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『20年後のゴーストワールド』第1章・私のシーモア(14)ごめんなさいBOT

時は2023年12月31日。
そう大晦日である。話は第1話に戻る。

12月25日のクリスマスにドタキャンをかましたおじさんから、その後連絡はこなかった。

体調は良くなったのだろうか。
「最悪」とは思ったけれど、具合が悪いままならそれも心配だ。チバユウスケはずっと煙草を吸い続けて、たらふくビールを飲んだ人生で55年でその生涯を終えたばかりだった。おじさんもさほど年齢が変わらないので、いつなん時、何がおこっても不思議ではない。重鎮のあだ名のごとく、90年代からずっと音楽畑にいるおじさんは、キャリアでいうとチバユウスケより長い。

たまたま休みだったクリスマスの翌日は銭湯へ行った。私は一人暮らしの自分の部屋に居ると無限に泣くことができてしまうからだ。

かつて実家に居たアラサー期、病んでずっとメソメソしていたら母親に「ずっと泣いてるあんたを見るのがつらい」と言われた。それもそうだ。日々顔を合わせる家族が泣いてたら居た堪れない。しかしそれは病んでる人に余計つらく刺さった言葉だった。涙のコントロールができるほどそんなにすぐ正常にはなれない。母親が滅入る姿に気を遣うのにも、余計心が壊れると思った。生活が苦しくても、自分は実家から出た方が良いと思って、家を出た。しかしそれがまた思いもよらない別の悲劇につながっていった。

人は誰かの目や気持ちが側にあることで、立ち直らざるを得なくて、回復することもあるかもしれない。それが誰かと生きることでもある。相手のためにも大丈夫な自分でいたい、と思うように。実家で自室もあったが、私は泣く時は風呂場で泣くようにした。その時の習性か、今、泣きたい放題の一人暮らしのアパートに住んでいても、風呂に入るとより思考が止まらなくなるのと同時に涙が止まらなくなる。風呂でさめざめ泣いてるのもみじめだと思うけど、その時間、一番自分の心が解放されて気持ちが鮮明になる。今ここで書いてる文章の大半は、風呂場で涙を流しながら頭をめぐった言葉だ。

銭湯に行くのは、誰かの目があることにより、ぐるぐる思考して泣くことから逃れ、純粋に風呂に入って身体をただただ休めるためである。この日は武蔵境の銭湯へ行った。武蔵境も駅前のイルミネーションがけばけばしい。一時期、暇さえあれば銭湯に行っていた時期があるが、こういう心の作用によるものだったのかもしれない。

12月27日おじさんのXに投稿があった。

「たぶんいま人生で最大のストレス」

その言葉そのままお返ししましょうか?と内心思った。ストレスを与えているのはそちらですけれど……はてご自身でも?熱が下がったのかさえ、連絡もないので私はわからないけれど、これで何となく察した。

たぶんこの人は穴埋めもせずに逃げる、と。

ドタキャンも悪びれてない人だ、やりかねない。
おじさんに少しでも誠意のかけらがあれば、こんなにモヤモヤしていないのだ。今までおじさんのノリとペースにずっと合わせてきた私が、我慢の臨界点を超えて自分の感情を露わにして、わきまえない女になってきた、それがストレスに感じたのかもしれない。

まだクリスマスから二日して経ってないし、もう少し様子を見るかと思っていたら、大晦日になった。

この間、私は「ドタキャン」について、あらゆるネット記事を読んでおじさんの心理について考えた。コタツ記事も含め、沢山読んだ記事の総意は「起こってしまったことは場合によって仕方ないが、誠意を持って謝って信頼回復に努めるべき」ということだ。万が一、自分がドタキャンせざるを得ない事態になったら、おじさんのようにはならないようにしようと思った。

大晦日は仕事の後、シャイガンティのライブを観に行った。シャイガンティの歌う何気ない日常の風景、に私はとても憧れている。ありふれたような少し退屈な日常、それは身近に大切な誰かがいて、心が動いているから成り立っている。それは
私が失って、簡単に手が届かないものだ。

シャイガンティの代表曲「得てして」
『得てして 残酷は欲しい時にこないな』

そう得てして、残酷は欲しくない時にやってくる。

ライブの前に、おじさんにお加減いかがですかとLINEをしてみたのだった。

速攻で返信がきた。
「翌日には良くなって27日からは仕事してました。ご迷惑おかけしました」

なんということだろう、この一週間の私の心配を返してほしい。また苛立つものをぐっとこらえて送った。

「良くなられてよかったです!ずっと心配していました」
おじさんへの返信はどうしても皮肉混じりになってしまう。思いやりのない人に思いやりのある言葉を送るのは困難なもので、ただ負の気持ちの不毛な応酬で性格が悪くなっていくしかないのが悲しかった。

そしておじさんから返信に目を見張った。
「Xでめちゃ怒ってるなーと思って連絡控えてました」

私がクリスマスに投稿した「最悪」のことを指しているのだろう。私はクリスマスドタキャンショックはむしろ怒りを通り越して惨めな気持ちだった。悲しくてがっかりな気持ちを投稿していた。

