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Movie 6 不屈/『RRR』

 タイに住んでいた頃、アパートメントのオーナーがインドの人だった。

 タイには、インド系や中華系のお金持ちが多いということは『駐妻記』にも書いたが、日本人が多く住む地域のアパートメントのオーナーも、インド系か中華系が多かった。

 エレベーターの中で一緒になると、ファランといわれる西洋人とは必ず挨拶をしあうが、オーナーは違っていた。

 私たち家族は最初の年、たまたまオーナー家族の住む階の近くの住人となったため、年に何度もなかったが、年輩のオーナー夫妻とエレベーターに乗り合わせるということがあった。

 無言。
 目力。
 圧。

 普段からサリーやクルタを身に着けた彼らは別に普通にそこにいるだけなのに、ものすごい存在感を放っていた。
 そして、圧倒的な眼力で私たちを見つめた。
 
 言葉はない。 
 特に感情もない。

 私たちが単なる「店子」だということもあったのだろうが、エレベーター内の空気が圧縮されたような眼の力は今でも忘れられない。

 当時オーナーの家族が、自身が所有のアパートに住むということも珍しくなっていたから、そのアパートは比較的良心的なアパートとされていた(自分たちが住んでいるアパートを悪いようにはしないから)。実際、クリスマスパーティーを開いてくれたときは住民だけでなくアパートで働く人々もみんな招待されていて、親切で優しかった印象がある。

 たまに美人の娘さんが現れたが、彼女は社交的なうえ服装も非常に現代的で、私たちの挨拶にも愛想よく「hello」と答えていた。世代的なものも大いにあったのだろう。オーナーご夫妻はだいぶ年輩でもあったからほかにも様々な理由があったのかもしれない。

 アパートのロビーには、当時まだご存命だったラマ9世プミポン元国王陛下夫妻の肖像画と、敬愛する聖人と思しきインドの男性の肖像画が掲げられていた。

 さて週末、『RRR』を見た。

 昨年から話題のインド映画である。
 
 インド映画でインターバルを挟んで3時間と聞いていたから、途中で飽きちゃうかも、などと思っていたが、まさか!
 そんなことはあり得なかった。

 私にとっては、『燃えよドラゴン』『北斗の拳』を観たとき以来の衝撃、だった。

 ツッコミどころは満載だ。途中、何度かマスクの中でぽかーんと口を開けたし、思わず「んなアホな」と笑ってしまうようなところばかりなのだが、それにしたって!
 この衝撃をどう言い表そうかと思う。

 最初のシーンはインドの森の奥に暮らす一族の村。
 人間の有機的なエネルギーがあふれている。人間の、というより、森の生命全てを含む、地球の凄まじいエナジーに満ちた村だ。

 そこへ、鹿狩りついでの大英帝国のインド総督夫妻が現れる。
 森の人々は彼らが気まぐれな暴虐を満足させた後は、すぐに去っていくと思い耐えていたのだが、ひとりの少女が連れ去られ事情が変わる。
 
 このときの「暴虐」が凄まじいのだ。
 娘を返して欲しいと追いすがり懇願する母親を、虫けらのように排除しようと銃を向けた部下に総督が言い放つ。

 「英国で英国の職人が作り、はるばる海を越えて運ばれてきた弾を無駄にするな」。

 それを聞いた部下は母親を銃で撃つのを止め、その辺にあった木で殴る。

 英国が「インド人の命は銃弾1発の価値もない」という扱いをする、象徴的なシーンだ。

 『RRRアールアールアール』とは、「Rise(蜂起)」「Roar(咆哮)」「Revolt(反乱)」という意味だ。 1920年の、英国植民地時代を舞台にしている。

 インドの独立は1947年。
 念のため言うと、第二次世界大戦の後である。つい最近だ。

 私たちは、インドの独立と言うと、マハトマ・ガンジーが「非暴力・不服従」という抵抗運動を広めて、それに屈したイギリスがインドの独立を認めた「無血」の独立だという認識をどこかに持っているような気がする。

 私を含め、それまでインドでどれほどの蜂起と抵抗がなされていたかということを、日本人はあまり知らなかったんじゃないか、と思う。

 大英帝国が宗主国としてインドに敷いた圧政は、どうひいき目にみても「極悪非道」に思える。少なくとも『RRR』はそこを包み隠さずに描いている。同じ有色といわれる民として強い心理的反発をどうしても感じてしまうが、これは英国人が観たらどんな気持ちになるのだろう、とも思った。
 
 日本人も、宗主国然として他の国にしてきたことがある。それを目の前で見せられて、憎むべき敵として描かれた時に平静でいられるものだろうか。過去の事だから、目を背けてはならない事実だからと思いながらも、恥ずかしい気持ちになるのではないかと思う。

 宗主国側にも心優しい女性がいたり、インド映画には欠かせない歌と踊りのエンターテインメントがあり、「ダンス対決」など娯楽作品として明るく描かれてはいるが、深いルサンチマンは隠しようがないような気がした。

 大英帝国は、1世紀近くに渡る長い時間をかけて、インドを植民地化した。大航海時代の、「東インド会社」のころはオランダ、フランスなどと覇権を争う国のひとつだったが、ムガル帝国が衰退するのに合わせてイギリスが台頭、ムガル帝国の滅亡とともにイギリスが直接支配をするに至る。

 ちなみに「ムガル帝国」もモンゴル人によるイスラム支配だった。多神教多民族の非イスラムの多かったインドに必ずしも馴染んでいたわけではない。 
 
 ともかく、イギリスの邪知暴虐の圧政に、インドの人が抵抗しないわけがなかった。しかし圧倒的な武力と、宗教や民族を分断し反目し合わせるなど大英帝国の気長で狡猾ともいえる植民地化政策によって煮え湯を飲まされてきたのだ。

