなか行くことができず、アカデミー賞の後に、ようやく観に行くことができた。
アカデミー賞最多7冠ということで、否が応でも期待が高まったせいか、実際に観た直後の感想はちょっと微妙なものだった。
(私の映画感想文はネタバレがありますので、これ以上知りたくない!という方は、ここまでで。そして今回は考察多めの長文なのでご注意を!昼休みには読めません、たぶん)。
最初の感想(WEB版)
さて、観てすぐは、自分のWEBにこんな風に書いている。
『なんでも・どこでも・すべてが一気にひとつに』という意味の映画でしたが、まさしくそんな感じでした。想像していたより、カンフーに魅力はなかったですが、A24のエグさとカオスが全編に渡りざらついた余韻を残しました。
こういう映画がアカデミー賞を取る時代なんだとある意味感慨深い映画です。普遍的なテーマを、今と言う時代の壺に入れて、バーテンダーに振ってもらったみたいな作品。子供がメチャクチャに振ったんじゃだめですよ、飽くまで熟練のバーテンダーです。
映像と物語の構成がカオスであり、フェチが強すぎるので、好む人を選ぶと思いますし、サブリミナル的な映像が多いので、ひょっとすると具合の悪くなる人も出るかもしれません。
テーマは「夫婦のすれ違い」「父と娘の確執」「母と娘の葛藤」といった「家族とは」ですが、マルチバースにおけるパラレルな自分を統合することで多様なものを受容し、確たる自分自身をもつことで寛容な愛に目覚めるという、若干手垢のついたもの。シンプルなテーマを映像の工夫により帰納法的に解釈していき、哲学の味付けをしてみた、といったところかと思います。
正直、登場人物の嗜好性やキャスティングなど、あきらかにポリコレが過ぎていて、てんこ盛りであることは否めないし、それらの忖度による7冠だと言われていると聞けばそうかなぁとも思います。一面では統合失調症の症例を見ているようでもあります。
さまざまな解釈や見方ができるのが魅力だとは思いますが、お腹いっぱいになってしまうのも否定できません。好き嫌いが別れる映画であることは間違いなさそうです。
私はこの映画、嫌いではなかったですしどちらかと言えば好きでしたが、期待したほどの爽快感はなかったです。いちばん期待していたカンフーがイマイチでした。西欧人が考えるカンフーっぽい感じ。
そして途中から『ジョジョの奇妙な冒険』第七部のバレンタイン大統領のスタンド能力「D4C(Dirty deeds done dirt cheap:いともたやすく行われるえげつない行為)」を思い出しちゃって、もう駄目でした。そのまんまだもん。D4Cをアニメ化の前に映像で見られたのは良かったかも。そのうえ”特技をインストール”というところが『マトリックス』風でもあり、既視感がありすぎたのが残念でした。決して新鮮とは言い難い映画です。
ただ、母と娘のすれ違いと葛藤、分かり合えなさをここまで壮大に描いたのはすごい。確かに母と娘というテーマもこのところ頻出ですが、それをここまで命がけの仕事にしたところが、この映画の最大の功績かもしれないと思ったりします。我が家も時々エブエブってます。
思春期は命がけだよおっかさん。
改めてnoteに感想を書くかどうか迷っている、そこまでの熱はないかも・・・とWEBでは書いたのだったが、その後、じわじわとこの映画の面白さを実感する機会があったのでnoteにも感想を書いておくことにした。
(この先、よりネタバレするのでここまでで離脱もありです。笑)
改めて感想(note版)
主演女優賞を獲ったミシェル・ヨーの変幻自在な魅力
ミシェル・ヨーは香港映画でアクション女優として有名な女優さんだが、60歳という年齢を感じさせない多才なアクションもさることながら、各マルチバースでのパラレルな自分が全部、自分でありながらちょっとずつ違う、その微妙な変化を多彩に表現していることに驚いた。
いつだって「間違い探しの間違いのほう」だったエヴリン。映画冒頭では自分の人生を後悔していた主人公エヴリンが、ラストに近づくにつれて、自分を肯定し、自分や他人を赦し、愛を知っていく。刻々と変化していくエヴリンの表情が見事。
『グーニーズ』で子役を演じたキー・ホイ・クァン
エヴリンの夫ウェイモンド役で、この人がこの映画の要。
『グーニーズ』以来俳優さんとしては不遇だったようだが、当時のイメージそのままに見えて、人生の深みやいい味を出す俳優さんだった。
どこかでこの役はジャッキー・チェンのはずだったと読んだが、いやー、ジャッキーじゃないな~と思った。ジャッキーとミシェル・ヨーの組み合わせは確かに魅力的だけど、この役はキー・ホイ・クァンが良かった。そもそもジャッキーは強くて当たり前。線が細く頼りなさげに見えて土壇場に強い夫役に、ぴったりだった。
