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アダージョ 第8話


頭が痛くて一晩中眠れなかった。大きな掌を私の額に軽く当てて、お父さんが心配そうに顔を覗き込んでいる。

「翠、熱があるよ」

測ると38度だった。

「今日は学校を休んで寝ているといい。何処か痛いところはないか」

「頭がズキズキして、全身が痛いの」

掠れた声で何とかそう言った。病気じゃなくて、泣きすぎたからだ。熱だって知恵熱だし、馬鹿みたい。

「食欲は」

「あんまり」

「じゃあ何か食べやすいものを持って来るから、寝てなさい」

お父さんは布団を直して、頭を撫でた。出て行く時に盗み見た、広い背中。小さい頃はあの背中におんぶしてもらうのが好きだったな。そんなことを考えながらウトウトする。

朝も昼も、お母さんが持って来てくれたお粥やらフルーツやらを少しだけ食べて、頭を冷やしては眠っていた。薬が効いている頃は痛みが治るけれど、切れてくるとまた痛む。

「翠、奏真くんが来てくれたけど、会えそう?」

夕方、微睡まどろんでいるときに、お母さんにそう聞かれた。こんな顔では会えない。

「私、ひどい顔してるから、やめとく」

「そう。じゃあそう伝えておくね」


それからまた少し眠ってしまった。奏真が来てくれるなんて、都合の良い夢だったのかもしれない。


「どう?食べられそう?」

うどんの良い香りがする。お母さんが夕食に持って来てくれた。頭が相変わらずズキズキするけれど、意識は朝よりはっきりしている。

「うん、食べてみる。ごめんねお母さん、手間かけて」

「手間なんてかけてないよ。今夜はみんな、うどん鍋にしたの。そんなこと心配しないで、ゆっくり休んで」

うどんとりんごの乗ったお盆を、お母さんがベッドサイドテーブルに置いた。傍に見覚えのあるピンク色の袋がちょんと乗っている。

「これはね、奏真くんが持って来たの。今は食べられないかもしれないから、良くなったらね」

差し出された袋を受け取ると、それは私が大好きな駅前にある洋菓子屋さんの、お気に入りのマドレーヌだった。緑色の付箋が貼ってあり、奏真の流れるような字で「本当にごめんね」と書いてある。私はまた涙が止まらなくなった。

「あちゃ。翠、今は泣いちゃ駄目。酷くなっちゃうよ。って言っても止まらないよね」

お母さんはまた私を抱きしめた。

「お母さん。私奏真に、こんなに、謝らせるつもりじゃ、なかったの」

「大丈夫だよ翠。奏真くんは強い子だから、優成くんと一華ちゃんの子だから、大丈夫。今は心配してる奏真くんのためにも、身体を治さないと」


次の日も熱が引かなかった。私はなんて駄目な人間なんだろう。

「もう一日休みなさい。明後日は土曜だから、焦らなくてもいい」

お父さんがそう言った。


夕方、また奏真が来て、お母さんが私に会えそうか聞いた。昨日よりだいぶ良くなったけど、私、お風呂に入ってない。こんな状態でキラキラの奏真に会ったら恥ずかしすぎる。お母さんに、お菓子のお礼ともう気にしないでって伝えてもらうようお願いして、また断った。


土曜日は優先生の稽古に出た。

「もう大丈夫?」

優先生は心配そうに聞いてくれる。神さまのお気に入りのような容姿に、優しさが溢れ出る流れる仕草。優先生の息子に心配をかけたのは、私なのに。


普段の稽古に加えて、今日から『龍歌』も弾いてみることになった。


「さすが翠。もう指は弾けるんだね。あとはどう表現して行くかだ」

そこで優先生はことばを切った。

「翠。人に言えない辛い想いがあるのなら、それを第二箏の龍にぶつけるといい。龍が食べてくれるから」

「え、龍が食べるの」

「そうだよ。ニ箏の龍は悲しみを食べる。好物だから、嫌なこと全てを与えるんだ。弾いている時は辛くても、そうすれば翠の苦しい想いは、だいぶ軽くなる」

「優先生はそうやって、二箏を弾いていたの」

「そう。音楽は人の痛みを癒してくれる。それは奏者の痛みも同じだ。悲しい想いをぶつけても、むしろそれが、聞き手を感動させる清い力になるんだよ。翠もニ箏を演奏するときは、躊躇しないで全て出し切るといい。そうすれば日々、辛い想いがあっても、大切な人の前で穏やかに、笑って過ごすことが出来る」

