134.形式だからといって従っていると、その形式から出られなくなるよ
忖度や物怖じをせずにはっきりとものを言う娘(うたちゃん)について、同学年の息子のいるママ友、えりちゃんと話していたときだった。
えりちゃんは、娘の保育園時代からのともだちなので、相当長いつきあいだ。お互いの子どもたちが4、5歳の頃に知り合っていると思うので、もう7年とか8年とかか。ほとんどママ友がいないわたしにしては珍しく「会いたいな」とか「話したいな」と思うひとで、不思議なことに彼女とはそう思ったタイミングでばったり会うことが多い。
保育園つながりなので、近所かというとそうでもない。わたしはとっくに当時の保育園からは一駅離れた場所に引っ越していて、最寄駅も生活圏もちがう。なのに、なぜかお互いあまり使わない道で会ったり、電車の中で会ったりするので、勝手に「縁があるんだろうな」って思ってる。あと、顔が好き。
そう、そのえりちゃんと今日は久しぶりに用事があってお互いの中間地点のファミレスで会っていて、うたちゃんの話になったときだった。
「そう、だから、うたちゃんはそのまんまって感じ。いつでも言うべきことを言うっていうか。誰に似たんだろう、わたしにはとても真似できないよ」
「そうかなあ? みおっちも、言いたいこと言ってるんじゃない?」
「いやー、言わない言わない。言いたくなるような相手には、まず近寄らないし」
「ああ、なるほど」
「このひとはめんどうだな、と思うひとには近寄らないよ」
「それならわかるよ。だってみおっちは、ひとに合わせているようには見えない」
と言われて、そっか、ひとから見える自分はそうなんだな、と思った。
言いたいことを言わずにはおれない、というのはうたちゃんの今のところの資質であり、戦略であるのと同様に、わたしは忖度をしない代わりに、忖度が必要そうなところには属さない、というタイプであるということ。
なるほど、交友関係がせまくなるわけだ...。仕方がない。いや、でももっと広めてみようか。いろんなところに顔を出してみたりして。いやいやいや。なぜだよ。note書く時間がなくなっちゃうじゃんか(そこかよ)。
今日はいっぱいしゃべった。し、午前中はかんちゃんの練習試合だったので大声で応援したりして、なんか発散した!という感じ。めずらしく声も枯れた。えりちゃんとは3時間くらいおしゃべりしてたんだけど、やっぱり話すほうより聞くほうが好きだな、と思った。
聞く、をやっているとき、利き手を使っている感覚で自由が利く。自在に、多層的に自分の知覚をめいっぱい使ってそれをやっている感じがする。対して、話す、をやっているときは、使い慣れない左手でいっしょうけんめい字を書いているようなもどかしさがある。
右手だったら、もっと繊細な線も書けるしダイナミックな筆づかいもできて、自分らしい表現に近づいている喜びを得られるのに。左手だから、なんだかうまくいかない。もっとまっすぐに、もっとやわらかく、もっと核心に触れたものを外に出してみたいのに、と。
書くこと、と同じくらいに話すこと、を自分のものにしてみたい。
話すこと、にも、書くことと同じくらいの魔法を感じてみたい。ちょっと、その方法については今はまだ未知だけど。
その魔法と喜びは、じつは同じものははずなのだ。
書いていて楽しいのは、(今日もそうだけれど)自分がまさかこんなことを書くとは思わなかった!ということが書けた日だ。そんな日は、ああ、書けた...!と思う。その喜びだけがひたひたと胸にあって、スキとかPVとかも気にならないっていうか、存在を忘れる。
自分がなにを書くのか予想できたら意味はないし、予定調和ではない世界しかおもしろくはない。なぜ多くのひとがパートナーの愚痴や不満を聞くのがおもしろくなくて苦痛か、というと、予定調和だからだ。
きのう言っていたことを、今日も言っていて、明日もおそらく言っているだろう。と思うことを熱心に聞くのはむつかしい(でも、ケースバイケース。何十回も何百回も繰り返す同じ話を、本気で聞く必要があるときもある)。
話しているとき、わたしが自分に感じる不自由さは、話しながら、”予定調和”じゃない、”死骸”じゃない言葉を発することを、安全な場所で繰り返してこなかった弊害かもしれない。
話し言葉のほうが、形式にしばられやすい傾向を持つ。たとえば、仕事で会ったひととはアイスブレイクですら形式であり、子どもを介したつながりの中では子どもの悩みや短所(誇れるところや長所ではなく)をフックにしてお互い安心して「ねえ」「そうだよねえ」を醸造していくのが形式だ。
わたしは長年、ほんとうに何十年も、外側のやりとり(立ち話、飲み会、打ち合わせ、打ち上げ、合コン、保護者会、面談、面接など、ありとあらゆる集まり)においてはただただ形式に従ってきたので、「聞く(そして観察する)」という知覚は磨くことができたけれど、インタラクティブなやりとりにおいて、自分の発する「話し言葉」はあえて”形式”にあてはめていたのだった。
さっき、気になったので、自分のメモ帳で”形式”と検索したら、
形式だからと言って従っていると、本人が形式から出られなくなります。
というマツキヨ先生の言葉が出てきた(ずいぶん前の彼のブログから、わたしが引用したものだろう)。
形式だからと言って従っていたから、そこから出られなくなってつまらなくなってやめてしまった良い例が、わたしにとって「話す」ということだったのだ。
そしてここまで書いていてもうひとつ、すごくわかったことがある。わたしは、べつにだれになんて思われてもいいから書くけど、趣味が「デート」だ。デートとは、異性と1対1で会って、いろんな時間や体験を共有するということなのだけれど、どうやらみんなはそんなにデートが好きではないみたいだし、どうも大っぴらに「趣味はデートです」とか、「休日にはデートしてます」って答えるのもいかがなものかという風潮だ。でも、わたしにとってすごく大事なことなので、「なぜなのだろう?そんなにちやほやされていないと生きていけないビッチなのだろうか?」と悩んだ時期もあったけど、これを書いていてすごくよくわかった。
わたしにとって、唯一、形式化されていない「インタラクティブな会話」ができるのが、男性と1対1で会っているというシチュエーションなのだった。なるほどなあ。やっぱり、必要性に迫られた行為というものは、自分にとっては深い意味があるものなんだなあ。
「話す」を自分の形式の枠の中からもっと自由にしていくこと、という突如現れたこのテーマを、2020年後半はもっと深めてみたいな。いつも自分がコーチング・カウンセリング・セッション、する側だし、受けるときもしゃべらないで済むツールを選んでいるんだけれど、思いきって「とにかく話す」という方向に振れてみてもいいのかもしれない。
まだまだ自分の中に使いこなせていない要素があるなら、それを使ってみたいし、それを使いこなしている自分を見てみたい。
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