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freestyle 12 審美眼

 日曜日の朝、たまたまテレビをつけたら、BSで「題名のない音楽会」をやっていた。再放送のようだった。

 この日のテーマは、
「名曲なのに作曲者不明!誰が作ったのかを探る休日」

 これが面白かった。思わず椅子を引き寄せて、腰を据えて観た。

 出てくる曲は、耳慣れた楽曲だ。「ハイドンのおもちゃの交響曲」、「モーツァルトの子守歌」。クラシックに疎い私は、当然タイトルの通りハイドンやモーツァルトが作曲したんだろうと信じて疑っていなかった。

 「カッチーニのアヴェ・マリア」「アルビノーニのアダージョ」に至っては、作曲者が別人とわかっているのにこのタイトル。

 昔は誰が作曲したかということに無頓着な時代があったんですねぇという話だったが、そうだったのか…知らなかった。「作者不詳っていうのもなんだから、有名作曲家が作ったことにしちゃえ」みたいな乱暴なことがまかり通っていたなんて。

 過去の音楽家たち、音楽評論家たちも、なかなか罪作りなことをしてくれるものだ。まあだからこそ生き残ってきた曲もあるのだろうか。有名人の名前がついていたから、残った?

 難しいところだ。

 普段あまり見ない番組を観ると、色々と勉強になる。

 いつみても変わらぬ美しさのギター奏者・村治佳織さんの演奏も、バリトン歌手の加耒かく徹さんの歌声も素敵だったし、番組中、鈴木優人さんという器楽奏者さんが弾いているオルガンは、鍵盤が黒で黒鍵部分が木の色。とてもシックで美しかった。

 演奏家さんたちはバッハ・コレギウム・ジャパンという方々で、調べたらどうやら鈴木優人さんのお父様である鈴木雅明さんという方が創始されたオーケストラと合唱団だということだった。

 ところでこの番組の最後には、「偉人たちが遺した言葉」を紹介するコーナーがあって、今回の言葉はこれだった。

読者の誕生は、「作者」の死によってあがなわなければならないのだ
                      ―――ロラン・バルト

 ロラン・バルトが「作者」というものに疑問を投げかけたことは遠い昔に聞いたことがあった。ということは、今回の番組のメッセージとしては、


「誰が作ったかなんてわからなくても、作品そのものを皆さんが良いと思うことが大事なのです。作品が存在するのは、誰かがいい曲を作ったからではありません。その曲をいいと思う聴衆がいたからなのです」

ということになるのだろうか。

 名も知れぬ無名の誰かが曲を作ったことは確かで、それが時を超えて演奏されたり歌われたりして名曲として脈々と受け継がれている、ということ。

 浪漫だな、と思った。

 浪漫、だけれど、もしかしたら作曲者不明の楽曲の作曲者の多くは女性だったりして。と、ふと、思った。

 クララ・シューマンやパダジェフスカはかろうじて女性作曲家・演奏家としてその名をとどめているが、昔は女性の作曲家は滅多に表舞台に派出てこなかった。あのバッハの曲だって一部は奥さんが作ったんじゃないかと言っている人もいるし、とにかく女性が作曲したということを前面に押し出せない時代が長かった。

 もちろん、番組中でも「この人が作ったんじゃないかな?」という候補は何人も挙げられていたし、こんなのは根も葉もない私の妄想だが。

 ともかく、楽曲がいいものであると「感じる」ことが重要なのであって、作者は重要ではない、「“あのひとの作品”だからよいというものではない」、というのは、心のどこかにいつも、置いておかなければいけない気がする。時代の枠組みは、簡単に作品の善し悪しを左右してしまう。

 誰かの名前、値段、有名人の推薦。そういうものではない「感動」を、果たして自分は味わっているのだろうか。それとも、それらの「作品」には、そういった「名前」や「お金」「権威」がもともと、込み、と考えるべきなのだろうか。

 なにごとにつけ、古くはガイドブックやミシュラン、現在ならレビューや口コミ。動画やSNSの情報に刺激を受けたりと、私たちはいつも「誰か」の価値基準の影響を受けている。

 ちなみに番組のゲストには古坂大魔王さんもいた。

 あの「ペンパイナッポーアッポーペン」を、もしジャスティンビーバーがお気に入りだと言わなかったら、ピコ太郎さんはワールドワイドに活躍していただろうか。まあでもピコ太郎さんは他でも取り上げられて普通にバズっていたので、ジャスティンのおかげ、だけではないのだろう。きっと、面白い!とみんなが感じる「普遍」がそこにあったのに違いない。

 たとえ無名の作品だろうと、いいものはいい、と感じる審美眼。

 何故なら価値は生命に従って付いている

 椎名林檎の『ありあまる富』を思い出した。

 インフルエンサーがもてはやされるこの時代。Amazonのレビューを舐めるように読んだり、外食に行くときにはいちいち食べログを見てしまう私だが、この世のあらゆる作品―――音楽でも絵画でも文学でも、時には「人」でも―――を、自らの感受性だけを頼りに、まったき公平な目でその「価値」を見極められたら…

 そんな「眼」を持ちたいものだと憧れた、日曜の朝だった。



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