助演女優賞ジェイミー・リー・カーティス
国税局の監査官を演じるジェイミー・リー・カーティス。いわゆるお役所の「嫌な・怖い・うるさいオバサン」を体現しているが、別の世界ではエブリンの恋人でもあった。
現実のジェイミー・リー・カーティスは娘さんがトランスジェンダーだということで、そんなところからもこの映画がポリコレとコンプラが・・・と言われてしまうところもあったのかなと思う。映画の中では重要な役どころ。
娘ジョイ役のステファニー・スーもはまり役
LGBTのジョイ。彼女がいる。中国(おそらく香港)から来た祖父(ゴンゴン)に挨拶する場面でたどたどしい普通語で挨拶し、流暢な広東語じゃないことに祖父ががっかりする場面があるが、これも反抗期の娘らしくわざとっぽくて良かったし、分かり合えない関係には言葉が絡んでいることを匂わせて絶妙なシーンだった。
大雑把なあらすじ
明らかに病的に片づけられず気が散りやすいエヴリンが、経営していたランドリーに監査が入り窮地に陥ったことにより追い詰められ、マルチタスクに対処できずに溺れそうになっているところから映画が始まる。夫と娘、父親にきちんと向き合うことができず、娘との仲は険悪。夫はエヴリンと離婚するしかないと思い詰めているが、話を切り出すこともままならない。
アメリカに住んでいる香港からの移民、エヴリン夫妻の会話は広東語と米語が絶妙に絡み合っていて(ルー大柴的なチャンポンもあるけど基本、文章が交互に出てくる感じ)、映画冒頭、怒涛の如く続く会話にまず度肝を抜かれる。そしてランドリーの様子が描写されるが、あらゆる伏線が組み込まれているので冒頭部分は絶対に気を逸らしてはいけない。笑
春節のパーティー!父親の同居!税金の申告!の同時進行に頭がパンクしそうな時に、他のマルチバースのひとつからきた夫がエヴリンに「全宇宙の命運」を託す。そこから思いもかけない彼女の冒険が始まる。
マルチバースに飛ぶためには、「想像もできないほどへんなこと」をする必要がある。それがジャンプの条件なのだ。そのせいで登場人物たちは奇妙奇天烈な行動を取りまくる。酔ってしまいそうなほど現実と別の現実が絡み合う画面には、時にコミカルに、時に深刻に、濃いめのグロとフェチが暴発しまくるが、そこは気にせず観る。
エヴリンは父親との確執を娘との間にも持ち込んでいて、それに気づいていない。かつて支配的に振舞いエヴリンを突き放した父親が高齢となって力を失い、エヴリンに頼ってくるが、それを受け入れがたい一方で、エヴリンも娘ジョイに対して強権的に振舞い、自分の価値観を押し付けている。そのせいで絶え間ない諍いが生まれ、関係がうまくいかない。
その隣で、夫であり婿であり父親であるウェイモンドが、必死になって「怒らないで、優しくして」と訴える。
夫の献身すら反発を感じて受け入れがたかったエヴリンが、この冒険を通してあらゆる人生の「可能性」を体験することで、様々な価値観を受け入れ、敵をも愛し、「柔よく剛を制す」ことを知る。愛こそが最大の武器で、癒すことこそ最も強いということを知っていき、娘との和解にこぎつけるのだ。エヴリンの世界は崩壊せず、継続していく。
東洋と西洋のマルチバース
東洋には昔から「マルチバース」的な世界観が根付いている。古い仏典の華厳経には帝釈天(ヒンドゥー教ではインドラ)の宮殿にかけられた「インドラの綱」というものがあり、これは網の結び目に宝珠が編み込まれ、宝珠は他のすべての宝珠をその表面に映し込んでいるとされている。まさに無限の宇宙。この作品では、主人公を東洋人にしたことで「今流行りのSF」というものから突き抜けた、より深い雰囲気を出すことに成功しているのだと思う。
そこにカンフー。マルチバースのひとつでエヴリンが生涯をかけて会得した武術の技を、瞬時に使えるようになった母と娘はカンフーで戦う。また母と娘が石の惑星にいたときの会話は禅的。・・・ではあるものの、どこか「西洋人の考える東洋的なもの」をいっきに押し込めたような感じはあった。
ドーナツの穴
娘ジョイはマルチバースの中で「ジョブ・トゥパキ」という「すべてを無に帰す」存在として姿を変えながら頻繁に母の前に現れるのだが、彼女がご神体として据えたのが穴の開いたベーグル。
言わずと知れたブラックホールのメタファーなのだが、この世には『ドーナツの穴論争』というものも存在する。
穴だけを残してドーナツを食べることができるか?果たして穴は「ある」のか「ない」のか。「ある」なら「ある」ことをどうやって証明するのかと言う哲学的命題がある。(ちなみにドーナツ型を利用した経済学や教育学の理論モデルなどもあり、ドーナツ型は奥が深い)。
