前世の使い道
前世があるなら、忘れていて正解だと思っている。
思い出したくないから忘れているんだと思うし、覚えていないということは、今生に必要がないということなのだと思う。
断っておくが、今回の記事は、前世があるかないか、という話ではない。
前世を語る人を否定するものでもないし、私自身、前世を否定しているわけでもない。
昔、昔は「前世」というと変なことを言う人だと思われたものだが、映画『君の名は。』の「前々前世」のような曲があったり、異世界転生の本が山積みになっていたりして、その辺に「前世」が転がっている時代になった。
前世、どの時代に生きていたどんな職業の人だったか、を教えてくれる占いを「前世占い」という。
かつて『オーラの泉』という美輪明宏さんと江原啓之さんの人気番組があって、芸能人が出てくると、美輪さんと江原さんが目と目を見交わして「ですよね」「ですね」みたいな阿吽の呼吸で前世を言い当てる、というようなことがあった。面白がって見ていたが、みんな武士とか貴族とか踊り子とかで、肥を売る人や水呑百姓と言われていた人はいなかった気がする。全部を見たわけではないからわからないが。
エンタメなのだし、芸能人だから前世も華やかな人生を送ったのだろうなあなんて特に気にも留めずに楽しんでいたが、過去には現代人が想像もできない境遇や職能の人も沢山いたはずではある。
もし私に前世があったとしたら、きっと箸にも棒にも掛からぬ有象無象だっただろう。残酷な運命の犠牲者だったかもしれない。恐ろしい犯罪の加害者だったかもしれない。そんな前世は知りたくない。
しかし「前世」と言う言葉を聴いたときに、なぜか誰も、自分が有象無象だったとは考えないようなのが、不思議だなと常々思っている。
何者かでありたい、という願いがそこに込められている気がする。
自分の前世を知ってそれによって心の傷を回復するという前世療法なるものもある。ヒプノセラピー(催眠療法)の一種らしい。先日池田晶子の著書『魂とは』を読んでいたら、『生きがいの創造』(飯田文彦著)と言う本が出てきて、そういえば昔読んだのを思い出した。それはいちおう、平凡な前世を送った人が沢山出てきて、催眠療法で追体験することで現在の自分に感謝するのだった。
前世、つまり「前の/過去の人生」とは、基本的に地球上で過去の時代を生きていた、ということだと言っていいだろう。それはどう考えても今の時代のように易々と安穏と生きてはいられない、明日はどうなるかわからない命だっただろうと思われる。
コンビニも冷蔵庫も洗濯機も電子レンジもワクチンもペニシリンもないし、生まれた境遇によって身分があったり差別があったりしてつける職業も制限されていたに違いない。身体を酷使しなければ食べ物を食べることが大変だっただろうし、ひとつひとつのことに時間もかかる。子供は生まれては死に、寿命も短かった。
私は今の時代が好きだ。
自然派の人には馬鹿にされるだろうが、科学文明と都会が好きだ。
暑い夏はエアコンの冷気や扇風機に吹かれていたい。
便利な乗り物に乗って、よその国に旅したい。
いつも、いい時代だなぁ!と思っている。
まるで過去から来た人みたいにそう思っている。
そしていくら文明が発達したといっても、この世から邪悪な物事や人はなくなっていない。いつもどこかに脅威があり、犯罪があり、難民問題や環境問題、食糧問題も山積みだ。
人類が本当に平和だった時代など、これまでかつてあっただろうか、いやない。パクスロマーナだってローマ周辺の奴隷によって社会が支えられていた。
人はいつも誰かの犠牲の上に生きている。それは時代が変わっても変わりはしない。ただそれを、記録し記憶し認識しているかしていないかは大きな違いだと思うし、認識することで前に進んできた、それが今なのだと思っている。
もちろん、その時代その時代で、みんなきっと、それなりに生きていた。
古の人たちよありがとう。
で、何の話だっけ。
そうそう、前世の話。
我が家では、時々、信じられないほどつまんない夫婦喧嘩をする。
喧嘩なんかしたこともないというご夫婦もいるのは知っているが、我が家ではする。夫婦喧嘩は犬も食わないというけれど、ほんとにくだらないことでカチンときて、くだらない言い争いをする。