それが自分に対して向けられた言葉だと思ったなら、何故その時に連絡してこなかったのか人間性を疑った。怒りの原因は自分だと感じたなら、相手の怒りを少しでも鎮めるためにどうにかしようと思えないのだろうか。

「Xで自分のことで怒ってると感じたのなら、その時一言ほしかったですし(見られてるとかこちらは反応がないとわからないですし、そういうものなので)それで控えるというのも失礼だと思います」

また瞬時に返信がくる。
「ごめんなさい」

そしてライブの帰りにおじさんに電話した。
場面は第1話「最悪な大晦日」に戻る。

おじさんは電話に出てくれなかった。
挙句、電話したいと言ったら
「何彼女みたいなこと言って(笑)」と送ってくる始末。

それで「ナチュラルに人を傷つける天才ですね」発言に至る。

「今日のやり取りも傷つきました。私のこと傷つけてそのまま消そうとしてるのかと思ったほどです。村井さんのこともあるから、私がそのまままたここから消えた方が都合が良いのかと」

また瞬時に返信がくる。
「被害妄想強し(笑)」

よほどの「あたおか」な制御不能なカスハラをしてくる人を除いては、クレームを言ってくる人は「長時間待たされた」「製品に不備があった」などの事実云々よりも、それによって引き起こされた「残念」や「ショック」などという「自分の気持ち」が言った相手に理解してもらえたら、落ち着いて大人しくなるという。

この時の状況は、その構造に似ていた。
ドタキャン発生にクレームをつけたいわけでなく、ドタキャンによって引き起こされた私の悲しみに無理解なおじさんが苛立たしかった。無理解の上にまた軽口コーティングで言葉が返ってくる虚しさよ。言うなれば、おじさんは人の気持ちが汲めなくて、クレーム対応が出来なさすぎる故にクレーマーに「こいつに何を言っても無駄」と思わせ立ち去らせてしまうほどの強靭な人なのだ。

そしておじさんが以前言い放って、私が傷ついた「ヤバい」という言葉をおじさんにそのままぶつけることになる。

「今のも傷つきました、そういうところです。
ヤバいですよ」

「ごめんなさい」

「勇気を出して言ってみたんですがなかなかですね(文章だとうまく伝わらなくて差し障る気もしたので電話しました)」

「ごめんなさい…返事に困っています」

困ってるなら、よく考えてみてから返信すればいいのに本人も何に対して謝っているかわからない「ごめんなさい」が瞬時に飛んでくる。

「お察ししますが、ヤバいですよ。
私も相当間を置いて、別のこと考えて一回気持ちを落ち着けてから、電話しました。でもこれで年を越してはまずいと思ったので、自分が嫌われるとか心配する以前に、早急に言ったほうが良いという結論に至りました」

「ごめんなさい。
だとしたら、まわりからも相当嫌われてますね自分…まっっったく傷つけたつもりもないし、普段からこんな感じなので、これが自分の感じなのですみません…」

そんなことだろうとはとうにわかっていたが、それを本人が自覚してないからヤバいと私は伝えたかったわけである。軽口をトッピングしてくるのも無自覚なんだろうか。

「まっっったく」という文字列がまた不快指数を爆アゲした。さすが人をナチュラルに傷つける天才の才能がほとばしっている。「自分は悪くないけど」というおじさんの気持ちが(笑)に変わって全ての語尾に括弧付でついているように思えた。

そしておじさんはトドメを刺してきた。
「なんでそんな怒ってるんですか。25日の事ですかやっぱり」

何もわかってなさ過ぎて驚いた。
今までのやり取りはなんだったのか。
LINEでの文面やり取りの限界がきた。
スマホの文字が見えてないのではないかとさえ思った。

私は怒っていない。
何故ずっと怒られてると思っているのだろう。
電話に出てくれたら、まだそのニュアンスが伝わったかもしれない。
文面では全く埒が明かなかった。
ごめんなさいBOTと化した、おじさんの誠意のないごめんなさいの羅列が続くだけだった。
おじさんのような他責思考の人は相手の気持ちを汲むことなく、本当は謝りたくないけど、とりあえずどうしようもなくなったら謝ればいいと思っていて、謝ったのに何故許してくれないのかとさえ思っている節がある。そして安易に人をメンヘラ扱いして「被害妄想」だの「考えすぎ」だのという言葉を放つ。

全く誠意のない謝罪は逆効果で、余計に人を傷つける。
気がつけばもう年を越して2024年になっていた。

「ヤバいということがわかっていないことはわかりました」

「ごめんなさい」

「SNSでぼやかして書かざるを得なかったこと、会って話したかったのに、それも叶わずつらい思いになりました」

「ごめんなさい」

ごめんなさいの自動返信が続いた後、最後はしおらしくおじさんはこう送ってきた。

「今回の事で「こいつやべーやつだ、無理だ」と思ったら遠慮なく言ってください」

一応そういうことを言う気持ちはあるんだ、と思った。

しかしもうすでに無理だから、こうなっているんですけど……。LINEのやり取りはもう限界だ。
もし、また仮に会う時があれば、しっかり話そうと思った。今までドン引きして飲み込んでしまった言葉も勇気を出して言おうと思った。

