わたしはわたしをやめようとおもう
つい先日、Facebookに投稿したら、友人から「久しぶり」というコメントが入った。
そうだったか。久しぶりだったか。そうかもしれない。
ここのところ、1日に4件くらいコーチングのセッションをする日もあれば、映画に行ったり、結婚17周年の記念日にはハチと八景島シーパラダイス(初めて!)に遊びに行ったり、お友だちとランチをしたり、ヘアアイロンをつけっぱなしで外出してあわてて戻ったり、1992年に観て以来の4度目の再演である松尾スズキさんの『ふくすけ』を観に行ったりと、
要するにわたしが所属しているこの「見えている、現実の世界」での活動がなんだか多忙で、わたしの魂が属している「見えていない、真実の世界」での表現がぴたっと止まっていたということだった。
ちなみにわたしにとって「書く」ことは、「見えていない、真実の世界」のエッセンスを、「見えている、現実の世界」にそっと差し出すような作業なので、あまりにも現実活動が忙しくなると、そのバランスが崩れるみたいです。はい。
書く、って結局のところ、みんなにさよならして、美しい景色とも楽しいレジャーともおいしい食べ物ともはなれて、ひとりで机に向かって行う行為だからな。
でも、そこが好き。
それがいちばん好きなところ。
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「これがわたし」「これぞわたし」とでもいうべき性質や特質、個性というものが誰しもにある。それこそが、そのひとをそのひとだけの人生へとドライブする原動力になっているもの。そしてもしかすると、この世界を生き延びるためのサバイバル能力ともいえるもの。
最初はたしかに純粋な個性だったはずなのに、サバイバルがかかってくるとちょっとずつおかしなことになってくる。
絵が上手い、といわれて「そうか、わたしは絵が上手いんだ」と自分の個性を認識して、それによってなにかしらの評価や賞賛や関心が得られるようになったとき、その個性の純度が100%から99%になって、1%の”狙い”みたいなものが入ってくる。
ほんの1%なのに、その”狙って描いた絵”というものの存在が、本人をすこしずつ蝕んでいってしまう。気づかないくらいのゆっくりさで、じわじわと。
そうやって蝕まれたひとたちの描くもの、書くもの、表現するものは、”狙い”というものが入っているので、純度は低いんだけれども、狙っているだけあって、特定の層にはたいへんに響いたりもする。
「これがわたし」「これこそが、ザ・わたし!」と、めいっぱい純粋で生命エネルギーと喜びに満ち溢れていたその場所から離れれば離れるほど、サバイバル能力は高まり、魂は蝕まれていくのだと思う。
でも、もう、”狙って”表現されたものは、そのはしばしから”狙い”がだだもれるようになってきているし、さらに世界中のひとたちの真心というべきものが、”狙っているもの”ではなくて、”〇〇風のもの”ではなくって、「ほんとうにほんとうの本物」を心底求めはじめているので、だんだんとそういったものは、なくなっていくのだと思う。
そんなわけで、わたしはここ最近ずっとずっと「もっといろいろなことをシンプルにしたい」と思い続けていて、はっ!としながらたどりついた結論が
わたしはもう、この”わたし”をやめたいんだなあ!
というものだった。
シンプルにしたい、とばかり思っていたので、なにかを減らすとか、工程を削ぎ落とすとか、そんなことなのか?と要素分解しながら考えていたら、なんのことはなかった。
わたしはわたしにうんざりしていて、やめたいだけだった。
ちゃんとした風のわたし。いいひと風なわたし。かしこい風のわたし。気前いい風のわたし。
どれもなにもかもがうそっぱちだったことがわかって、情けなくてちょびっと涙したあと、へらっと笑えてきた。
なので、もうわたしはわたしをやめることにした。
そう思ったら、実際に言葉にしてみたら、最高に心が軽くなって、ただ机の前に座ってパソコンを見ているだけなのに、爽やかな風に運ばれて青々とした海の広がるビーチにワープしたみたいな気持ちになった。
ひとってほんとうに自由で、心はいつも無限なんだ。
わたしは自分について自分が思っていたことのすべてから、わたし自身を解き放ってあげよう。
たぶんそれこそが、世界を救うということなんだ。
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