この映画では、ベーグルの穴に吸い込まれようとする娘を、母が救う。一緒に穴に入っていくのだが、その時その「穴」は新しい世界の「ゲート(門)」になる。
母と子の、呪いと闘う話
母と娘は同一のものではいられない。
けれども、同じ存在であってほしいと望む。母は母の都合で。娘は娘の都合で。それはとてもわがままな願いで、相手のことを受け入れるのではなく相手を自分と同質のものにしたい欲望なのだ。近い存在だけに、違いが受け入れがたく、生理的嫌悪や憎悪に発展しがちだ。
なぜ理解してくれないの
これに尽きる。
最初からわかりあえないとわかっている、期待のない他人には、そうまで固執したり絶望したりしない。
特に同性の親子に顕著ではあるが、これは必ずしも母と娘に限らない。
親と子は、常日頃、鏡に向き合うかのような葛藤を強いられている。そして親も子も、相手との同一化と異質化の間で揺れ動く。
自分と同じ轍を踏んで欲しくない。
親が医者なのだからお前も医者に。
親と同じようには絶対なりたくない。
似ているところからは顔を背けたい。
どうしてあなたはそんなに気が弱いの。
お前は拾って来たんだよ。
私がしてきたことなんだからあなたもそうしなさい。
多種多様なケースがあるが、特に親から子への言葉はまるで「呪い」だ。
親はそのまた親からの呪いに束縛されている。
親は絶望し子を支配し従わせようとして、子は絶望し自分の存在を消したい、去りたい、逃げたいと願う。
もっと信じてほしい。
もっと愛してほしい。
もっと笑ってほしい。
そんなシンプルな願いが見えなくなるほどの呪い。
エブエブは、その呪い(ジョブ・トゥパキ)と戦う話なのだ。
父親の役割と中年の危機
子供が思春期を迎えるとき、母親は更年期を迎える年ごろになる。
子の数や初産の年齢でずれることはあるが、子の思春期と親の更年期はちょうどホルモンのバランスが対極にある。ゆらぎの時代、狭間の時代だ。
命がけで戦うほか、ないことがある。
それでも互いにぶつかり合えるならいい。
どちらかがどちらかの手を摑まえることができなければ、同じ場所で生きていても、それきり互いの世界が相容れない違う世界になってしまうことがある。マルチバースなんかじゃなくても、手の届かない場所に行ってしまい、歩み寄りはどんどん困難になる。下手をすれば現実にどちらかを失うことだってあるのだ。
エブエブでは、離婚を言い出すこともできず、娘と母の煉獄の試練から目を背けようとオロオロしていた気の弱そうな夫が、ちがう世界から来た夫によって豹変し、戦いを促し、最後には「もう戦う必要はない、優しくなろう」とエブリンの覚醒を促す。肉体的にへその緒でつながっていた経験のあるガチンコ勝負の母と子に対し、夫と父親の役割もまた、重大なのだ。
何もできないと傍観しているだけでは母と子を救うことなどできない。
夫とは父とは、時にはズタボロの内的な戦いの中にいる母と子を外界から守りながら、常に間接的なメンターとしてそこにいる存在なのだ。
破滅的な危機をもたらす娘の思春期にだって、夫や父なりの関り方ができるはずだ、とエブエブは教えてくれる。その勇敢かつ献身的な姿に、エブリンは惚れ直し、中年の危機をも乗り越えるのだから。
万華鏡のような新しい世界
時間がたつほど、味わい深いエブエブの世界。
いっしょに観に行った友人は「自分と母との関係に重ねた」といい、私は「母親目線で見た」といってその違いを大いに楽しんだ。
そして日々、息子との関係の中で、自分がいかに「愛」を忘れているかを実感する。愛という名のもとの支配は子を「ジョブ・トゥパキ(呪われたもの)」にして「ベーグル(空虚)」を生成する。
愛は寛容、愛は赦し。
東洋的宗教観の様相はしているが、しっかり西欧的宗教観が入っていた。
あるいは、その融合だったのかもしれない。それならすごく新しい。
みなさんはこの映画を、どこに自分を重ねて観るだろうか。
エブエブは、それによって見える世界が万華鏡のように変化する面白さがある映画だと思う。
最後に余談
製作会社のA24。私は以前『ミッドサマー』を途中まで観てその後がどうしても観られなくなった経験があり、A24のクセスゴがちょっとトラウマだったのだが、今回は大丈夫だった。
やっぱりなにかザラっとしたものが残るのではあるが。
A24の映画は、楽しそうな仮面を被っている映画が多い。『エクス・マキナ』は良かったけど、やっぱり胸がザワザワした。
人によっては嫌悪感と紙一重というか。ゾッとするというよりはガラスに爪を当てたみたいな「嫌な感じ」が残る。病的なものを持っているとそこを刺激される。A24の映画は、私はどうも鋼メンタルの時以外観られないようだ。