#文学とは
思想・心情・解釈・定義・アイデアなどを、自己の言葉として主体者が他者に向けて発信するもの。主に言語的な表現を用いた、評価が多様であることが受け入れられる状態の作品である。
こんばんは。みおさんです。
実はずっと心にあったことを書きます。
珍しく長い記事になりましたが、たまには良いでしょう。
確か、2022年だったでしょうか。
文学フリマのスタッフ説明会で、「文学フリマは、出店者が文学と信じるものであれば、販売するものの形式や内容は基本的に問わない」と聞いてから、じんわり考えていたことです。
自分が文学と信じるもの???
え、ぼくが書いた小説って「文学」なのかな? ぼくはこれが文学だと信じているかな? そう言い切れるかな?
文学フリマに出店してる人はみんな
「このブースに置いたものはすべて文学です! 私はそう信じています!」
って言い切って来てるの?
マジで? いや、いくらなんでも全員ではないんじゃない?
結局ぼくがブース出店する際は「文学ではないと追及されることは恐らくないだろう、程度には信じられると思うよ」くらいのマインドセットで臨みました。
それがずっと引っかかっていた。
そもそも「文学」ってなに?
とりあえず辞書を引いてみます。過去の同名官職などを除くと、おおよそ下記の意味で載っていました。
① 言語で表現された芸術作品。文芸。
② 文芸を研究する学問。
文学とは文芸であり、それらを研究する学問も文学である。というのが日本語としての「文学」の意味のようです。
「文芸」はどう定義されているかというと、言語で表現された芸術作品というところは全く同じで、どうやら文学+その他の芸術も含む、という解釈もあるようです。文芸の方が範囲が広いようだ。
へえ……文芸の方が広くて、文学の方が狭いんだ。知らなかった。
なんとなく学……学問的な感じのものが文学で、芸……娯楽っぽいものが文芸なのかと思ってた。使い分けるための異語ではなく、示す範囲の違う語だったのですね。
そもそも日常で「文学」とか「文芸」とか口にすることがないと気付く。せいぜい本屋の棚の分類で「大衆文学」「一般文芸」がある程度でしょうか。
使わないから、使い方をよく知らない。
なるほど、そういうことだ。
ぼくは「文学」という言葉を意識して使ったことがなく、故に「文学」が何ものか考えたこともなかったのだ。
先日の文学フリマ東京39のあと、ついに考えなければならなくなった。
ぼくの周りも考えていたし、考えるべきという意見も投げかけられた。それを聞いて「ちゃんとしなきゃな」と思った。もともと燻っていたテーマだ。きっかけを得たなら、書くべきである。
そして考えた結果出てきたのが冒頭の定義。
文学とは、思想・心情・解釈・定義・アイデアなどを、自己の言葉として主体者が他者に向けて発信するもの。主に言語的な表現を用いた、評価が多様であることが受け入れられる状態の作品である。
順に説明しましょう。
思想・心情・解釈・定義・アイデアなど
そんな大それたものじゃないよと思う自分のために「アイデア」を加えた。
思いつきも含まれる。思いついたのはぼくであり、その思いつきを文章にする。小さな思想のタネのようなもの。大きな思想体系にはならないかもしれないけど、芽吹かない種だって種は種だ。土の中に存在していることは確かだ。
思想・心情・解釈・定義、どれも重複した意味を持っている。人はみんな思想と心情と解釈を持っていて、それをアウトプットして体系的にまとめると思想心情解釈を定義することになる。故に、文学の要素を抜き出そうとしてみたところ「思想、心情、解釈、定義、アイデアなど」という表現に落ち着いた。
自己の言葉として
パクリはダメよ、という話。盗用は文学に含まれません。
無意識にパクリをしている場合というのは、ある。おそらく全員にある。なんの影響も受けず文章を書く人間はいない。絶対にいない。これは断言できる。
だから「自己の言葉」なのである。
自分というフィルターを通っていなければ、結局言葉にもならない。コピペしただけと、影響を受けた結果類似のものが出てくるのは明確に違う。違うったら違う。
二次創作は文学に含まれるの?
パロディやオマージュが文学に含まれるのだから、含まれますね。ここからは何がパロディで何がオマージュで何が二次創作なのかという区分問題になってしまうので割愛しますが、分かりやすく例えると食事と排泄です。
お皿に乗った食べ物を、食べて、排泄したら、ぼくのウンチです。皿から皿に食べ物を移し替えただけなら、ぼくのウンチではありません。
自己の言葉とは、ぼくの、あなたの、体を通っているかどうかが重要です。同じものを食べても出てくるウンチは人それぞれ違いますからね。
何を食べるのかも、人によって違うのが面白い。これは苦手だから食べない、これは好物だからいっぱい食べる。昔から食べ続けてきたもの、最近ハマったもの。
だから出てくるウンチはみんな違うのです。
主体者が他者に向けて発信する
言葉はコミュニケーションツールである。そして作品は誰かが作り、別の誰かに受け取られる。受け取るとは、読むとか、聞くとか、鑑賞するなどの行為だ。
例えばぼくが小説を書く。カクヨムで公開して、誰かがそれを読む。同人誌即売会で本を売った場合は、買った人がそれを読む。
この人to人の矢印も、文学の定義に含めてみた。
「本が売れなかったら文学じゃないってこと?」
「他者に向けて書いてないから、日記は文学ではないってこと?」
いいや、ぼくはそうは考えないし、おそらく今までの多くの人類がそう考えていない。
文章読本の類を読み漁っていた時期があり、その中で心に残っている解説がある。乱読した上に記録をまったく取っていないため、出典を明示できず申し訳ありません。
日記など、他者に公開するつもりがなかったとしても、文章として書き記した時点で、頭の中で思考しているだけの状態から切り離される。書き終えた日記を読み返して推敲などすれば、なおさらである。
と、おおよそそんな内容のことが忘れられずにいて、ぼくの中にしっかりと根を張っている。
言葉とは、文章とは、そういう性質を持っているのです。
主に言語的な表現を用いた
文学とは必ずしも文章でなくてもいいらしい。この気づきは文学フリマへの参加を重ねることで確信を持てた。
当初、写真集を文学作品に含めることに違和感を覚えた。イラスト集も? CDも? ゲームも? みんな「文学と信じてる」範囲広すぎじゃない? と思ったものです。
もし文学を文章作品に限った場合、挿絵の入った本は文章作品から除外されるだろうか。写真に詩を添えたものは? 文章を読み上げた音声は?
