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アダージョ 第7話
小さい頃から何度も来ている川崎流の離れの2階。翠の部屋のドアをノックした。
「翠?俺、奏真。さっきはごめん、謝りに来たんだ」
ドアの前で話しかける。部屋の中からかすかに話し声がする。昴先生はここからは関与するつもりが無いのか、廊下にもたれかかって腕を組んでいた。
「翠、顔を見て謝りたいから、ドアを開けて」
また何か話し声がして、暫くするとドアが開き、凪先生が出て来た。
「奏真くん、来てくれたの、ありがとね。せっかくだけど翠、今めちゃくちゃで話せる状況じゃないの」
先生は、怒ってないよ、とでも言いた気に優しく笑った。服が濡れていて、皺が依っている。
「翠、まだ泣いてるの」
胸がギュッと絞られたように痛む。
「うん、さっきまで落ち着いてたんだけど、奏真くんが謝りに来たって聞いて、またちょっとね。翠、私に似ちゃって泣き虫だから」
「泣き虫?翠が?」
信じられない。落ち着いていて、大人の翠が。
「そうだよ。私の子どもの中で、一番泣き虫」
凪先生は笑って続けた。
「今、翠、顔酷くて見られたくないみたいだから、ごめんね、会わせられないけど、翠に聞こえるようにドアを開けておくね。翠ね、奏真くんにずっと、謝りたいって言ってるの」
「翠が?どうして?謝るのは俺の方なのに」
「優先生との大切な時間を、奏真くんからずっと取っちゃってたのに、そのことを気にも留めなかった、って言ってるの。翠もお父さんが大好きで、自分がそうされたら寂しい気持ちになるに決まってるのに、って。だからね、後悔して、それで泣いてるの」
どうしてそういう思考になるんだ。俺が責められて当然なのに、どうして自分の方を責めるんだ。俺は思わず大声で叫んだ。
「違うよ翠!悪いのは俺だ!考えなかったのは俺の方だ!俺、翠を突き飛ばしたし、自分のイライラを翠に当てたんだ。翠は被害者だ。何も悪くない!」
部屋から啜り泣くような声がした。心臓が縮んだように痛んで、目の辺りが熱くなる。
「翠!」
「おっと」
部屋に入ろうとした俺の腕を、昴先生が掴んで止めた。
「また泣いちゃったね。ごめんね、入らないであげて。翠、奏真くんを傷つけるから『龍歌』は弾かないって言ってるけど、どうする?まだプログラムは変えられるから、奏真くんが辛いなら、そうまでして『龍歌』に拘る必要はないと思うの」
「え、でも先生、お客様からの要望なんでしょう?」
「うん。だけどね、奏真くんを苦しめてまで、やらなくてもいいの。他にもたくさん素敵な曲はあるんだし」
「俺は、昴先生から聞いて、『龍歌』のことは納得しました。だから今は、大晴と翠の『龍歌』が聴きたい。......酷いこと言って、勝手でごめん、翠!だけど、弾いてよ!俺も『藍と月』を頑張るから!」
翠が泣いている声が聞こえる。胸の辺りから両手の小指までジクジクする。部屋に入って抱きしめたい。だけど昴先生に抑えられていて、身動きが出来ない。
「明日、また学校で、ちゃんと会って謝りたい。本当にごめん、翠」
「ありがとうね、奏真くん」
凪先生は俺にそう言った後、翠に話しかけた。
「翠、お母さん奏真くんと話したいから、少し離れるね」
そう言ってドアを閉めると、俺たちをリビングに連れて行った。かすかにバイオリンの音が聞こえる。この曲は、何だったかな。確かバッハの2つのバイオリンが、何とかいう協奏曲だ。晃輝先生と杏が、どこかで合奏しているんだろう。
「奏真くん、優先生が翠と旭の講師になったことだけど、本当は優先生に何度頼んでも、了承して貰えなかったの。家族との時間を大切にしたいから、って。だからね、優先生は奏真くんや由乃ちゃんのことを、本当に大事に想ってるの」
俺たちに座るように促し、紅茶を淹れてくれる。
「じゃあ優成はどうしてオッケーしたんすか」
「聞きたい?ふふふ」
紺と青の中間のような色をした、美しいティーカップに淹れた香りの良い紅茶を出してくれて、ニヤリと先生が笑った。
「やべ、黒い顔になった。気をつけろよ奏真」
俺は慌てて質問を返す。
「気をつけろって言われても、何を」
「心の準備だ」
先生は自分も座り、ティーカップに手をかけて一口飲んだ。先生のティーカップには嬉しそうに笑うラッコが描かれている。先生はラッコが好きだな。確か帯飾りもラッコだった。
「私ね、翠や旭が、私が教えても甘えが出るようになっちゃった時、大御所の先生方も主婦の先生方も空いてなくて、本当に困ったの」
「だから俺が教えると言ったのに」
「昴くんはウッヒョー!とか、キョエー!とか、訳わかんないもの」
「俺は天才肌っすからね」
昴先生は楽しそうに笑って紅茶を飲んだ。
「本当はもう少しレベルが下の先生なら空いていたんだけど、私も自分の子が可愛いし、家を継ぐ人になるかもしれないから、どうしても有能な先生にお願いしたかったの。それでね」
そこで先生はことばを切って、また紅茶を飲んだ。
「一華ちゃんを買収して、優成くんを説得してもらったの」
「......は?」
誰が、誰を買収したって?