「大切な人の前で、穏やかに」

私は優先生のことばを繰り返した。

「箏はストレス発散にちょうど良いよ。悲しい時は、『龍歌』の第ニ箏はその最たるものだ。さすが神獣だよね」

優先生はそう言って、気遣いの上手ないたずらっ子みたいに笑った。

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「翠、来てた?」

俺は父さんが帰って来るなり、待ち切れなくて玄関に出て早口で尋ねた。

「来てたよ。少し普段より静かに見えたけど、大丈夫そうだった」

父さんは心配するなとでも言うように、俺に微笑みかけた。慌てて俺はスニーカーを履くけど、踵が上手く入らないのがもどかしい。

「会いに行くのか。気をつけろよ」

父さんの話を聞くのもそこそこに、俺は家を出た。

本家の敷地に入ると、旭が本家から出て離れに帰るところだった。

「奏真兄ちゃん。お姉ちゃんならまだ本家にいるよ」

「そう。何してるの」

「練習してる。まだやりたいんだって」

「そっか。ありがとな」

「うん。兄ちゃん、また俺にバスケ教えてよ」

旭は凪先生と晃輝先生をミックスしたような顔をしているけれど、背格好は晃輝先生に近い。きっと大きくなるだろう。

「もちろん。夕方なら家にいるから、遊びに来な。由乃もいる」

旭に手を振って別れ、本家の中に入る。翠は本家の一番端の稽古室にいて、箏を弾いていた。これは......『龍歌』だ。

まだ練習を始めたばかりだろう。演奏も拙い印象が強い。だけど、何だこれは。

父さんの『龍歌』は、苦しいほどの痛みの中にも、強さがある。どっしりとした安定感。どんなに辛くても、この人なら大丈夫だと、そう思えるからこそ、こんなに痛みが押し寄せるんじゃないかと思わせるような、根本的な強靭さが。

だけど、翠の『龍歌』は、もろい。波が打ち寄せればすぐに崩れてしまう、砂で作った山のようにはかない。足元が覚束ないのに、容れ物が弱いのに、これほどの痛みを与えられたらすぐに壊れてしまう。


翠は泣きながら『龍歌』を弾いていた。辛すぎて聴いていられない。すぐにでも止めて、抱き締めたくなる衝動に駆られた。だけど、出来なかった。こんな気の狂いそうなほどの痛みを表現している翠が、あまりに神聖で美しく感じたから、神の域に侵入して汚すようで、足が動かなかった。


どうしてこんな痛みを抱えているんだ。俺が怒鳴ったせいも、もちろんあるだろう。だけど、昴先生が言ったことを思い出した。

「翠は、してんの、失恋」
「まあ、少なくとも、本人はそう思ってんだろうな」

「翠も、辛いの」
「そりゃそうだ。長い間、苦しんでるように見える」



俺は自分が思うほど、翠のことを知らないことに気づいた。学校では小等部から同じクラスになったこともない。稽古だって別の時間だ。だから、俺の思う翠を翠全てだと思い込んで、翠に接していた。

こんな風に翠を失恋させて、痛めつけているのは誰だ。俺は見えないその相手に鋭い怒りを覚えた。


曲が終わっても、俺は暫く動けなかった。息をついて涙を拭った翠が、入り口にいる俺に先に気づいた。

「奏真?」

「あ、俺、ごめん。感動してボーッとしてた。『龍歌』……すごいな」

「そんな、まだまだだよ」

「この時期だからもっと練習が必要だろうけど、演奏力が、何て言うか、泣けて来た。やっぱり……ニ箏は翠だよ」

「ありがとう」


翠は俺の腕のあたりにぼんやりと視線を落として、弱々しく笑った。

「翠、本当にごめん。あの時俺、めちゃくちゃだった。『龍歌』のことも、父さんと翠の稽古のことも、昴先生や凪先生に聴いて納得した。俺、」

「違うの!」

翠が畳み掛けるように言う。

「私、奏真にこんなに謝って欲しくないの。私、きっと私が、例えば杏だったら、ああやって言われたときに奏真に言い返して、それで喧嘩になって、お互い言いたいことを言い合って終わりだったし、奏真にこんなに迷惑かけなかった。こんなに大きな問題にしないで済んだ。だけど私、人間関係とか、いつもうまく出来なくて」

予想をはるかに超えた答えだった。この間からどうしていつも、翠は自分を責めるんだろう。理不尽に怒鳴った俺じゃなくて、自分だけを。落ち着いている大人だなんて、俺は翠の、何を見ていたんだろう。

「そんなこと、考えてたの」

「......奏真のせいじゃないの。私、いつも、人より上手く出来ないの。奏真、相手が悪かったね」

翠はそう言って、箏柱を見つめて笑った。今にも壊れて、消えてしまいそうだ。

「それは、翠が責められることじゃないよ。翠の優しさだ。他人のようにしなくていい。翠は翠でいい。ただこれ以上、俺のしたことで自分を責めないで」


「うん。ありがとう奏真」

「......また学校で」

「うん」

翠は一度も俺に眼を合わせることをしなかった。


続きはこちら。


前回のお話はこちら。


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みおいち@着物で日本語教師のワーママ
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