 この映画の主人公は二人。
 ふたりは独立運動の英雄としてしられる実在の人物だという。

 妹を取り戻そうと、赤穂浪士の大石内蔵助のように身を隠しながら虎視眈々と総督邸を狙う、ビーム。インドの森で一族を守るために鍛え上げられた肉体は筋骨隆々、人情味と野性味にあふれる男だ。虎にだってひるまない。

 英国に村を襲われ両親と弟を殺されたことで蜂起を誓い、警察官として総督府に潜り込み、手段を選ばず出世して、こちらも虎視眈々と機が熟すのを待つ男、ラーマ。インド神話の絶対的英雄の名前を持ち、恋人の名はシータ。知性と教養に溢れ、最後のシーンはまさに偉大な戦士ラーマの姿だ。

 やはりインドといえば虎。虎といえばインド。

 敵味方同士のふたりの「虎」は期せずして出会い、親交を深め、友情をはぐくんでいく。

 物語としては「神話ラーマーヤナ」をベースにしたドラマが完璧だから、あえて言葉を重ねる必要もない。
 なんと脚本は監督の実のお父さんだとか。
 スペクタクルな映像と圧倒的な身体能力を見せつけるヒーロー二人に観客の目は釘付けである。

 私が何よりも感じ入ったのは、すさまじい奪還作戦を実行したものの(観ていて度肝を抜かれた名シーン)、妹を取り返すことができずにラーマによってつかまり、公開鞭打ち刑にさせられたときのビームだ。

 どんなにひどい拷問にさらされようと、決して膝を屈しないビーム。
 理不尽に捻じ曲げようとする不条理な力に対して、不屈の精神を見せつける。
 その姿に、周りを取り囲んだ人々の表情がどんどん変わっていく。

 そうだ、これが我々だ、我々インドの魂だ。

 みたいな顔になっていく瞬間。
 刻々と変化する群衆の表情が、素晴らしい。
 
 インドのあの密集した群衆。おびただしい人の数。
 イギリスはよくもまあ、あれだけの人々を統治しようなんて思えたものだ、と思うが、そこには「技術力」「武力」「先進国」「優越感」「差別と偏見」などの思い上がりがあったのだろうし、多民族国家でいまでも20以上の公用語があるインドという国の複雑さがあったのだろう。

 実際この映画は「テルグ語」で作られた映画で、インドで公開された時はヒンデイー語を始めインドの他の言語に吹き替えされたバージョンが同時公開されたそうだ。ひと筋縄ではいかない国なのは間違いない。

 ふと、幕末日本が列強の支配下に置かれる事態にならなかったのはなぜだろうと思った。

 大航海時代後の植民地時代、西欧列強の植民地支配を受けなかったアジアの国はタイと日本のふたつだけだ。

 地理的に遠かったことと、矜持のためにハラキリなどしてしまうほどひとりひとりのモチベーションが高く刀という殺傷力の高い武器を常に身に着けたサムライという軍人のいる国に、多少なりとも恐れを抱いたのだろうか。こんな不屈の魂を持つインドの人でさえ支配下に置かれてしまったことを思えば、小さな辺境の島国であるサムライの国はいつどうなってもおかしくなかったのでは……

 もちろん必死に国の行く末を考えた人々がいたからだと思うが、いまとなっては「運が良かった」としか言えないような気もするし、その後のことは残念なことも多かった。

 それにしても、私は「不屈」にめっぽう弱いということを、この映画によって思い知った。

 『燃えよドラゴン』『北斗の拳』もそういう話だ。
 大好きな『モンテクリスト伯』もそうだし、『ブラックジャック』だってそうだ。
 広義にとらえれば『仮面ライダー』も。
(どうでもいいことだが、ラーマのお父さんは藤岡弘。さんに似ていた)。
 
 不屈のヒーローと物語にたまらない魅力を感じる。

 さきほどビームを「大石内蔵助」にたとえたが、何となくこの映画には『七人の侍』味も感じる。インターバルを挟んでいるからかもしれない。

 耐えてなお、やると決めたときにはやるべきことをやる。

 映画の中で復讐は痛快に終わる。
 歌い踊って、観客も拍手喝采だ。
 映画が終わった後も激しいダンスの余韻が冷めやらない。
 エンターテインメントだからそれはそれでいいと思う。

 でも現実の世界でも、同じようなことは常に起きている。
 私たちは歴史に学びながら考え直さなければいけない局面に来ているように思う。

 映画の最後に、村に凱旋したラーマがビームに問いかける。
「ことが成った後の今、何が欲しいか」と。

 ビームは答える。
「読み書きを」。

 どきりとするラストだった。

 エンドロールで出てきたインドの偉人たちの肖像を、私はだれひとり知らなかった。独立の父と呼ばれるガンジーは出てこなかった。私たちはいままであまりにも西洋の物差しで物事を観てきたのかもしれない、と思った。

 この映画を観て英国人はどう思うのだろう、などといらぬ心配をしていたが、映画は欧米でも大ヒットとなり、世界中で受け入れられている。

 2023年、人口が世界1位になると予測されるインド。
 これからの世界は、静かに塗り替えられていくのかもしれない。

 追記:サムネの写真は、「ラーマーヤナ」に出てくるハヌマーン(インド神話に出てくる猿神)とラーマ(神話に出てくる伝説的英雄)。下で支えているのがハヌマーンで、映画ではビームが肩車をして上に乗ったラーマが矢を射るシーンがある。このシーンは神話のオマージュなので、おそらくインドの神話に詳しい方々はこのシーンで相当興奮したものと思う。

 

 
 

 

 

 
 

 
 

 

 

 

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