文章とは主に散文を指すと辞書に書いてあるが、では定型詩は文学から除外されるのか。そんな話は聞いたことがないぞ。ううむ……どうやら文学作品イコール文章作品ではないらしいぞ。
例えば漫画。そもそも漫画には大量の文章表現が含まれている。文字を使わない漫画もある。
じゃあ、一枚の絵は? 写真は? 枚数で区切るなどナンセンスの極み。一枚の黒い紙、もしくは白い紙にメッセージが込められていることはみんな知っている。
「みんな知っている」のが、言語だ。知らなければ伝わらないので、言語は言語の役割を果たさない。
今は使われていない古い言語で書かれた古典作品はたくさん存在する。外国語を翻訳するように、古語を現代語訳することができれば、文学作品かどうか判断できる。
逆に、解読されていない古語の石板が文学作品であるかどうか、我々はまだ判断できていない。
いつか未来の地球には、宇宙人が宇宙語で書いた文学も進出してくるかもしれない。それは音声コンテンツに似ていて、テレパシーみたいなもので第六感に届くかもしれない。
「主に言語的表現を用いた作品」とは、そういうことだ。
評価が多様であることが受け入れられる状態
ここに一冊の本があるとします。これはとても有名な作品で、義務教育の教科書にも掲載されていて、みんなが必ず読んで育ちます。この作品に対して「日本国民が目指すべき理想が集結された傑作」以外の評価が下されていないとしたら、これは文学作品ではありません。
では、絶対王政時代に検閲された書物や、世界大戦下のプロパガンダ作品はすべて文学でないのか?
これも違います。
権力者が焚書しようが弾圧しようが、結局人間は自由に評価してしまうのです。その評価を表立って言いにくいことはあっても。でなければ漢代に儒家は台頭しないし、フランス革命も勃発しない。
どちらかと言うと、これは著者側に求められるマインドだ。評価が多様であることを、著者が受け入れて、作品を世に出さなければならない。
現代社会に一石を投じる社会派エッセイとして発表したが、大衆に迎合していると言われることもある。ロマンチックな恋愛小説を書いたつもりが、女性の生きづらさを描いた問題定期的作品と言われることもある。
著者側が受け入れないなら、またそれも文学の定義から外れるとぼくは考えます。これは「主体者が他者に向けて発信する」とも共通し、他者に届いたあとどう評価されるかは、受け取りてである他者にゆだねられる。それが文学だ。
ぼくはこのように考えたけど、みなさんはどうでしょう。
蛇足
ぼくはフィギアスケートが大好きで、年に数回は観戦に行く。
今一番好きな現役競技選手はフランスのアダム・シャオ・イムファさんという男子選手だ。凄まじい身体能力と、そこから繰り出されるダイナミックな演技もさることながら、ぼくは彼の「頑なさ」を愛している。
今年披露されたショーナンバーは、画家ゴッホの生涯を表現していた。
それを見た時にこう思った。
「ああ、この人はフィギュアスケートじゃなきゃダメなんだな」
絵を描くことで人生を燃やしたゴッホ。その生涯を知り、アダム・シャオ・イムファは大きな感動を覚えたのだろうと思う。そして彼は、フィギュアスケートという手段でその感動を表現した。
作曲家なら曲を作る。歌手なら歌う。画家なら絵を描く。漫画家なら漫画に、研究者なら論文に、ストリーマーな配信に。フィギュアスケーターなら、スケートに。
もう一つ。
ぼくは歌手のT.M.Revolution・西川貴教さんを深く敬愛している。出会いは小学生の頃で、お小遣いで初めて自分で買ったCDはHOT LIMITだった。以来「格好いい」とは西川貴教のことであり、彼の生き様はぼくの人生のお手本だ。
TMRはヒットソングが無数にあるが、ことあるごとに思い出しては考えさせられる歌詞がある。
「どうせみんな 自分の選ぶ軌道(みち)でしか走れない」
Albireo -アルビレオ-という曲のサビで歌われている。
走れない。というのが、味噌だ。
親の敷いたレールを走る、なんて言い回しを最近はあまり聞かなくなった。親がレールを敷設できる時代ではなくなったのだろう。
歩くことはできるのかもしれない。自分で選んだ道でなくても。
でもきっと、走り切れるとしたら選んだ道でしか難しいのだ。
だから、多分、ぼくは書いている。どうにも、ここでしか走れそうにないから。