しかし、その後、おじさんから一向に穴埋めの連絡も何もない。大晦日からもう半年以上が過ぎた。私の予感通り、おじさんは事なかれ主義で逃げたのだ。長年村井のことが、世間にバレなかったように、自分も大人しくしていればバレないと思ったのか。それで今までのおじさんの「ヤバい」を丹念に描写して書いた。「ブックレットの中の人」を私は嫌いになりたくなかった。別におじさん自身やおじさんの周りの人を傷つけたいわけでもない。でも、ずっと一人に胸に秘めて、一人でモヤモヤしているのは違うと思った。

大晦日、電話に出なかったのはおじさんの言葉尻を捉えると「怒られたくない」という思いが過剰にあったためと思われる。今回のことがあり、世間のおじさんの心理みたいなものを、ドタキャンの時のように調べて色々読んでいると、「おじさんは怒られるのが嫌い」という現象が多く見受けられた。どうしても怒られたくないから必死に言い訳したり、人のせいにしたり、怒られる前に逃げるのだ。それはそのままおじさんに当てはまる。

今回はSNSで私が怒っていると感じたおじさんの現象についても考えてみた。一つ引っかかっていたことがあった。以前おじさんは、私がXでポストした文面をそのままスクショして送ってきたことがあった。おじさんも私がポストしたものと同じ意見ということで送ってきたのだが、そのスクショ画面は自分が普段見ている画面とまるで印象が違った。文字がデカくて太文字だった。おじさんは50歳を過ぎているので、老眼でスマホの文字サイズが大きかったのだった。自分が140文字5行でポストしている文章が、おじさんの画面だと倍の10行あった。

おじさんのスマホ画面で見る私のポストはかなりインパクトが強かった。怒っていなくても、文字が怒っているように見えた。それであのクリスマスの「最悪」を見たら怒っているように取られても無理はなさそうだった。

老眼は平均45歳で誰でも起こる現象だ。
それは以前転職に失敗して、一時期眼鏡店で働いた時に得た知識だ。老化現象とはいえ、老眼は誰でも訪れるし、恥ずかしいことではない。でも実際まだ、自分は手元は見えるので、そこまで想像が及ばなかった。自分のポストが、デカ太文字で読まれて怒っていると思われることまでは。

しかし世間のおじさんあるあるでよく出てくる「LINEなどで質問を二つすると、何故か最後の質問にしかおじさんは答えない問題」というのがある。実際、私とおじさんのやり取りにもそのようなことがあった。これはスマホの文字がデカくて、沢山スクロールしないと読めないから先の質問は流れていってるのだと思う。おじさんは私のLINEもよく読めてなくて、最後の方の言葉尻だけ捉えてポンポン返信してきたのではないだろうか。おじさんの画面で言うと「ごめんなさい」だけでも立派なスペースを埋める一文になり得るのだ。

真意はおじさんに確かめてみたいところだけど、いわゆるSNSの弊害というやつにまんまと翻弄されて、コミュニケーション不全に陥ってしまった。良い大人なのに、何故こんなにコミュニケーションがうまく取れないで、嫌な終わり方をしなければならないのだろう。

このクリスマスから大晦日の出来事は、あまりに情けなくて誰にも話せなかった。レベッカにも言えずにいた。次第にこんな自分が恥ずかしくて誰にも合わせる顔がないような気持ちに襲われた。おじさんが作ってきた音楽を嫌いになりたくないから、おじさんの名前をブックレットで見た中学生の時から今まで、作品からもらったもの全てぶつけて吐き出して、これを書いている。大晦日から半年以上経った今も、ずっと胸が押しつぶされるようにジリジリと痛んでいる。

脳内BGM
ジ・エイト「変化なし」
ダンカンバカヤロー!「涙」
(今回も2曲です)

脳内BGMその①
ジ・エイト「変化なし」
音源は今のところCDのみです。
『ファンタジーパンクバンド』に収録。

歌詞の『電話したい LINEじゃ無理 
つながらないこと気にせず歩いてこう』がそのまま作中の大晦日の状態と重なってしまいました。

脳内BGM②
ダンカンバカヤロー!「涙」

私ももらったものを全部はきだして、閃いたことを全部文章にしたいと思って、今回その気持ちで書いています。風呂場で一人涙を流す時、ふと我に返ってバカらしいなとも思う。

作中に出てきたバンド
シャイガンティ「得てして」

シャイガンティの歌う日常が好きなことも今回書けて良かったです。ライブは本来、非日常的なものかもしれないけど、シャイガンティのライブを観ることで私は自分にはない日常を感じてほっとしたり、憧れてヒリヒリする。

この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
ご覧いただきありがとうございます!
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連雀ミオ(Mio)
また本を作りたいです。その制作費に使わせていただきます。応援よろしくお願いいたします。

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