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【創作】アダージョ 第12話(一応最終話)
「演奏会のトリを、奏真くんの『藍と月』でお願いします」
稽古が終わった後で、凪先生に言われた。
「俺ですか」
「そう。『龍歌』がね、凄い仕上がりになりそうなの。だけど、あれが最後だと、心がザワザワして終わってしまうから、やっぱり最後の曲は幸せに締めたくて」
翠も凄いけど、大晴も頑張っているんだな。あの翠の演奏につられないようにするなんて、至難の技だ。
「だけど、あのインパクトのある『龍歌』の後だから、余韻が長引くと思うの。相当なプレッシャーがかかる。あの後で弾けるのは奏真くんしかいないけど、出来る?奏真くん」
「もちろん、やってみせます」
正直、俺は「龍歌」の後で演奏した方が都合がいい。苦しみに悶えた「龍歌」の二箏を癒したいから。俺の想いは、気色悪いだろうか。だけど、少しでも翠の力になれるのなら、俺はこの「藍と月」を、全身全霊をかけて弾きたい。
「ふふ、良い顔になって来たね、奏真くん」
強くなりたい。翠は俺の近くにいると、また嫌な思いをするかもしれない。だけど、離れたくない。物心ついた頃から一緒にいた翠と、離れるなんて想像出来ない。だから俺が強くなって、翠を守れるようになりたい。痛みを跳ね返さないで全て吸収してしまう翠が、俺がいることで癒されるように。
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「翠、ここもう一回合わせていい?少しだけぶれる」
「あ、分かる。しっくり来ないよね」
大晴との合奏は気分が高揚する。最初の頃こそ上手く合わなかったけど、元々骨太の印象がある大晴の第一箏は、その後揺らぐことがなくなった。元気で、明るくて、少しの闇なんて瞬時に跡形なく消し去ってしまうような第一箏だ。私も気兼ねなく帳を下ろせる。
「こっちも良い顔になって来たね」
「こっちって、先生、奏真も?」
「うん。奏真くんも全力投球だよ。あのトリじゃ、下手すると他の演奏の印象が消えちゃうかな」
お母さんは意地悪く笑った。
「くそー、奏真め。させねえよ。翠、最後まで気い抜かねえで行こうな」
「もちろん!」
そんな様子に微笑んだ後、お母さんが言った。
「あ、当日はテレビの取材が入るからね」
「えー、またかよ!」
「川崎流では私と優先生以外が初めて公で弾く、しかもジュニアの『龍歌』だもん。すごい期待されてるんだよ」
「お母さん、プレッシャーかけないでよ」
「おばあちゃんに綺麗にメイクしてもらおうね。ギャラも良くってね、フフフ」
お母さんはお父さんみたいに笑った。
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慣れ親しんだ舞台袖でも、毎回ここに来ると鼓動が速くなる。俺の前にスタンバイしている翠をふと見ると、手が震えていた。
「翠」
その手を思わず掴むと、翠は少し怯んだようだ。あれから俺たちは時々、手を繋いで下校している。まだ翠は元に戻らないけれど、少しずつ歩み寄ってくれている印象もある。
「震えてたね。私、本番前はいつもそうなの」
翠が引き攣った顔で笑った。俺は翠の手を両手で握る。パートナーの大晴は、舞台裏に来た杏と話している。
「怖い?」
「うん。だけど今日は、奏真も大晴もいるから大丈夫」
「俺たちがいると違うの?」
「全然違うよ。独りの時は、泣き叫びたくなる」
「そっか。それでも頑張る翠は、本当に凄いよ。俺、ここで念を送っとくから、心配しないで」
「念って......黒魔術?」
「どうしてそうなるんだ」
時間になると、翠は大晴と一緒に、俺に微笑みかけてから出て行った。何故か自分のことのように緊張する。
2人の演奏は、凪先生と父さんの「龍歌」に似ているようで、まるで違う。先生と父さんの演奏は、強さは父さんの方にある。先生の龍は幸福でも、優しく澄んだ龍だ。
大晴と翠の龍歌は、圧倒的に大晴の演奏が強い。二匹の龍は音こそ交わり合って近くにいるのに、完全な陽と陰の極と極に位置していた。何ものにも惑わされることのない、強い光を放つ夏の太陽のような大晴と、心も体も傷だらけで悲鳴を上げている、瀕死の状態の、翠。
小さい頃、杏に話しかけながらおんぶして歩く大晴を思い出した。杏は俺より大晴によく懐いて、いつも後ろをくっついてよちよち歩いていた。大晴は元気で運動好きの子どもだったから、杏を置いて思い切り走り回りたいんじゃないかと思うのをよそに、いつも杏のペースで遊んでやっていた。
こんなに強さがありながら、安心させるような愛情があるだろうか。1歳年上なだけなのに、大晴は大人だ。
