
必読の書 『私の文学史』町田康
NHK文化センター青山教室で語られた、作家・町田康の講座の講義をもとに加筆・修正・編集されたもの、と、あとがきの最後に記されていた。
ええええ
なんでぇぇ?
知らなかった
聴きたかった
行きたかったよぉぉ!
これが私の最初の感想である。
そんな講座がひそかに(べつにひそかに、ではない)行われていたとは全く知らなかった。
それでようやく『NHK文化センター』のサイトを開いてみたのである。
なんなら今はオンライン講座というのがあって、現地に赴かなくても受講ができるらしい。これから開催されるところでは月末に戸田奈津子さんの翻訳教室なんて超スペシャルな講座まである。
知らないとは不幸なことだ。
まあでも、有難いことに本になったのだ。そこで私も町田康の自分語りというこれまでになかった画期的なことばに触れることができることと相成った。
町田康氏のファンだ。
前から何度か、記事にしている。
「話す」ということは難しいことであると常々思っている。
文章というのは、前に戻ったり、先へ行ったり、あまつさえ後から直すことさえできる。しかし口唇と喉という器官を通って音声として発せられる言葉は、後戻りできない。録音はやり直しというリテイクができるかもしれないが、基本的に、講演や講座などの話は、口から出たら最後、取り返しはつかない。生涯一度きり、四次元的に一度きりである。
最近は、映像や音声の発信者が増えた。文明社会に生きる人間は、ラジオ媒体が主たる情報源だった時代から声による情報に馴染んでいるが、一時期の紙媒体と二分していた時代より、「音」による情報量が圧倒的に増えていると思う。少なくとも、プロではない人が話者になることや、人間でないものがしゃべるのを聞く機会が格段に多くなったと感じる。
文字起こしをするとわかるが、人は意外ときちんとしゃべっていない。話術の巧みな人やプロは、文字に起こした時もきちんと文章になる。最近は、編集によって素人でもそれが可能になっているが、一発撮りとなると、とたんに怪しくなるのは確かだ。
町田康さんの作品は口語調の文体が多い。私はひそかに町田康さんは前世はどこぞの琵琶法師だっただろうと思っているのだが、そのリズム、テンポ、語調、方言、あらゆる響きが文学になっている。
これまで、町田康さんが自分のことを話したり、書いたりということに接したことがあまりない。エッセイなどで、熱く「猫」を語るとか、生活のことを垣間見ることがあっても、自分の文学の成り立ちについてのものはなかったと思う。
「自分語りなんかはバカやな」と。「おもろない、お前の人生、おもろないんじゃ、こら。おもろない人生をとくとくと語るな、アホ。聞いているお前も、なんか、はあとか言って、重要なように聞くな、ボケ」
と、思っていたそうだ。さもあらん。
基本的に、そもそも小説やエッセイも、最初は頼まれて書いたという町田さん。今回の試みも、頼まれたことで「本当は自分はどう思っているのだろう」と振り返り、自分のことを語りたい気持ちを発見したため、引き受けることにしたらしい。
とにかくこの本は、何でもいい、「書く」ということに興味がある人には、必読の書だと思う。
講座は12回。子供のころに読んだ本から、夢中になった作家、歌手デビューした顛末、詩における言葉の話、小説家としての文体の話、創作について、作家が読む文学、芸能について、随筆と小説の間にあるもの、古典に惹かれる理由、古典の現代語訳についてやこれからの日本文学の展望など、とにかくこれまで知りたかったすべてがここに書いてあった。
子供のころになぜか古銭を拾った話は興味深かったし、夢中になった作家の中に筒井康隆さんがいて、なるほど!と膝を打ったり、おもしろい詩とはどういうものかについての解説には唸り、文体に無頓着になりつつある現代の小説に対して一石を投じることにうんうん頷き・・・
なにより圧巻だったのは、小説家として文学を読むというところで井伏鱒二を論じたところと、これからの日本文学について「この瞬間を全力で生きるために文学はある」と断じたことだ。これはもう、日本で文章を書いている人は全員読むべし!と熱く思った。