「あのね、優成くんの写真集を出すために撮り溜めた秘蔵の写真とか、YouTubeの没になったのとか、あげるからって言ったの」
「......え?」
思考が追いつかない。母さんが、先生側にいたってこと?
「主にね、昴くんが優成くんに抱きついてる写真とか、動画とか、晃輝さんと優成くんがじゃれてる(?)写真とか。そう言ったら、一華ちゃん、速攻で優成くんを説得してくれたの。頭いいでしょ」
「......は?」
「何だよ、俺に抱きつかれてるところが見たいんだったら、いつだって一華ちゃんの前で優成に抱きつくのに」
「やだな、昴くん。20代だからいいんだよー」
「賞味期限切れって訳か」
2人はケラケラと笑って楽しそうだけど、こっちは笑い事じゃない。
「そんな要らない映像を、母さん欲しがったんですか」
「ふふふ、それがね、没になったものも、プロのカメラマンの井口さんが綺麗に編集したから、すごいラブラブな感じに仕上がってるの!」
昴先生が面白そうに質問する。
「ラブラブって、誰と誰が」
「あのね、主に優成くんと昴くん。ときどき優成くんと晃輝さん。三角関係みたいなのもあるよ」
何だか頭が痛くなって来た。
「......そんなの見て面白いんですか」
「うん。秘密の花園だよー」
「それで、母さんは父さん本人を売って、映像を貰ったの?……意味が分かりません」
俺は思わず頭を抱えた。
「てか井口さん、よく編集してくれましたね」
「あ、もっと聞きたい?晃輝さんがいつか脅し、じゃなくて、何かの交渉の材料になるからって、井口さんのことも買収したの」
「......は?」
「井口さんも優成くんのファンだからね、川崎流に来たばかりの頃の優成くんの秘蔵写真を、どっさりとあげたら、喜んでやってくれたの」
「......何だか俺、父さんが可哀想になってきた」
「ふふふ、これからは君たちの時代だよ、箏界のプリンスの息子くん」
俺の先生がこんな変な人だとは。呆れて文句も言えない。隣でゲラゲラ笑ってる昴先生に聞いてみる。
「......ねえ、何で川崎流って、こんな黒いの?」
「そりゃ勿論、晃輝先生の影響だろ。俺が来た頃はこんなじゃなかった。これからますます黒くなるぞ」
昴先生にラーメン屋で夕食を食べさせてもらって、帰宅したら父さんはお風呂に入っていた。由乃はもう寝たのか、リビングにいない。それで、母さんを責めようと秘蔵の映像や写真の話をしたら、母さんはたちまち大喜びしてしまった。
「奏真も見たい?見たいよね!」
いつもよりもずっと高い声で、興奮して目をキラキラさせている。
「いや、俺は」
「座って座って!家宝として取っといてあるの!」
そう言って有無を言わせず、若い頃の父さんの写真を動画にしたものからまず、テレビで見させられた。ご丁寧に、何やら妖艶なBGMまでついている。
「私のお気に入りはね、これなんだけど!昴君がお父さんを後ろから抱き締めて泣いてるの!素敵でしょ!」
何なの母さん。何で自分の夫が他の男とイチャイチャしているところが見たいんだ。可愛い顔して、母さんも変だ。女の人って本当、訳が分からない。
「それで次がね!晃輝先生とお父さんなんだけど、見て見て奏真!」
……これは暫く、終わりそうにないな。
続きはこちら。
前回のお話はこちら。
第1話はこちら。
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