いつからだろう、大晴が杏を好きになったのは。小さい妹のような子じゃなくて、異性として。俺たちの場合、たった1歳年が違うだけでも、はるかな差だ。父さんと母さんの1歳の差とは全く違う。
下手すると姉の翠より大人びて見えると言っても、中1の杏を高1の大晴が好きでいることは、辛いことも少なくないはずだ。それなのに、この演奏からは痛みも苦しみも、微塵も感じない。夏の海辺の太陽のように幸せで、明るい。どんな想いで大晴は、杏を好きでいることについて感じる不安を、消してきたんだろうか。
翠の龍は、心が引き裂かれそうだ。苦しくて痛みに悶え、泣き叫んでいるのに、先生から継いだ清涼な音が、決してその苦しみを醜くしない。こんなに深い闇なのに、この世のものとは思えないほど美しく聴こえて、今にでも神に連れ去られて、消えてしまいそうだった。
この正反対の音が不思議と交わり合って、観客の心を捉えて離さないのが舞台袖まで伝わる。一体化した熱狂、止まない拍手。凄いな、俺の幼馴染は、本当に凄い。
「奏真、大丈夫か?」
あまりの観客の興奮ぶりに、次に出る俺を心配したんだろう。隣で父さんが不安気な顔をした。
「もちろん」
この、大晴と翠への拍手喝采は、俺を動揺させる原因にならない。何も。むしろそれで翠が喜ぶのなら、こんなに嬉しいことはない。
「そうか、強くなったな」
父さんが眩しそうに俺を見つめて笑った。
余韻があるならそれでいい。むしろその方が都合がいい。聞き手の中にまだ、龍がいるうちに。消えてしまう前に。世界は分断されない方がいい。俺の世界に無理やり、引き込まれなくていい。別のものを入れるのではなく、消えない2匹の龍と俺の藍が、月が、自然と混じって、一箏の龍の幸せを讃え、二箏の龍の痛みを癒すんだ。
太陽は沈んでも、待っているのは絶望じゃない。安らかな、穏やかな、心も身体も癒す時間を。
戻って来た大晴とハイタッチし、翠には微笑みかけて、俺は舞台へと進む。
「翠、袖で聴いていて」
「もちろん」
翠は俺の眼を見て、微笑んでくれた。
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観客の興奮がまだ収まらないうちに、奏真は弾き始めた。このざわめきが心配でたまらないのに、奏真は落ち着いている。
これは……「龍歌」の世界だ。私たちが弾いた世界が、まだ奏真の音の中にある。暴れていた二匹の龍が、ちゃんとそこにいる。大晴の音が、私の音が、奏真の中にある。どうして、どうしてこんなことが。
曲は確かに「藍と月」だ。それなのに、藍色を照らす月の明かりのもと、二匹の龍が休んでいるのが分かる。元気を使い果たした大晴の龍と、狂ったように苦しみに悶え続けた私の龍が。穏やかに安らいで、お母さんの胸で眠る赤ちゃんのように、落ち着いて眠りについている。
どうしてこんなに綺麗なんだろう。その音が、まるで私だけを助けるために存在するように聴こえて、口元を抑えた。涙が溢れて、止まらない。
なんて美しい月なんだろう。こんな壮大な自然の前では、私の苦しみなんてちっぽけで、悩んでいたことが馬鹿みたいだって思える。まるで私に刺さって膿み、ジクジクと痛みを与え続けていた数多くの矢が全て、跡形もなく消え去ってしまったようだ。この音を、もっと、ずっと、近くで聴いていたい。
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袖に戻ると、興奮した大晴にすごい力で抱きつかれた。
「すげえわ、奏真、何なのお前」
翠は号泣どころの騒ぎじゃなかった。
「翠、泣きすぎ」
「私、の、泣き虫は、お母さん、の、」
「何言ってっかわかんねぇし」
大晴が笑って茶化す中、凪先生も泣いているのが見えた。
「本当に凄かったよ。『藍と月』が、『龍歌』と繋がっているように、まるで一つの曲のように聴こえた。本当に、素晴らしかったよ、3人とも」
父さんは赤い眼をしてただ、微笑んでいた。
「そろそろ離してくれる、大晴。俺、翠を抱きしめたいんだけど」
「それはセクハラって言うんだ、天然め。晃輝先生に殺されるぞ」
「てか撮られてるけど、いいの?」
テレビのクルーらしき人が、大晴に抱きつかれている俺を撮っている。
「なんか、昔を思い出すな」
父さんがしみじみ言うと、昴先生が父さんの肩を抱き、ニヤリと笑って言った。
「今も抱きついてやろうか」
「冗談言うな、昴。ジュニアに負けるぞ。俺達の演奏は、これからだ」
(完)
あのぅ、す、すみません。
まだ続きますが、一旦締めます。
前回のお話はこちら。
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