あるものをただ受け取る豊かさ
三連休はお友達家族とキャンプに。
家族旅行の際には
「え?家族だけなの?」
とかなり塩対応になってきた子供達。
今回は、お友達家族と一緒という事で、テンション爆上がりの2日間でした。
テントを持っていない我が家は、バンガローステイ。
正確にはキャンプじゃないですが(笑)
お友達家族のテントを一緒に立て
焚き火の火起こしを手伝い
焚き火を囲んでBBQ
テントでカードゲーム
寝袋で寝る
などなど、
キャンプライフを楽しませて頂きました。
普段はスマホ片手にYouTube三昧の子供達ですが。
デジタルデバイスから離れ、
食事も寝る場所も自分達で創意工夫するキャンプライフは、様々な新しい体験ができ、とても楽しかった様子。
普段は、渋々、かつ文句たらたらのお手伝いも率先してやっていました。
また、「日が暮れると外は真っ暗。」みたいな、自然の中で生活していたら当たり前の出来事にも改めて感じるものがあったようです。
私自身も、敢えて自然の中で不便な生活を体験することによって生まれる楽しさ、豊かさを改めて体験する時間になりました。
前置きが長くなりましたが。
キャンプライフで改めて感じた
「あるものをただ受け取ること」の豊かさについて、感じたこと、思ったことを書いてみたいと思います。
自然の中のつながり
快適で便利な都会で、自然の豊かさや脅威から分離されて暮らしていると、
私達人間は自然界のつながりの一部であると言う事実をしばしば忘れがちです。
敢えて自然の中に身をおくことによって、
私たちはこの世界の一部であり、
空気、水、土、木々や花、動物たちなどとの
つながりや循環の中で生かされている
という紛れもない事実を体感できる気がします。
目の前の雑木林で駆け回った子供時代
毎日海に潜っていたダイビングのガイド時代
自然の中に身を置くことが日常だった時間がふんだんにあったからなのか?
人間がコントロール出来ることには限界がある
自然の中にあるものを「ただある」と受け止め、自分ができることをする
と言う感覚が
私の中には強くあります。
それゆえ
人間は何でもできる
他の生物より優位である
などの考え方は、
何か違うんだよなぁ
と、論理的にというより身体で感じます。
自然の中に
「良い悪い」もなければ
「必要不要」もないし、
「優秀か劣等」もありません。
全てがただあって、つながって循環している
状態です。
人がコントロール出来ないもの
ダイビングのガイドをしていた数年間
「ジンベイザメを見せて欲しい」
「マンタを見せて欲しい」
的な
見れるかどうかは運任せな生物を
結構な頻度でリクエストされました。
もちろん、生涯で何回見れるか分からないスペシャルな生物を見たい気持ちは、すごく分かります。
でも、言外には
「そのためにこれだけ払っているんだから!」
が見え隠れしていました。
そういう時は決まって
「そういうお願いは、神様にしてね❤️」
と答えていました。
残念ながら、お金をいくら積んでも自然の営みを人間がコントロールすることは出来ません。
出来るのは、
あるものを有り難く受け取って、慈しむこと。
そこには、評価したり、コントロールしたりせずに受け取る豊かさがあると思います。
自分にとって快適な部分だけ切り取って受けとりたい。
だから、
悪いもの、不要なものなど、あるものをジャッジして切り捨てる。
でも、ジャッジしたり切り捨てるが故に生まれる「ゆがみ」もあるのではないでしょうか?
あるものをただ受け取る
普段の生活では、ともすれば忘れがちですが、
星空が美しいのは、電気のない暗闇だから
空気がきれいなのは、都会から離れた山奥だから
水が清らかなのは、汚水を流す工場がないから
など、不便だからこそ得られる豊かさもあれば、人間が作り出した豊かさもあります。
どちらが良いとか、価値があるとかいうことではなく、
両方を体験出来る豊かな時代に私たちは生きているのだと思います。
あるものをただ受け取る
改めて、
その大切さや豊かさを感じた週末でした。
これからも時々、自然の中に身を置いて感じてみようと思います。
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