「わたくし」を書かずに人間の感情を余すところなく描き出す作家、井伏鱒二に、「わたくし」ばかり書いていた太宰治が嫉妬していた話。それを「掛持ち」という井伏鱒二の小説で見事に解体し、目の前に展開してくれる。
井伏鱒二は文章の達人を超えて人生の達人だという。
そこを見抜く作家の目。さすがとしか言えない。
そして「この瞬間を全力で生きるために文学はある」という言葉。
文学はこの言葉に全肯定され、そして文学というものが消えそうだと不安に思っている人々を強く励ましていると思う。
町田さんは、文学に「笑い」を求めているのだという。
笑いというのは、自分にとってとても重要なもので、自分が「お前、何、やっとんねん?」と聞かれたとき、つまり、「あなたは小説家として、あるいは表現者として、いったい何をやっているんですか?」と訊かれたら、「笑いです」と言うと思います。とにかく笑いをやりたい。
人間には本音と建前があって、日ごろ建前によって隠されている本音が暴かれたり露呈した時こそが、面白いのだ、と。
おもしろいことというのはこの世の真実であらねばならないんです。つまり、この世の真実こそがおもしろいことなんです。
町田さんはそうやって文学で「真実」を追求してきたわけだが、そのためにも、言葉をオートマティックしたくない、という。ありふれている慣用句をそのまま使ったりするのではなく、あらゆる言葉を自分の中を通して、自分の言葉にちゃんと翻訳したうえで外に出したい、と思っているようだ。
常套句、慣用句、諺、俳句、とにかく形式として定着しているあらゆる言葉というものは、人から考えることを奪い、思考を封じてしまう「呪文」だと、町田さんは言う。
今現在は、「その呪文を唱えたらもう終わりで、人の考えが一瞬にして止まってしまうオートマティックな言葉」が猛威を振るっていて、それに抵抗したい、という考えがあるのだという。「オートマティック」になるのは、ワードなどに代表される文書作成ソフトなどの変換技術が進んだことの弊害だともいう。
そしてなぜそれに抵抗したいのか、といえば、こうだ。
なんでそれに抵抗しているかと言うたら、これは僕の考えですけど、「魂」というのは形がないじゃないですか。目に見えない。自分しかわからんわけです。でも、自分しかわからん魂を持っていることが、人間はたまらなく寂しいんです。孤独なんです。だから、この、自分しかわからん魂を一人一人が持っているということに形を与えたいんです。魂自体は形がないから、その外側に対して形を与えたいんです。魂自体は形がないから、その外側を、なんか、樹脂みたいなもので塗り固めて乾かすことによって、形を与えて、それを見たいんです。自分でも見たいし、人にも見せたい。その外側に塗り固める材料というのが言葉やと思うんです。つまり、魂って形がないですから、言葉によって塗り固められるから、言葉がしょうもなかったら、魂がしょうもないということとイコールになってしまうんです、文学化したときに。
この説明に、ああもう、私がずっと町田さんを追いかけているのはこのせいやったんや、と、なぜか伝染してしまった関西ことば風に思った。なんでなのかいつも伝染ってしまう町田さんの関西ことば(私が使うと「風」)。
言葉は魂を外側に見せる手段のひとつ。
なんて繊細な、先鋭な、考え方だろう。
それはアートと言ってもいいのかもしれない。
美学といってもいいのかもしれない。
この本を読み終わりたくなかった。
ずっと、言葉に耳を傾けて(目で追っているというよりは耳を傾けているのに近いと感じる)いたかった。
そんな風に思う文章は少ない。
でも、それは当たり前だ。
なぜならこの本は、これまで隠されてきた「本当のこと」を暴露しているからだ。
面白くないはずがない。
みんなが待っていた本だったからなのか、発売と同時に売り切れ続出で即重版だったそうだ。
わかる。
キレッキレな文学で、沈みがちな文字の世界を引っ張ってこられた町田さんもなんと還暦だそうだ。
私は文筆業以外の町田さんのことはよく知らないのだが、「ギケイキ」の3巻が出ないので、今かなり焦れている。
それでも、生きている間に続きを読むのが楽しみな本がある、というのは、喜び以外のなにものでもない。
noteの住民の皆さんは、基本的に書くのがお好きな方々だろうと思う。
ぜひともお勧めしたい、必読の書である。