若いころは、互いのせいにしてなかなか仲直りができなかったが、年を取ると脳の衰えのせいかさっき怒っていたこともすぐ忘れるので、まあそれなりに元に戻る。年の功といえば年の功だ。
でも時々、本気で憤りを感じる場面があったりする。
物忘れが多くなる中年でも、さすがに根に持つような、二、三日口もききたくないような、そんな真っ黒な感情が渦巻くやつ。
プライバシーにかかわることだから具体的なことは書かないが、正直「なんで伴侶にこのひとを選んだのだろうか、わたしは」と思うようなこと。パートナーに対しての無理解とか、無神経から出たような言動に関わること。
そんなときは、前世を思い出してみる。
具体的に「室町時代はこうだった」「ヴィクトリア朝時代にイギリスに居た」とかそういうのを思い出すのではなくて(覚えてないし)、ああこの人と私は因縁があったんだろうというようなことだ。
自分がされて嫌なことは、前世で相手にしたのだと思う。
いわゆる因果応報といえばそれまでなのだが、たぶん、おんなじことをしたんだと思う。まあここは便宜的にそう思っておく。
意識的な「倍返しだ!」みたいなやつではなくて、めぐりめぐってブーメラン的に返ってきているような、そんなイメージ。
ついでに、じゃあどんな悪行を彼にしたのかを妄想する。
大店のぼんだったときに、遊び歩いてほったらかして泣かせたとか。奉行所で敬虔なキリシタン信者だった夫に踏み絵を要求したとか。金を踏み倒したとか騙したとか蔑んだとか。あれ?なぜか江戸時代っぽいイメージばかりだな。
普通に、いまさっきした喧嘩の立場違いでもいい。
そうすると、なんか悪かったなと言う気になるから不思議だ。
明らかに悪いのは今目の前にいる相手で、私は非常に立腹しているのだが、でも前世のことだと「あの時はごめんね」という気持ちになってくる。
実際、それは程度問題で、本気で誰かに傷つけられた時や、激しい怒りや感情を感じたときは、憤っていいと思う。感情を押し殺すことはない。相手を許せるかどうかも別問題だ。
でも、もしかしたらかつて自分がしたことを相手の立場になって今生で味わっているのかもしれないという視点は、ただ被害者意識を感じ続けるよりも自分を成長させてくれるような気がする。
人は過去の歴史を知っていても、同じ過ちを何度も繰り返す。「歴史」というのは、因果応報が実質、成り立たない。同じ時間軸が続いている世界だから。
「今」を生きているのは自分でも「昔」の人は自分ではないし関係がない。かと思えば今と昔が地続き過ぎて、先祖とか土地とかが関わってくると、「やられたらやり返せ」ということになってしまう。「前世」みたいには考えられない。
「前世」の自分なんて限りなく他人で、自分の歴史ではない。にもかかわらず「自分である」と認識してしまうのが「前世」だ。不思議に「ごめん」という気持ちが沸き上がる。
前世に使い道があるとすれば、こういうことなんじゃないかなと思ってみたりする。
そういえばバカリズムのドラマ『ブラッシュアップライフ』では、同じ人生をリピートして繰り返し、何周目かの人生をやり直しながら、前の人生での過ちを反省したり、学習したことを活かしたりしていた。チートでお得な部分もあったが、それ以上に「あのときあの人はこんな気持ちだったのか」という学びもあったような気がする。あれが結構、大事な気がする。ケンカできなくなる。しようと言う気になれなくなる。
それにしても、たとえ新しい学びがあるのだとしても、やっぱり来世でアリクイやウニは嫌だなあ(『ブラッシュアップライフ』では、主人公の次の人生はアリクイだと言われていた)。アリクイでは今の人生の学びは全然活かせそうにもない。
夫もアリクイに生まれて、昨日の喧嘩のようなことをアリクイ同士で繰り返すのはちょっと想像できない。せいぜい、美味しいアリを独り占めにされて憎悪を抱くとか、メスを取られて地団太を踏むとかそんなことくらいしか思いつかない。
それも今の人間としての私の認知の限界なんだろうな。
間違いなく、今世のことは忘れているだろう。
そして、それでいいんだと思う。
前世は、忘れているに限る。
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